第1058回「天地いっぱいのいのち」

無門関を講義していて、第八則の奚仲造車の公案を学んでいました。

これは月庵善果という方が修行僧に出された問題です。

月庵という方は、五祖法演禅師のお弟子のお弟子に当たる方であります。

そしてまた『無門関』を編纂された無門慧開禅師の師匠の師匠のそのまた師匠に当たる方でいらっしゃいます。

「車の発明者と伝えられる奚仲は、百幅の車をこしらえたが、左右の車輪を取り除き、軸を取り外してしまった。さて、何を明かしたのだろうか」という問題を修行僧に投げかけたのでした。

両輪と車軸を取り除いて何が残ると思うかと、うちの修行僧に聞くと、荷台が残りますと答えていましたが、両輪と車軸で車だとするので、左と右の車輪を除いて、更にその真ん中を貫く軸も取り除くと、形の上ではなにも残らないのであります。

私たちも四大という要素から成り立つと古来考えられてきました。

地水火風の四つです。

骨や肉は地の要素であり、血や汗や体液は水の要素、体温は火の要素、呼吸などの動きは風の要素です。

この地水火風四つの元素が、調和がとれていると健康体であり、この調和が乱れると病気になります。

私どもお寺では今でも体の具合のよくないことを「四大不調」と言っています。

四つの元素が集まって整っている状態が生きていることであり、バラバラになると死を意味します。

古来から仏教では死について誤った二つの考えがあるとされてきました。

ひとつは「断見」といって、死んだら何も残らない、それっきりだという考えです。

死んで灰になったらそれっきりだというのです。

唯物論とでも申しましょうか。これは寂しいものです。

こんな考えで私たちは心の安らぎが得られるわけはありません。

「断見」はいけません。

そうかといってこんどは「常見」といって、この私は死んでもずっと永遠に残るという考えです。

肉体から魂が抜け出て、永遠に生き続けるという考えで、多くの宗教はこの考えに基づいています。

しかしお釈迦様はこれもまた誤った見解だと教えます。

そこで昔からあると見るのも迷い、ないと見るのも迷い、あるようでない、無いようであるなどと分かったような分からぬ事を申します。

お釈迦様の教えの基本は「無常であり、無我である」ことです。

無常とは移り変わるのです。無我とは我という固定したものは無いという教えです。

いろんな因縁、条件やご縁が重なって一時こうしてあるように見える、また移り変わってゆきます。

曹洞宗の内山興正老師は、生死をこのように詠います。

「手桶に水を汲むことによって

水が生じたのではない

天地一杯の水が

手桶に汲み取られたのだ

手桶の水を

大地に撒いてしまったからといって

水が無くなったのではない

天地一杯の水が

天地一杯の中に

ばら撒かれたのだ

人は生まれることによって

生命を生じたのではない

天地一杯の生命が

私という思い固めのなかに

汲みとられたのだ

人は死ぬことによって

生命が無くなるのではない

天地一杯の生命が

私という思い固めから

天地一杯のなかに

ばら撒かれるのだ(『大空が語りかける 興正法句詩抄』内山興正 より)

この天地一杯の生命を朝比奈宗源老師は「仏心」と喚びました。

そしてこのように喝破されました。

「私たちは仏心という広い心の海に浮かぶ泡の如き存在である。

生まれたからといって仏心の大海は増えず、死んだからといって、仏心の大海は減らず。

私どもは皆仏心の一滴である。

一滴の水を離れて大海はなく、幻の如きはかない命がそのまま永劫不滅の仏心の大生命である。

仏心の他には大宇宙の中に、蟻のひげ一本も存在しない。

人は特定の神仏を信ずる以前に成仏している。

絶対清らかな仏心の上には人間のいかなる過ちもその影をとどめぬ。

永遠に安らかな、永遠に清らかな、永遠に静かな光明に満たされている。

仏心には罪や汚れも届かないから、仏心はいつも清らかであり、いつも安らかである。

これが私たちの心の大本である。

仏心の中に生き死にはない。いつも生き通しである。

人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る。

生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、仏心とは一秒時も離れていない。」と。

無常であり無我であることを朝比奈老師のたとえで申しますと、大海に浮かぶ泡のようなものですから、永遠不滅の泡があるわけではなく、無常なのです。

大きい泡もあれば小さい泡もあります。

一瞬のうちに消えてしまう泡もあれば、長らく浮かんでから消える泡もございます。

その浮かんでは消える様子はまさしく無常です。

変わらない形のままの泡があるわけではありません。

一時そのような泡であるだけです。これを無我というのです。

この常に移り変わりゆく泡を永遠に有り続けると考えることが迷いです。

泡の形が一定して変わらずに有り続けると考えるのが迷いなのです。

恐れや悩みや苦しみは、この迷いからおこります。

お釈迦様はこの無常であること、無我であることをよく見つめてそこから本当の心の安らぎ、涅槃を得なさいと教えられました。

小池心叟老師は『無門関提唱』の中で、この奚仲造車の公案について、

「われわれの肉体というものを車にたとえて、何もかも取り外して、さてあとに何が残るか。

人間百年も二百年も生きるわけじゃない。

たかだかせいぜい七、八十年。

この七、八十年の寿命しかない自分をバラバラにして、何もかも取り去ったらあとには何が残るか。

じっくり坐って本当に何にもない空の世界にひたってみることです。

何にもなくなってしまった境界。一切皆空です。

こういう境地に一度自分で目覚めてみることです。

それには坐禅、こんな屁理屈を述べるよりも、皆さんがじっくり坐って、ムーッという無の世界、空の世界に自分がひたってみることです。」

と提唱なされています。

ここに言う空の世界は、広い広い、自他の区別も、生じることも滅することもない仏心の世界であり、天地いっぱいの命でもあるのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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