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官僚方士と美しき宦官の事件簿 第1話

あらすじ
 月鈴(げつりん)は、官僚として官署に勤める女性方士(方術(ほうじゅつ)という気を操る術を行使する者)だ。
 ある日、後宮で金英(きんえい)という女性が、鍵のかかった楽器保管庫内で殺されているのが発見され、月鈴は新たに書記官となった宦官(かんがん)・冏(けい)と共に、密室殺人事件解決のために後宮へ赴くことになる。人々は迷信深く、人間業では不可能と思われる殺人を鬼の仕業と考えるため、方士が出向いて謎を解き明かし、人々の混乱を静める必要があるのだ。
 果たして月鈴と冏は、この謎を解くことができるのか――。

 

   一 序
「ちょっと、そこの人!」
 私は酒瓶を片手に門前で騒いでいた男性に向かって、鋭い声を投じた。
 濁った眼を私に向けたその男性は、十六の私より少し年上くらいだろう。枸杞(くこ)の実のように赤い顔をしていて、強かに酒に酔っているのは明らかだった。平均的な身長の男性より頭一つ分以上背が高く、着崩れてしまっている袍と袴に包まれた体はがっしりとしている。高く結った髪を覆うのは冠ではなく、身分の低い男性が身に着ける幘(さく)と呼ばれる布だったが、外れて落ちかかっていた。
 擦れた雰囲気を漂わせたその酔漢は、明らかに堅気の者ではなく、官僚達が出入りする官署には、全く似つかわしくない。官署の門には門番がいるものの、兵士ではない蒼頭(そうとう)と呼ばれる奴隷なので、こういう時に人を呼ぶくらいのことしかできないのも仕方がなかった。厄介事には関わりたくないと、何もしないで遠巻きに様子を窺っている連中に比べたら、私を呼びに来た門番は問題を解決しようとしている分だけ、いくらか上等だろう。できることなら自力で問題を解決して欲しいところだったが、無闇に怪我人を増やすことなく、方士(ほうし)である私に任せたのは、賢い選択と言えた。
 方士とは、己の内や世界に満ちる気を操ったり、天気や星の動きから占いを行ったりする人々のことだ。気を操れると言っても、人間であることに変わりはないので、怪我もすれば命も落とすが、人一人を制するくらいのことは造作もなかった。
 私が木偶同然の官僚達の間を抜けて、酔漢の前に進み出ると、酔漢が面白がるように目を細めて言う。
「野郎だらけのむさ苦しい場所かと思ったら、女もいるんじゃねえか。おい姉ちゃん、ちょいと酌でもしてくれや」
「何か勘違いしてるみたいだけど、私は娼妓(しょうぎ)じゃなくて官僚よ! 今すぐここから立ち去りなさい! 帰る気がないって言うなら、こっちにも考えがあるわよ!」
 私はそう啖呵を切ると、目を閉じて右の手の平を上向けた。そうして気を練りながら、刀の神に祈りを捧げて、一振りの刀を頭の中に思い描く。同時に、手の平に硬い感触が生まれた。目を開けて手の平を見ると、そこには確かに刀があったが、あくまで気に形を与えて創り出した物であるため、重さは全く感じない。
 私は刀の柄をしっかりと握り締めると、刀の切っ先を酔漢に向けて言った。
「気で創った刀って、普通の刀よりよく切れるのよ! この刀にほんの少しでも斬られたら、そこから体がぐずぐずに溶けるんだから! その体で試し斬りされたくなかったら、さっさと帰りなさい!」
 私はそう凄んだが、「斬られたら体が溶ける」というのは只のハッタリだ。多少大袈裟に言っても、方士でない者には真偽などわからないし、脅かして帰らせた方がいい。
「わかった! 帰る! 帰るから! 斬るのは勘弁してくれ!」
 酔漢は悲鳴染みた声でそう言うと、覚束ない足取りで逃げ出した。不届き者として刑罰を与えることもできるが、大した罪でもないし、これ以上余計な仕事を増やすこともないだろう。
 私は気で創った刀を消すと、酔漢に背を向けて、小走りで駆け出した。官署(かんしょ)や宮殿の敷地内では、高臣でもない限り、小走りで移動することになっている。
 ここは太常(たいじょう)――方士達を統括し、祭祀を司る官署だ。太常は他の官署と同じように、執務を行う堂や緑豊かな中庭からなる、煉瓦造りの大きな建物だった。反り返るような形の屋根には、無数の瓦が並んでいる。その屋根に戴く大きな赤旗が、朝の目映い日差しの中で、はしゃぐように揺れていた。
 踠下(えんか)という女性用の厚底靴を脱いだ私が、両開きの扉をくぐって床に上がると、一人の官吏が肩で息をしながら、声を掛けてくる。
「もし、太常丞(たいじょうじょう)がお呼びですよ」
 太常丞は、この太常で私のすぐ上の役職にある人物だ。呼ばれたとあっては、急いで行かなくてはいけない。
「ありがとう!」
 私は官吏に礼を言うと、再び小走りで駆け出した。同じように小走りで移動している官僚達を避けながら、何本もの太い石の柱に支えられた回廊を駆け、大木が回廊を守るように植えられた中庭を通り過ぎる。そうして奥の堂にある太常丞の執務室の前で、私はとうとう足を止めた。胸に手を置いて、両開きの扉の前で弾んだ息を整える。
 腰まで伸びた長い黒髪の、一部を纏めて差した鼈甲の笄(こうがい)が曲がっていないか。上半身に身に着けた短い衣である黒い襦と、腰から足元まで長く伸びた深紅の裙(くん)に乱れがないか。
 それらを確かめてから、私は一際大きく息を吸うと、扉の向こうに声を掛ける。
「失礼致します。楊月鈴(ようげつりん)、お召しによって参りました」
「入りなさい」
 扉の向こうから落ち着いた男性の声が返ってくると、私は両開きの扉を開けて、静かに房間(へや)に入る。
 太常丞の執務室だけあって、中は他の房間よりいくらか広い。四つの方角を司る霊獣が描かれた屏風の前には、几(き)と呼び習わされる長方形の机。その隅にはいくつもの竹簡が積み重なっていて、太常丞の多忙ぶりを物語っていた。秋分を過ぎて、夏の名残はほぼ消え失せており、木製の窓枠である牖(ゆう)から入る朝の風は冷たい。
 私は素足に触れる床の冷たさに小さく首を竦めると、両手を前で組む揖(しゅう)という挨拶をしてから、そっと扉を閉めた。
 牀(しょう)――長方形の低い台座に悠然と腰を下ろした太常丞は、几に広げていた竹簡から目を上げて、私を見る。年は不惑をいくつか過ぎた頃だろう。口元に蓄えた、立派な髭。官僚の採用においては、容姿も考慮されるため、苦み走った端正な容貌をしていた。高級官僚の証である絹の黒袍と深紅の袴を身に着け、白髪の混じる髪を綺麗に整えて、術氏冠を被っている。
 一見気難しそうだが、男性ばかりの官僚達の中で働く女性達に常に気を配っていて、見た目よりずっと話の分かる人だった。
「急に呼び立てて、すまなかったな。座りなさい」
 私は言われるままに、几の正面に置かれた板独座(はんどくざ)と呼ばれる木製の台座へ歩み寄ると、その上に背筋を伸ばして座してから尋ねた。
「どのような御用でしょうか?」
「実は、後宮(こうきゅう)へ行って欲しいのだ」
「お断りします」
 私は迷うことなく、そう返事をした。
 後宮は、皇帝の妃達が住まう場所だ。皇帝の寵愛を得られた者は、この世の栄華を極めることができるが、多くの者はそうした機会に恵まれることなく、年老いて放逐されるか死ぬまで、後宮の外に出ることすら許されない。死んでもきちんと埋葬されることさえなく、後宮の外に捨てられるだけと言うのだから、あまりにも浮かばれなかった。
 そんな場所に、好き好んで行きたい訳がない。
「そもそも、後宮に入れるのは美女だけの筈でしょう? 私なんてお呼びじゃありませんよ」
 私は不美人ではないつもりだけれど、花や蝶に喩えられるような美女でないことは確かだ。眉も目も鼻も口も、一つ一つはそれなりに整って見えるけれども、それらが合わさると、どうしてこうもぱっとしなくなるのだろう。
 可もなく、不可もない女。
 それが私だった。
 私が唇を尖らせていると、太常丞は少し呆れたように言う。
「人の話はよく聞くものだぞ。私は確かに『後宮へ行って欲しい』とは行ったが、其方に皇帝陛下の妃になって欲しい訳ではない。後宮で起こった事件を、其方に調査して欲しいのだ」
 私はようやく得心が行った。
 後宮は、皇帝とその子供達以外の男性が立ち入ることを許されない場所なので、女性である私に白羽の矢が立ったのだ。他にも女性の方士がいる中、太常丞が敢えて私を選んでくれたのは、私を買ってくれているということなのだろう。
 私は少し誇らしい気持ちになったが、事件の捜査は本来、私の職分ではなかった。私の仕事は方士として吉凶を占い、時に方術を使うことであって、犯罪に関することは大理寺(だいりじ)という官署の管轄だ。
 それなのに、この事件が太常に持ち込まれたという事実からして、考えられることは一つしかなかった。
「鬼や方術が絡んだ事件、ということですね?」
 私の言葉に、太常丞は小さく頷いた。
「その通りだ。少なくとも、死体を発見した者達はそう考えている」
「それ、只の勘違いだと思うのですけど……」
 人々は迷信深い上、大半の者は方術を使えないため、方術のことをよく知らない。一見説明の付かない現象を、鬼や方術のせいにしたがるのは、よくあることだった。
 私が太常に来て一年程経つが、これまで太常に持ち込まれた事件の多くは、方士が関わってすらいない、只人の仕業ばかりだ。全ての事件を解決できる訳ではないので、未解決の事件の中には鬼や方術によるものがあったのかも知れないが、どの道割合としてはずっと少ない。
 今回も恐らく、只人の仕業なのだろう。
 それでも事件が太常に持ち込まれた以上、きちんと調査した上で鬼や方術が絡んでいないことを説明し、人々を安心させなくてはならない。
 それも、方士の仕事の内だった。
「こういう茶番染みたことは好きではありませんが、仕方ありませんね」
 私が溜め息交じりにそう言うと、太常丞は満足そうに小さく頷いてから続けた。
「面倒事を押し付ける代わりと言っては何だが、其方が希望していた新しい書記官を手配しておいたぞ」
「ありがとうございます。これで十人目、でしたっけ?」
「十一人目だ」
「そうでした」
 この太常に来た時から、私に付く書記官が長く続いた例がなかった。
 成人しているとはいえ、十六歳の女性の下で、喜んで働く男性などいる訳がない。女性の書記官を付けてもらえたらいいのだが、官僚の登用試験は男性しか受けられなかった。私は例外的に女性の身で官僚として登用されているものの、それは私が方士だからだ。方術の行使においては年齢も性別も関係なく、男性だけでは十分な数の方士を確保できないため、女性方士は男性方士同様、高級官僚として登用されていた。並みの官僚より高い地位を与えられている女性方士を、書記官の男性達が気に食わないと思うのも無理からぬことではあるのだろう。書記官など付けずに仕事ができればいいのだが、私の読み書きの程度は、官署で問題なく仕事ができる程ではなかった。
 だからこそ、書記官に仕事を手伝ってもらう必要があると、頭ではそうわかってはいても、持ち前の勝気な性格が邪魔をして、なかなか上手く行かない。男性に媚びたりせずに、ただ自分らしくいたいだけなのに、どうしてそれではいけないのだろう。
 私は膝の上で握り締めた両の拳に、視線を落として言った。
「……これでも、私にも至らないところがあるのはわかっているのです」
「ああ、其方は利口だ。反省もなしに、同じことを繰り返しているとは思っていない。ただ、もう少ししおらしくして、男を上手く動かすことを覚えたらどうだ? 角を突き合わせるばかりでは、同じ方向を向いて、共に歩むことはできないぞ」
 他の女性方士達は、実際太常丞の言うようにして、それなりに円滑に仕事を行っているようだ。仕事に支障が出ないよう、私も皆の真似をしようとしたこともあったが、どうにも向いていなかった。
「申し訳ありませんが、これが私の性格なんです。改めようと思ってどうにかなるなら、そもそもこんなことにはなっていません」
「それはよくわかっている。この調子では、其方の書記官を引き受けてくれる者が、早晩いなくなることもな。そこで、これまでとは全く異なる手合いの者を、其方の書記官にすることにした」
 太常丞の言葉に、私は目を瞬かせた。
「別の官署の官僚ですか?」
「当たらずとも遠からず、と言ったところだな――彼は宦官(かんがん)だ」
 宦官とは、後宮に仕える去勢された男性だ。宦官の多くは征伐された異民族や罪を犯した者なので、高等教育を受けた者は少ないと言われている。中には皇帝への諫言などが原因で宦官にされた官僚もいるが、私はその宦官の資質に不安を覚えずにはいられなかった。
「……その宦官、どういう素性の者なのでしょう?」
「異民族の出だそうだが、行き倒れていたところを助けた才人から勉学を教わったらしい。その才人は名を名乗らなかったと言うが、夢破れて官吏になり損ねた者か、あるいは十分過ぎる栄誉を手にしながら、それを捨てた賢人の類だったのかも知れぬな。試しにいくつかの詩について尋ねてみたが、見事に諳んじてみせたぞ。ここ何日か、書記官としての仕事を教えさせているが、覚えも早いようだ」
 話を聞く限りでは、なかなか優秀であるようだが、私は安堵することはできなかった。宦官には攻撃的な性格の者が多いと、以前聞いたことがある。ならず者ならむべなるかなというものであるし、そうでなくとも男性としての尊厳を奪われた以上、他者に辛く当たりたくなるのも理解はできるが、そういう人間と一緒に仕事をするのは気が重かった。宦官の中に穏やかな性格の人物が全くいないということはないにしても、割合として多くはないだろうことは、想像に難くない。
 しかし、せっかく太常丞が手配してくれた新しい書記官なのだから、会う前から「嫌だ」などとはとても言えなかった。
 私は今にも口から零れそうな溜め息を、どうにか堪えて言う。
「きちんと仕事をしてくれそうなのは助かりますが、宦官を太常の書記官に取り立てるなんて、よくそんなことが罷り通りましたね。かなり無理をされたのではありませんか?」
 宦官の人事に関しては、本来太常丞の力が及ぶところではない筈だ。『無茶』と言う程ではないにしろ、『無理』はあった筈だが、その無理を押し通す価値があると、太常丞は判断したらしかった。
 いろいろと面倒なやり取りがあったのだろうに、太常丞は事も無げに言う。
「無理という程のことはなかったぞ。太常卿(たいじょうけい)に借りがあったとある人物に、以前の貸しを返してもらっただけだ」
 太常卿は、太常の長官だ。後宮にまで力が及ぶ辺り、太常卿は私が思う以上に幅広い影響力を有しているようだが、その太常卿にそこまでさせた太常丞も、なかなか油断ならない人物と言えた。
 できる限り、この人は敵に回さないでおこう。
 私は密かにそう決意しながら、言った。
「恩は売っておくものですね。でもせっかくの貸しだったのに、私などのために使わせてしまって良かったのですか?」
「構わぬさ。このような些末事のせいで、其方の仕事が滞っては困る。今いる方士の中で、最も優れているのは其方だからな。其方の手柄は、そのまま我々の手柄になるのだから、太常卿としても貸しを一つなかったことにするくらいのことは、どうということもないだろうよ」
 打算を隠そうともしないのはどうかと思わないでもなかったが、大方そんなことだろうという見当は付いていた。
 私は太常丞に幻滅するでもなく、居住まいを正して言う。
「では、帳消しにして頂いた貸しに見合う働きを、ご覧に入れましょう」
「期待しているぞ。それでは、事件のあらましを説明しよう」
 太常丞はそう言い置くと、続けた。
「今朝、葛宮(つづらきゅう)でとある宮妓(きゅうぎ)の死体が発見された」
 葛宮は皇帝が所有する宮殿の一つで、数多の女性達が起居していた。宮妓は容姿に優れているのは勿論、歌や舞、楽器などを得意としていて、後宮の女性達の中でも割合高い地位を与えられているという。
 私が無言で話の続きを促すと、太常丞の整った唇が再び静かに言葉を紡ぎ始めた。
「殺されたのは、趙金英(ちょうきんえい)様。年は十五。舞の名手から、舞を習っていらしたそうだ。その指導に当たられていた宮妓というのが、かなり気性の激しい方のようでな、折檻と称して金英様を縛り上げて、朝まで楽器保管庫に閉じ込めておいたら、朝になって笄で胸を刺されて亡くなっていた、ということらしい」
 金英が殺される前から酷い目に遭わされていたと知って、私は思わず眉を皺める。
 後宮のような閉鎖された場所では、女性の陰湿さは最大限に発揮されるものらしく、後宮内では苛めが横行しているらしいとは聞いていた。苛烈な苛めを苦にして、命を絶つ女性がしばしばいるとも。これまで誇張された流言とばかり思っていたが、あながち誇張でもなかったようだ。
 あらましだけ聞くと、ごく単純な事件のようだが、この事件が太常に持ち込まれたからには、人間業とは思えない何かがあった筈だった。
「この事件の不可解な点は、何ですか?」
「金英様は、完全な密室で亡くなられていたのだ」
 そう言った太常丞の声には、隠し切れない困惑が滲んでいた。私も少なからず戸惑ったが、大抵のことは理屈で説明が付く筈だと自分に言い聞かせて、口を開く。
「密室ということは、金英様が閉じ込められていた房間には、朝までずっと鍵が掛けられていた訳ですか?」
「聞くところによると、そのようだ。金英様が閉じ込められていたのは楽器保管庫で、その楽器保管庫を管理している宦官が、金英様の舞の師である宮妓に命じられて鍵を掛けたそうでな。その楽器保管庫には窓がなく、近くにある茜門(あかねもん)を守る門番達も、夜が明けて鍵が明けられるまで、楽器保管庫に出入りした者を誰も見ていないらしい」
 要約すると、「誰も出入りしていない筈の部屋で、縛られた女性が胸を刺されて死んでいた」という訳で、確かに奇妙な話だった。金英の胸に刺さっていた笄は、恐らく金英自身が身に着けていたものなのだろうから、縛られてさえいなかったら、「自殺」であっさり片が付きそうなものなのだが。
 考え込む私に、太常丞が問いを投げ掛けてくる。
「金英様の身に何が起こったのか、見当は付いたか?」
「いえ、まだ何とも。今のお話だけでは、手掛かりが少な過ぎます」
 私がそう答えた時、扉の向こうから控えめな声がした。
「お話し中、失礼致します。お召しによって参上致しました。令弧冏(れいこけい)でございます」
 令弧冏。
 その名前を、私は知らなかった。男性にしては高く、女性にしては低いその声にも、聞き覚えがない。
 もしかして、例の宦官だろうか。
 私がそう思っていると、太常丞は扉の向こうに向かって声を掛けた。
「入りなさい」
 太常丞がそう入室を促すと、両開きの扉を開けて、すらりと背の高い人物が静かに入って来た。
 年は、而立(じりつ)に手が届くかどうかといったところだろう。男性の中でも長身の方だが、その肌は女性のように白い。彫りの深い顔立ちは好ましいとはされていないものの、そのくっきりした目鼻立ちは、男性とも女性とも異なる美しさを湛えていて、神秘の化身のようだった。近付くことすら躊躇われそうな程に、物静かな雰囲気を漂わせていて、それがこの人物を更に人間離れした存在に見せている。灰色の袍服の上に、褂子という暗紺色の外衣を羽織り、黒い袴の宦官服を身に着けていた。
 私は思わずその宦官に見惚れていたが、宦官が揖の挨拶をするのを見て我に返ると、慌てて挨拶を返す。それからすぐさま立ち上がって、壁に立て掛けてあった板独座を取りに行くと、自分が腰を落ち着けていたそれの近くに置いた。
「座りなさい」
 太常丞がそう促すと、宦官は言われるままに板独座に腰を据えた。私も同じように座り直すと、太常丞は私を冏に、そして冏を私に紹介してから言う。
「其方達を組ませるのは、もう何日かしてからと考えていたが、不測の事態が発生した以上、そういう訳にも行かなくなった。これから二人で後宮に赴き、可能な限り速やかに事件を解決するように」
「畏まりました」
 私と冏は声を唱和させると、揃って太常丞に揖の挨拶をした。

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