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官僚方士と美しき宦官の事件簿 第11話

十一 終わりに
 私と冏は、教坊を後にした。そのまま茜門に向かう私達を、春燕と広が見送りに来てくれる。
 いつの間にか日は大きく傾いて、石畳に落ちかかる私と冏の影は長かった。高い塀に切り取られた空は、一面曼殊沙華を敷き詰めたように鮮やかな赤に染め抜かれていて、空も金英の死を悼んでいるかのようだ。失われた命は戻らないが、真実を白日の下に晒したことで、少しは金英の無念を晴らすことができただろうか。
 そうであったらいい。
 私はそう思いながら茜門の前で立ち止まると、春燕と広を振り返った。春燕は両手でそっと私の手を取ると、私と目を合わせる。私の手を包み込む春燕のそれは、人形のように綺麗で、触れたところから優しさが伝わってくるように温かかった。
「あなたには、本当に何とお礼を申し上げたらいいか……よく真実を明らかにして下さいました。姐様の代わりに、何かお礼ができたらいいのですが」「私はただ、自分の務めを果たしただけですから、お気持ちだけで十分です。それに、私一人で謎を解いた訳ではありませんから。こちらの冏にも、随分手伝ってもらいました」
「そうでしたの」
 春燕は冏に向き直ると、どこか胸が痛くなるような笑顔で言った。
「あなたもありがとう」
「身に余るお言葉でございます」
 そう言った冏は、どことなく嬉しそうだった。
 私達の仕事は、心に深い傷を負った人や死体を目の当たりにしなければならないので、辛い思いをすることも多いが、とてもやり甲斐がある仕事でもある。
 冏もそう思ってくれたらいいと思っていると、春燕が言った。
「もうお会いすることは叶わないかも知れませんが、この御恩は決して忘れません。お二人共、どうぞお元気で」
「春燕様も、どうぞ健やかにお過ごし下さい。さぞご心痛のことと存じますが、いつかまた金英様と過ごした時のような安らぎが、その御心を満たしますように」
 私は、心を込めてそう言った。
 方術では心を癒すことはできない。
 私にできるのは、ただ祈ることだけだ。
 春燕は私の言葉に応えて、その可愛らしい面差しに笑みを浮かべはしたが、笑顔と言うより泣き顔のようで、ひどく痛々しかった。
 春燕はそっと私の手を離すと、力なく言う。
「お心遣いには感謝致しますが、私はもう以前の私には戻れないかも知れません。私は、姐様が信じていた方に裏切られてこの世を去られたことや、姐様が私に何も告げずにこの後宮を去ろうとしていたことを知ってしまいました。私が思っている程、善や信頼が強いものでないのなら、この先私は何を信じて生きて行けばいいと言うのでしょうか」
 今日一日で、知りたくないことばかり知る羽目になったことを思えば、春燕がもう何も信じられないと思うのも道理だろう。だが、そんな風に思ってこれからを生きて行くのは、きっとひどく寂しいことだ。
 春燕を少しでも元気付けたくて、私は言った。
「方士と言えど、金英様の心の内を知ることはできませんが、推し量ることはできます。金英様が春燕様に脱出の計画を伏せていらしたのは、『脱出が失敗した時に、春燕様を巻き込みたくなかったから』なのではないでしょうか。仮に春燕様が思っていらした程、金英様が春燕様を信頼していらっしゃらなかったとしても、金英様の優しさが全て偽りだった訳ではないでしょう。少なくとも私は、そう思います」
 愛も信頼も目には見えないもので、いつも変わらずそこにあるとは限らない。だが、たとえほんの一瞬のきらめきのように儚く消えて行ったとしても、それに触れることができた思い出を大切にして生きることは、決して愚かなことではない筈だ。
 永遠に変わらないものはこの世にはなく、死んだ人間は二度と帰って来ない。その事実に、折り合いを付けて生きて行かなくてはいけないのだから、それなら優しい解釈をした方がいいに決まっていた。そうでなければ、宙に浮いた問いかけに答える声がない以上、死ぬまで苦しみ続けることになる。 
 それは、あまりにも残酷というものだろう。
 春燕は私の言葉に小さく頷くと、先程の泣き顔のような笑顔ではなく、淡くとも優しい微笑みをその面に湛えて言った。
「おっしゃる通りですわね。私は知らず知らずの内に、姐様に対して見返りを求めていたのかも知れません。姐様が私に親切にして下さったという事実に、変わりはありませんのに」
 春燕は手をそっと胸に置くと、続けた。
「ありがとうございます。おかげ様で、少しだけ気持ちが軽くなりました」「それは、ようございました。では、私達はこれでお暇致します。お世話になりました」
 私は冏と一緒に揖の挨拶をすると、茜門をくぐって外に出た。ゆっくりと夜が迫る空の下、慌ただしく通りを行く官僚達に混じって、私達は太常へと向かい始める。
「今日はもう暗くなるから、文書の提出は明日でいいわ。戻ったら太常丞に報告だけして、それで今日の仕事はお終いにしましょ」
「畏まりました」
 肩越しに振り返った私に静かに応じる冏は、とても人に几を投げ付けたりするようには見えない。私が見たあの冏は、夢か幻だったのではないかと思える程だった。
 私は身を翻して冏に向き直ると、後ろ向きに歩きながら尋ねる。
「ねえ、冏は荒事に慣れてるみたいだけど、武術でも習ってたの?」
「ええまあ。私はこれでも騎馬民族の出なので、子供の頃から槍や弓の扱いを父達に仕込まれました」
「あら、じゃあ凄く強いのね」
 騎馬民族は長年に渡り、瑞国と版図を争ってきた人々だ。彼等は勇猛果敢で知られ、弓や槍の扱いに長けた騎兵は、今日でも変わらず脅威であり続けていた。武器ではない几を使っても容易く由を制圧できたのだから、あの時の冏が槍を手にしていたら、きっと一瞬で由を殺せていたのだろう。
 だがそんな私の考えとは裏腹に、冏はどこか面映ゆそうに、軽く目を伏せて言った。
「私の腕前など、大したものではありません。弟に負かされてばかりいましたし、むしろ先生から勉学を教わる方が好きでしたから」
 恐らく冏が弱い訳ではなくて、冏の弟達が強過ぎるだけなのだろうと私は思ったが、敢えてそうは言わなかった。冏にとって、家族の話は辛いだろう。
 私は話を逸らそうと、言った。
「もし冏が強くないって言うのが本当なら、もうさっきみたいな真似はしなくていいのよ? 私は方術を使えるんだし、守ってくれなくても大丈夫だから」
 冏が良かれと思ってああしてくれたのはわかっていたが、私はその辺の人間よりずっと強いし、守って欲しい訳ではなかった。今回はたまたま無傷で済んだが、いつか守る必要のない私を守って、冏が傷付いてしまうかも知れない。
 それは避けたかった。
 だが冏は伏せていた目を上げると、ひたと私に視線を据えて、はっきりと言う。
「お言葉を返すようですが、荒事であれば私の方が適任かと思われます。今の私には以前程の力を出すことはできませんが、それでも月鈴様より体格で勝っていますし、力も強いでしょうから」
「冏も、私が女だからって下に見るの?」
 私は冏に向ける視線に鋭さを足して、そう訊いた。
 冏は今までの書記官達とは違うと思っていたのに、結局冏もあの連中と同じだったのだろうか。女性だから、危ない時には何もせずに下がって見ていればいいと、そう言うのだろうか。
 私だって誰かを守りたいと思うし、そのための力もあるのに。
 私が少し泣きたいような気持ちになっていると、冏は整った眉をわずかに寄せて、困ったように言った。
「ご不快に思われたのであれば、どうぞお許し下さい。月鈴様が悪漢に襲われても動じない勇敢な方であることも、方術を使うことができることも承知しています。ですが、女性の身で悪漢に立ち向かうのは、やはり危険が大きいでしょう。どうか進んで矢面に立つような真似は、なさらないで下さい。それは決して恥ずべきことでも、月鈴様が劣っているということでもありません。元は男であった私なら、仮に傷を負ったとしても、命を落とさずに済むかも知れませんし、お互いが無事に生きて帰ることができる可能性が、より高くなる選択をするべきと考えます」
 冏のその言葉を聞いて、私は胸に広がっていた刺々しい気持ちがゆっくりと萎んでいくのを感じた。
 どちらが上だとか下だとか、そんなことではなくて、冏はただ私のことを心配してくれているのだろう。もしかしたら、冏のように上手く伝えられなかっただけで、今までの書記官の中には、私を心配してくれていた人もいたのかも知れない。
 人の心は複雑で、善意だけでできている訳でも、悪意だけでできている訳でもないのだから。
 そんなことはわかっていたのに、見下されたくないと頑なになっていたから、思い付きもしなかった。私はずっと大切なことを見過ごして、人の優しさを踏み躙るような真似をしてきたのかも知れない。
 そう思うと、ひどく自分が幼稚に思えて、恥ずかしくなった。
 私は冏の目を真っ直ぐに見られなくなって、顔を俯けて言う。
「……冏の言うことは正しいわ。でも私は冏が危ない時に、きゃあきゃあ悲鳴を上げて、自分だけ逃げるような真似はしたくないの」
 誰かが危ない目に遭いそうな時、自分だけ逃げ出したくないと思うのは、きっと間違っていない。
 私はそう自分を信じて顔を上げると、再び冏と目を合わせて言う。
「冏が戦う時には、私も一緒に戦うわ。私のこの力は、人のために使うべきものだから」
 父に対していろいろと思うところはあるが、方士としての才を父から譲り受けたことには感謝していた。
 方術が使えるおかげで、私はいろいろなことに立ち向かうことができるのだから。
「今日みたいな荒事の時、私は前に出過ぎないようにして、方術で冏の手助けをするわ。それでいい?」
「はい。できることなら私も怪我をしたり、死んだりするのは避けたいところですし、月鈴様に援護して頂けると、心強いです」
 「戦うな」と一方的に危険から遠ざけようとするのではなく、冏が一緒に戦う意思を示してくれたことが、私にはとても嬉しかった。
「決まりね。これからもよろしく」
 立ち止まった私が、心を込めて両手を前で組むと、冏も同じように返礼して言った。
「こちらこそ、よろしくお願い致します」

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参考文献

編者京大東洋史辞典編纂会『新編東洋史辞典』東京創元社(昭和五十五年)

柿沼陽平『古代中国の24時間』中央公論新社(二〇二一年)

荘奕傑『古代中国の日常生活 24の仕事と生活でたどる1日』原書房(二〇二二年)

坂出祥信『「気」と道教・方術の世界』角川書店(平成八年)

鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社(二〇〇四年)

日本語版監修・監訳 稲畑耕一郎『北京大学版 中国の文明3 文明の確立と変容(上)』潮出版社(二〇一五年)

丸橋充拓『江南の発展 南宋まで シリーズ中国の歴史②』岩波書店(二〇二〇年)

富谷至『木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版―書記の文化史』岩波書店(二〇一四年)

飯島武次『中国考古学のてびき』同成社(二〇一五年)

三田村泰助『宦官 側近政治の構造』中央公論新社(一九八三年)

顧蓉・葛金芳『宦官―中国四千年を操った異形の集団』徳間書店(一九九五年)


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