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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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2023年11月の記事一覧

葉隠~「武士道とは死ぬことと見つけたり」

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という部分だけが有名ですが、決して「死を推奨」している訳ではありません。奥義としては、常に死を意識しながら生きていくことで(常住死身)、行いが「正しく」、知も充実し、人様のお役にも立てるということだと思います。では、少々長くなりますが、まずは概要から。 ■葉隠とは ・この書は、1700年頃鍋島藩(佐賀)で主君鍋島光茂が亡くなった後に出家した藩士山本常朝が隠遁生活を送っている最中に、常朝を慕う若い藩士田代陣基が常朝を訪れ、その時常朝が語った

貞慶『法相初心略要』現代語訳(五)阿頼耶識の認識対象、我法二空について

凡例底本としては『大日本仏教全書』第八〇巻(仏書刊行会、1915)を用い、訓点や文意の確認のため適宜京大所蔵本を参照した。 ()は補足、[]は文意を補うための補足で、いずれも筆者の挿入である。 〈〉は原文中の注や割書を示す。 心が対象を認識する時の表象(行相)の事 『[成]唯識論』に云く、「[確かに、外界に物質的存在は実在せず、認識対象とはならないだろう。しかし、他者の心は実在するだろう。どうして実在する他者の心を認識対象としないことがあろうか。] [答える。誰が他者の

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第1058回「天地いっぱいのいのち」

無門関を講義していて、第八則の奚仲造車の公案を学んでいました。 これは月庵善果という方が修行僧に出された問題です。 月庵という方は、五祖法演禅師のお弟子のお弟子に当たる方であります。 そしてまた『無門関』を編纂された無門慧開禅師の師匠の師匠のそのまた師匠に当たる方でいらっしゃいます。 「車の発明者と伝えられる奚仲は、百幅の車をこしらえたが、左右の車輪を取り除き、軸を取り外してしまった。さて、何を明かしたのだろうか」という問題を修行僧に投げかけたのでした。 両輪と車軸を取り除いて何が残ると思うかと、うちの修行僧に聞くと、荷台が残りますと答えていましたが、両輪と車軸で車だとするので、左と右の車輪を除いて、更にその真ん中を貫く軸も取り除くと、形の上ではなにも残らないのであります。 私たちも四大という要素から成り立つと古来考えられてきました。 地水火風の四つです。 骨や肉は地の要素であり、血や汗や体液は水の要素、体温は火の要素、呼吸などの動きは風の要素です。 この地水火風四つの元素が、調和がとれていると健康体であり、この調和が乱れると病気になります。 私どもお寺では今でも体の具合のよくないことを「四大不調」と言っています。 四つの元素が集まって整っている状態が生きていることであり、バラバラになると死を意味します。 古来から仏教では死について誤った二つの考えがあるとされてきました。 ひとつは「断見」といって、死んだら何も残らない、それっきりだという考えです。 死んで灰になったらそれっきりだというのです。 唯物論とでも申しましょうか。これは寂しいものです。 こんな考えで私たちは心の安らぎが得られるわけはありません。 「断見」はいけません。 そうかといってこんどは「常見」といって、この私は死んでもずっと永遠に残るという考えです。 肉体から魂が抜け出て、永遠に生き続けるという考えで、多くの宗教はこの考えに基づいています。 しかしお釈迦様はこれもまた誤った見解だと教えます。 そこで昔からあると見るのも迷い、ないと見るのも迷い、あるようでない、無いようであるなどと分かったような分からぬ事を申します。 お釈迦様の教えの基本は「無常であり、無我である」ことです。 無常とは移り変わるのです。無我とは我という固定したものは無いという教えです。 いろんな因縁、条件やご縁が重なって一時こうしてあるように見える、また移り変わってゆきます。 曹洞宗の内山興正老師は、生死をこのように詠います。 「手桶に水を汲むことによって 水が生じたのではない 天地一杯の水が 手桶に汲み取られたのだ 手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって 水が無くなったのではない 天地一杯の水が 天地一杯の中に ばら撒かれたのだ 人は生まれることによって 生命を生じたのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに 汲みとられたのだ 人は死ぬことによって 生命が無くなるのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ(『大空が語りかける 興正法句詩抄』内山興正 より) この天地一杯の生命を朝比奈宗源老師は「仏心」と喚びました。 そしてこのように喝破されました。 「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。 生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。 私どもは皆仏心の一滴である。 一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。 仏心の他には大宇宙の中に、蟻のひげ一本も存在しない。 人は特定の神仏を信ずる以前に成仏している。 絶対清らかな仏心の上には人間のいかなる過ちもその影をとどめぬ。 永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている。 仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかである。 これが私たちの心の大本である。 仏心の中に生き死にはない。いつも生き通しである。 人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。 生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、仏心とは一秒時も離れていない。」と。 無常であり無我であることを朝比奈老師のたとえで申しますと、大海に浮かぶ泡のようなものですから、永遠不滅の泡があるわけではなく、無常なのです。 大きい泡もあれば小さい泡もあります。 一瞬のうちに消えてしまう泡もあれば、長らく浮かんでから消える泡もございます。 その浮かんでは消える様子はまさしく無常です。 変わらない形のままの泡があるわけではありません。 一時そのような泡であるだけです。これを無我というのです。 この常に移り変わりゆく泡を永遠に有り続けると考えることが迷いです。 泡の形が一定して変わらずに有り続けると考えるのが迷いなのです。 恐れや悩みや苦しみは、この迷いからおこります。 お釈迦様はこの無常であること、無我であることをよく見つめてそこから本当の心の安らぎ、涅槃を得なさいと教えられました。 小池心叟老師は『無門関提唱』の中で、この奚仲造車の公案について、 「われわれの肉体というものを車にたとえて、何もかも取り外して、さてあとに何が残るか。 人間百年も二百年も生きるわけじゃない。 たかだかせいぜい七、八十年。 この七、八十年の寿命しかない自分をバラバラにして、何もかも取り去ったらあとには何が残るか。 じっくり坐って本当に何にもない空の世界にひたってみることです。 何にもなくなってしまった境界。一切皆空です。 こういう境地に一度自分で目覚めてみることです。 それには坐禅、こんな屁理屈を述べるよりも、皆さんがじっくり坐って、ムーッという無の世界、空の世界に自分がひたってみることです。」 と提唱なされています。 ここに言う空の世界は、広い広い、自他の区別も、生じることも滅することもない仏心の世界であり、天地いっぱいの命でもあるのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1057回「禅は日常の営みにこそ」

十一月も二十日から二十六日まで摂心という修行期間でありました。 その折には、毎日『無門関』の講義をしていました。 第七則は、趙州洗鉢という公案です。 この本文は、短いものです。 ある僧が、趙州和尚に聞きました。 私は、まだ修行道場に入ったばかりのものです、どうかご教示をお願いしますと。 すると趙州和尚は、お粥は食べましたかと聞きました。 これでは問いに対する答えにはなっていません。 不思議に思いながらも修行僧は、はい食べましたと答えます。 すると趙州和尚は、食器を洗いにゆきなさいと言ったのでした。 この言葉を聞いてハッと気がつくところがあったのでした。 問題はこれだけなのです。 それに対して無門慧開禅師は次のように批評しています。 「趙州は口を開くや、はらわたをさらけ出した。 この僧はちゃんと理解することができず、鐘を甕とよんでいる」。 というのです。 この問題を学ぶには、なんといっても馬祖禅師の教えを理解しておくことが必要です。 馬祖禅師の教えについては、駒澤大学の小川隆先生は、『禅思想史講義』(春秋社)のなかで分りやすく説いてくださっています。 馬祖禅師の教えを (1) 「即心是仏」、(2)「作用即性」、(3) 「平常無事」の三点に整理してくださっています。 しかし、「これらは実際にはひとつの考え」だというのであります。 そこで「すなわち、自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、」ということになるのです。 小川先生は「本来性と現実態を無媒介に等置し、ありのままの自己をありのままに是認する、それが馬祖禅の基本精神であったと言えるでしょう」と述べてくださっています。 『馬祖の語録』(禅文化研究所)では、 「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。 もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。」 と説かれています。 このあたりが、馬祖禅師の教えの特色であります。 聖なるものを求めて修行してゆくというのではないのです。 聖なるものを目指すこと、いやむしろ、現実を俗なるものとみて聖なるものがどこかにあると思うこと、聖なるものと俗なるものとを分けること自体が間違いだというのです。 この現実を俗なるものとみて、そこから結界をつけて、聖なるものと区分して考える教えが仏教では一般的であります。 世俗と離れた格別の修行をして、高い心境に達するように目指すものです。 これはこれで尊い教えでありますし、多くの方に信仰されてゆくものです。 しかし、馬祖禅師は、そのような考えを否定して、日常の暮らしのままが仏そのものであると説かれたのであります。 もっとも馬祖禅師は長い修行を経てそのような心境に達したのでありますが、ありのままでよいのだと説かれたのです。 そこで、入りたての修行僧にお粥を食べたかと問うたのは、まさしくそこに仏道のすべてがすでに現れているのであります。 問いに対する答えになっていないのではないかという疑問を持ちながら、修行僧は食べましたと答えたのですが、趙州和尚は、更にそれでは鉢を洗いにゆきなさいと示したのでした。 小川隆先生は、『語録のことば』(禅文化研究所)のなかで次のように説かれています。 「さて、自分のたずねたことはどうなったのだろう、 不審に思いながらも僧は答える、「もういただきました」。 趙州、「ならば鉢盂を洗いに行くがよい」。 「鉢盂」は持鉢、応量器。 「~去」は、~しにゆけ、という文型で、「洗い去れ」と訓読はするが、「忘れ去る」などというのとは別で、単に「洗いに行け」ということ。 ちなみに同じ趙州の語として名高い「喫茶去」も「お茶をおあがり」ではなく、「茶を飲みにゆけ(下がって茶でも飲んでまいれ)」。」 と説かれています。 応量器を洗いに行けというと、私など修行道場で暮らす者は違和感を覚えます。 今でも修行道場では、自分で応量器を持っていて、自分で食事を済ませたら、その場でお湯をいただいて、沢庵を使ったり、指ですすぐのです。 そして布巾で拭いて、かたづけてしまうのです。 わざわざ流しに洗いに行ったりはしないのです。 それに対して小川先生は、 「後世、清規の整備された時代なら、応量器は食べたその場で洗うのかも知れないが、『景徳伝灯録』 に 10は「一僧、鉢を洗う次、師乃ち鉢を奪却う」(巻八・南泉普願章)とか、 「師、鉢を洗う次、両の鳥の蝦蟇を争いあうを見る」(巻一五・洞山良价章)といった問答がある。 おそらく唐代では、なお洗い場ーたぶん屋外の井戸ばたや川べりなどーでめいめいが適宜に食器を洗っていたのであり、それで趙州も「洗いに去け」と言ったのであろう。」 と説かれているのです。 その例として、『景徳伝灯録』巻八、南泉禅師の章に、 「一僧、洗鉢の次で、師乃ち鉢を奪却す。 その僧、空手にして立つ。 師云く、鉢は我が手裏に在り。汝は口喃喃として作麼かせん。 僧、対うること無し。」 という問答があるのです。 ある僧が、鉢を洗っているときに、南泉和尚がその鉢を奪ったというのです。 その僧が鉢を取られて何も持たずに立っていて、南泉和尚は鉢は私の手にあるのに、あなたは口でぶつぶつ言ってどうしようというのだと言われました、 その僧は答えることができなかったという問答です。 修行僧が鉢を洗っているところで、南泉禅師がその鉢を奪い取るという場面があるのです。 それから、『景徳伝灯録』の巻十五、洞山の章に、 「師鉢を洗う次いで、両烏の蝦蟇を争うを見る。僧有って便ち問うて曰く、這箇は什麼に因りてか恁麼地に到る。 師曰く、只闍梨が為なり」 という問答があります。 洞山禅師が鉢を洗っているときに、二羽の烏が蝦蟇を取り合っているのを目にしたのでした。 僧が、どうしてこんなことにまでなっているのかと問うと、洞山禅師は「ひとえにあなたに見せるためだ」と答えたというのです。 鉢を洗っていると、二羽の烏が蝦蟇を取り合っているというのを見たというのですから、これは屋外だと思われるのであります。 今私たちが修行道場で、自分でそのまま鉢を洗っているから、どこかに洗いに行くことではないと考えてしまうのは、まだ浅い物の見方なのであります。 その時代はどうだったのかを考えるべきなのであります。 それはそうと、この趙州和尚の入りたての修行僧に対するお示しを読むと、まさに禅は、日常のあたり前の営みにこそ生きていると学ぶことができるのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第1055回「迦葉尊者の役割」

お釈迦さまがいよいよお亡くなりになると聞いて、迦葉尊者は旅路を急ぎました。 迦葉尊者が、お釈迦さまの涅槃に入ったのを知ったのは、五百人の弟子たちを伴ってパーヴァーからクシナガラにおもむく途中のことでした。 パーヴァーの都を出たところで、迦葉尊者の一行は一人の遊行者に出会いました。 遊行者は花を手にしていました。 迦葉尊者はこの遊行者に、「どこから来たのか」と問うと、「クシナガラから」と言います。 迦葉尊者がお釈迦さまの消息を尋ねると、 「すでに七日前、城外の沙羅双樹の間で涅槃にお入りになった。この花はその遺骸の前に供えられた献花のうちの一本である」というのです。 迦葉尊者は、残念なことにお釈迦さまが涅槃に入るのに間に合わなかったのでした。 しかし迦葉尊者は、世の無常を悟っているので、涙を見せなかったのでした。 多くの弟子達は嘆き悲しむのですが、そのなかに、ただ一人、 「なぜに泣くのか。われらはここに、自由となったことをむしろ喜びたい。 あの口うるさき大沙門から解放されたことの嬉しさよ」 という者がいたのでした。 それはまだ仏教教団に入って間もない弟子だったのでした。 迦葉尊者は、そんな言葉を聞いて、胸の割かれる思いがしました。 このような弟子が多いと、この教団もいつかは分裂して滅びるだろうと思ったからでした。 迦葉尊者の一行がクシナガラに到着しました。 実はそれまで遺体は多くの比丘たちにより荼毘に付されようとしましたが、何度火を点じてもその火が消えてしまうのでした。 これは亡きお釈迦さまが、迦葉尊者の到着を待ってのことであろうとして、転輪聖王の葬法に従って、遺体は金棺の中におさめられ安置されていたのでした。 そこで迦葉尊者はその金棺の前に進み、深く幾度も礼し、合掌し奉り、さすがの迦葉尊者もまたここにおいてはじめて鳴咽しました。 そして棺の周囲をめぐること一度、二度、 さらに三度、ぬかずき拝してひとつの詩を献じたのでした。 迦葉尊者が頌を献じて、ようやく火がつきました。 今度、火は消えることなく燃えあがり、一瞬にして棺をこの中に包み込んだのでした。 そして火が消えると、そこに仏舎利だけが残されていました。 舎利を争って得ようとしていたので、バラモンドーナが、調停して八つに分けたのでした。 「クシナガラのマッラ族、パーパのマッラ族、チャラカルパのブラ族、ヴィシヌ島のバラモン、ラーマのクラウディヤ族、ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァストウのシャカ族、マガダの大臣ヴァルシャーカーラとそれぞれに、八ヵ国の王使の人びとに分け与えました。 人びとは悲しみのうちにこれを持ち帰り、それぞれの故国に塔を造り、これをお祀りしました。 そして調停した婆羅門ドーナは仏舎利の入れてあった瓶を持ち帰って瓶塔を建立し、さらに火葬場の灰は遅参したマウリヤ族が得て塔を建てました。 かくしてここに、釈尊涅槃の十塔が供養造塔されました。 この中にシャカ族にも分布されたと明記されているので、あのシャカ族の滅亡からも逃げ得た者たちがいたのでした。 シャカ族に分布された仏舎利は、不思議なご縁で日本に請来されているのです。 1898年(明治31年) インドのピプラーワー村(仏陀の生まれたカピラヴァストゥの跡という説もあり)イギリ人ウィリアム・C・ペッペによって水晶製の舎利容器が発掘されたのでした。 その容器に刻まれた古代文字の解読にも成功しました。 そこでそれがお釈迦さまのご遺骨であることが判明したのでした。 この舎利が、1899年(明治32年)英国からシャム国(現在のタイ王国)へ譲渡されました。 更に1900年(明治33年) シャム国国王ラマ五世(ラーマ5世)から日本国民へ贈られたのでした。 1904年(明治37年) 舎利と黄金の釈迦像を奉安するため、覚王山日暹寺(にっせんじ)が創建されました。 それが1949年(昭和24年)シャム国がタイ王国へと改名したのに合わせて日泰寺に改名したのです。 各宗派の管長が持ち回りで住職を勤めることになっていて、私も三十三代目の住職を勤めたのでありました。 さて、迦葉尊者は、お釈迦さまがお亡くなりになって、やれやれと喜んでいる者がいることに驚いて、お釈迦さまの教えをまとめるようにしました。 これが「結集」であります。 結集は「比丘たちが集まってブッダの教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集すること」であり「聖典編纂会議」のことです。 最初の結集はお釈迦さまがお亡くなりになってから九十日ほどの後でありました。 場所は竹林精舎に近いピッパリー石窟でした。 阿難が経蔵を誦出し、優波離が律蔵を誦出し、結集の上首である大迦葉がこれを総監督して、これらの一つ一つを諸比丘に諮問し、滞ることなく、まるで水の流れるようにこの大業は完了しました。 その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後百年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、ヴァイシャーリーで700人の比丘を集めて開かれたとされています。これが第二結集です。 滅後二百年にアショーカ王の治下、パータリプトラで千人の比丘を集めて行われたのが第三結集です。 更に、紀元後2世紀頃カニシカ王のもとでカシミールの比丘五百人を集めて開かれたのが第四結集です。 やがて迦葉尊者も自らの涅槃が近づいたと悟り、阿難を訪ねて教法を付嘱し、みずから鶏足山に上って、弥勒菩薩が出世した時に、仏の衣鉢を授与するために入定されたのでした。 迦葉尊者の果たした役割は大きいものでした。 お釈迦様のご遺体に火をつけること、そしてお釈迦様亡き後、その教えを経典として編纂されたことであります。 かくしてお釈迦様の教えを受け継がれた方として、禅宗でも迦葉尊者を尊崇しているのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

GPT-4に秘伝の?神話分析のやり方を教えてみた -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む【番外編】

GPT-4は神話を分析できるだろうか? * * この一年ほど私は下記マガジンにまとめている一連の記事を通じて、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えてきた。 神話的思考(野生の思考)とは、下記図1における、Δ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が、”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、こ

「中世哲学入門-存在の海をめぐる思想史」 山内志朗

ちくま新書  筑摩書房 中世哲学とその出会いと ギリシャ哲学とキリスト教神学を綜合したのが中世哲学だと言われるが、「木に竹を接ぐことはできない」(p16)ように、現実の中世哲学、例えば「神学大全」見ても並列はしているけれど綜合まではしていない、という。また中世スコラ哲学というのも誤解を生む名称で、実際はスコラ(教会付属の神学校)ではなく、大学等で行われてきた。スコラ神学とスコラ哲学というのもまた違うもの。ただ、「現象学の源流」ブレンターノ、ハイデガーやヴェーバーやゾンバル