第1055回「迦葉尊者の役割」

お釈迦さまがいよいよお亡くなりになると聞いて、迦葉尊者は旅路を急ぎました。

迦葉尊者が、お釈迦さまの涅槃に入ったのを知ったのは、五百人の弟子たちを伴ってパーヴァーからクシナガラにおもむく途中のことでした。

パーヴァーの都を出たところで、迦葉尊者の一行は一人の遊行者に出会いました。

遊行者は花を手にしていました。

迦葉尊者はこの遊行者に、「どこから来たのか」と問うと、「クシナガラから」と言います。

迦葉尊者がお釈迦さまの消息を尋ねると、

「すでに七日前、城外の沙羅双樹の間で涅槃にお入りになった。この花はその遺骸の前に供えられた献花のうちの一本である」というのです。

迦葉尊者は、残念なことにお釈迦さまが涅槃に入るのに間に合わなかったのでした。
しかし迦葉尊者は、世の無常を悟っているので、涙を見せなかったのでした。

多くの弟子達は嘆き悲しむのですが、そのなかに、ただ一人、

「なぜに泣くのか。われらはここに、自由となったことをむしろ喜びたい。

あの口うるさき大沙門から解放されたことの嬉しさよ」

という者がいたのでした。

それはまだ仏教教団に入って間もない弟子だったのでした。

迦葉尊者は、そんな言葉を聞いて、胸の割かれる思いがしました。

このような弟子が多いと、この教団もいつかは分裂して滅びるだろうと思ったからでした。

迦葉尊者の一行がクシナガラに到着しました。

実はそれまで遺体は多くの比丘たちにより荼毘に付されようとしましたが、何度火を点じてもその火が消えてしまうのでした。

これは亡きお釈迦さまが、迦葉尊者の到着を待ってのことであろうとして、転輪聖王の葬法に従って、遺体は金棺の中におさめられ安置されていたのでした。

そこで迦葉尊者はその金棺の前に進み、深く幾度も礼し、合掌し奉り、さすがの迦葉尊者もまたここにおいてはじめて鳴咽しました。

そして棺の周囲をめぐること一度、二度、 さらに三度、ぬかずき拝してひとつの詩を献じたのでした。

迦葉尊者が頌を献じて、ようやく火がつきました。

今度、火は消えることなく燃えあがり、一瞬にして棺をこの中に包み込んだのでした。

そして火が消えると、そこに仏舎利だけが残されていました。

舎利を争って得ようとしていたので、バラモンドーナが、調停して八つに分けたのでした。

「クシナガラのマッラ族、パーパのマッラ族、チャラカルパのブラ族、ヴィシヌ島のバラモン、ラーマのクラウディヤ族、ヴァイシャーリーのリッチャヴィ族、カピラヴァストウのシャカ族、マガダの大臣ヴァルシャーカーラとそれぞれに、八ヵ国の王使の人びとに分け与えました。

人びとは悲しみのうちにこれを持ち帰り、それぞれの故国に塔を造り、これをお祀りしました。

そして調停した婆羅門ドーナは仏舎利の入れてあった瓶を持ち帰って瓶塔を建立し、さらに火葬場の灰は遅参したマウリヤ族が得て塔を建てました。

かくしてここに、釈尊涅槃の十塔が供養造塔されました。

この中にシャカ族にも分布されたと明記されているので、あのシャカ族の滅亡からも逃げ得た者たちがいたのでした。

シャカ族に分布された仏舎利は、不思議なご縁で日本に請来されているのです。

1898年(明治31年) インドのピプラーワー村(仏陀の生まれたカピラヴァストゥの跡という説もあり)イギリ人ウィリアム・C・ペッペによって水晶製の舎利容器が発掘されたのでした。

その容器に刻まれた古代文字の解読にも成功しました。

そこでそれがお釈迦さまのご遺骨であることが判明したのでした。

この舎利が、1899年(明治32年)英国からシャム国(現在のタイ王国)へ譲渡されました。

更に1900年(明治33年) シャム国国王ラマ五世(ラーマ5世)から日本国民へ贈られたのでした。

1904年(明治37年) 舎利と黄金の釈迦像を奉安するため、覚王山日暹寺(にっせんじ)が創建されました。

それが1949年(昭和24年)シャム国がタイ王国へと改名したのに合わせて日泰寺に改名したのです。

各宗派の管長が持ち回りで住職を勤めることになっていて、私も三十三代目の住職を勤めたのでありました。

さて、迦葉尊者は、お釈迦さまがお亡くなりになって、やれやれと喜んでいる者がいることに驚いて、お釈迦さまの教えをまとめるようにしました。

これが「結集」であります。

結集は「比丘たちが集まってブッダの教えを誦出(じゅしゅつ)し、互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集すること」であり「聖典編纂会議」のことです。

最初の結集はお釈迦さまがお亡くなりになってから九十日ほどの後でありました。

場所は竹林精舎に近いピッパリー石窟でした。

阿難が経蔵を誦出し、優波離が律蔵を誦出し、結集の上首である大迦葉がこれを総監督して、これらの一つ一つを諸比丘に諮問し、滞ることなく、まるで水の流れるようにこの大業は完了しました。

その後のインドにおける主な結集としては、仏滅後百年頃、戒律上の異議が生じたことを契機に、ヴァイシャーリーで700人の比丘を集めて開かれたとされています。これが第二結集です。

滅後二百年にアショーカ王の治下、パータリプトラで千人の比丘を集めて行われたのが第三結集です。

更に、紀元後2世紀頃カニシカ王のもとでカシミールの比丘五百人を集めて開かれたのが第四結集です。

やがて迦葉尊者も自らの涅槃が近づいたと悟り、阿難を訪ねて教法を付嘱し、みずから鶏足山に上って、弥勒菩薩が出世した時に、仏の衣鉢を授与するために入定されたのでした。

迦葉尊者の果たした役割は大きいものでした。

お釈迦様のご遺体に火をつけること、そしてお釈迦様亡き後、その教えを経典として編纂されたことであります。

かくしてお釈迦様の教えを受け継がれた方として、禅宗でも迦葉尊者を尊崇しているのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?