見出し画像

官僚方士と美しき宦官の事件簿 第3話

三 司徒由(しとゆう)
 私と冏が案内されたのは、教坊の端に位置する房間だった。「普段は使われていない」という話だったが、掃除はきちんとされていて、窓もあるため、あの楽器保管庫のように埃っぽくはない。さして広くない房間の中央には、几が一つ。その几を挟んで、板独座が数枚置かれているだけの、ひどくがらんとした房間だった。
 私が冏と並んで板独座に腰を下ろすと、広は私に言う。
「今は金英様のことで、皆様動揺しておられます。その官服で葛宮の中を歩き回られると目立ちますし、できる限りこの房間から出ないよう、お願い致します」
「承知しました」
 私は小さく頷いた。
 動揺は、容易く恐怖に変わるものだ。宮女や宮妓の中には、官服を纏う女性は方士だけだと知っている者もいるだろう。方士である私が、金英の死について調べているという情報が広がったら、「金英を殺した鬼を退治しに来た」のだと思われて、大騒ぎになるかも知れない。広が「目立たないように振る舞って欲しい」と言うのは、当然のことだった。
 広は、私の返事に小さく頷いてから言う。
「よろしければ、お水をお持ちしましょうか?」
「ええ、お願いします。それと、もう一つお願いしたいのですが、最初に金英様のご遺体を見付けた方を呼んで来て頂けますか?」
 誰から話を聞いても良かったが、やはり最初に金英を見付けた時の状況が気になった。もしかしたら、その人物は私が見落とした何かを見ているかも知れない。
「畏まりました。少々お待ち下さい」
 広が揖の挨拶をして出て行くと、私は新しい笏を懐から取り出す冏に面を向けた。
「ねえ、冏の考えを聞かせて欲しいんだけど、鍵の掛かった楽器保管庫の中にいる人を、外にいる人間が殺すなんてことができると思う?」
 何気ない問いかけだったが、冏にとっては意外だったようで、やや目を瞠って私に眼差しを向ける。私は予想外の反応に少々驚いた一方、冏の美貌にようやく表情らしいものが浮かんだのを見て、安堵してもいた。不平不満を言わずに仕事をしてくれるのは有難いが、感情が全く見えないと、人としてどこか壊れてしまっていないか、心配になってくる。
「何だか驚かれてるみたいだけど、私何か変なこと訊いたかしら?」
「いいえ。ただ、この後宮に来てから、誰かに意見を求められたことなどなかったので」
 冏が今まで本当に酷い扱いをされてきたことに気付いて、私は言った。
「みんな、冏のことをよく知らなかったのね。でも、冏は私よりずっと教養があるし、頭だって悪くないと思うわ。だから、考えを聞かせて欲しいの」
「では、畏れながら申し上げますが」
 冏はそう前置きすると、控えめに続けた。
「楽器保管庫の外にいる人物が中にいる人物を殺すことは、不可能だと思われます。とはいえ、鬼があの方を殺したとも思えませんが」
「いい答えね」
 私は、すっかり冏のことが気に入った。
 今までの私の書記官達は、迷信を信じる手合いで、余計に仕事がやり難くて仕方がなかったのだ。不可解な死を遂げた者がいる現場には行きたがらず、行ったら行ったで「鬼の仕業だ」と怯えて早く帰りたがるばかりで、宥めすかすのが大変だった。
 その点、鬼を恐れずにきちんと筆記を行い、合理的な物の考え方をする冏は、私にとっては正に理想的な書記官だ。最初に冏が宦官だと聞かされた時には、冏の適性を少なからず疑ってしまったが、そのことを申し訳なく思った。
 一人で忙しなく感情を動かしている私とは対照的に、冏は感情の揺らぎさえ感じさせない、静かな声で訊いてくる。
「私は人外の者については詳しくないのですが、鬼は存在しないと考えて構わないということでしょうか?」
「証明はできないけど、私はいないと思ってるわ。もし本当に鬼がいて、みんなが言うように、人を害するのが当たり前の存在だとしたら、鬼を見たことがある人が極端に少ないのはおかしいもの。もっと目撃談があるのが普通でしょ? 『鬼を見た』って言う人は、多分そう思い込んでるだけなんだわ」
 私は一度言葉を切ると、付け加えて言った。
「それにね、金英様の死がもし本当に鬼の仕業なら、わざわざ笄を使ったりはしないと思うの。あの笄、多分金英様の物だと思うけど、鬼ならきっと凶器なんて使わなくても、金英様を殺すことができるでしょ? 金英様の胸に笄が刺さってたのは、『下手人が人間で、持ち込んだ凶器から、下手人だと特定されることを恐れたから』と考えた方が自然だわ」
 私が二つの観点から鬼の関与を否定すると、元々鬼の存在に懐疑的だったらしい冏は、小さく頷いて言った。
「おっしゃる通りかと。しかし、人間の仕業であるのなら、下手人はどのような方法であの方を殺したのでしょうか?」
「それはまだわからないけど、少なくとも方術を使った訳じゃなさそうね。方術を使っていたら、あの楽器保管庫の中の気が乱れている筈だから」
「そういうもの、なのですか?」
 方士ではない冏には理解し難いようで、わずかに眉を動かして、怪訝そうな面持ちになった。ほんの少し表情を動かすだけで、随分表情豊かになったように見える。
 そのことを好ましく思いながら、私は言った。
「方術は気を操るものだから、使えば目には見えない痕跡が残るものなのよ。その痕跡も時間が経てば消えるけど、金英様は朝方に亡くなった可能性が高いし、この短い時間で完全に痕跡が消えることはまず在り得ないわ。下手人が方術を使っていないのは、間違いないのよ」
「方術なら、楽器保管庫に鍵が掛かっていても、外から金英様を害することができるかと思ったのですが、その可能性は完全に消えた訳ですね」
「そうね、その可能性は無視して構わないわ」
 私は、そう断言した。
 そもそも方士が操ることができる気は、自分の体内にあるものと、自分が直接触れることができるものだけだ。密室のように、外部と隔離された場所の気を外から操ることはできない。隠し通路でもあれば話は別だが、仮に中に入ることができたとしても、方術の痕跡を消す方法がない以上、金英の死に方術は関係していない筈だった。
 私がそう考えていると、扉の向こうから広の声がする。
「失礼します。お水をお持ちしました。先程お呼びになった者も一緒です」
「どうぞ」
 私がそう答(いら)えを返すと、両開きの扉が開いて、三人分の茶杯を載せた盆を手にした広と、もう一人見知らぬ宦官が入って来た。
「こちら、司徒由殿です」
 広がそう紹介した宦官は、年は冏より少し上くらいだろう。宦官服を纏ったその体は、女性と大差ない小柄さだ。目鼻立ちは整っているが、冏のように女性的な顔立ちという訳ではない。近付いたら逃げてしまいそうな野良猫を思わせる目をしていて、いかにも気難しそうだった。
 まともに会話をしてもらえるのだろうかと不安を覚えつつも、私は冏と共に立ち上がって、由と揖の挨拶を交わし、座るように促す。由が静かに板独座へ腰を下ろすと、広は几の上に人数分の茶杯を並べてから、私に言った。
「外におりますので、何かあればお呼び下さい」
 広は揖の挨拶の挨拶をすると、静かに房間を出て行った。
「突然お呼び立てして、申し訳ありません」
 私はそう切り出すと、自分と冏を由に紹介し、由をここに呼んだ経緯を手短に説明してから続ける。
「――という訳で、あなたのお話を聞かせて頂きたいのです。普段は、どのようなお仕事をされているのでしょうか?」
「楽器保管庫の管理をしていて、保管庫内の掃除や楽器の手入れなどをしています」
 由の声は、冏と同じように男性にしては高く、そしてどことなく不機嫌そうだった。
 楽器保管庫の管理者ということは、あの楽器保管庫の鍵を持っているのだろう。最初に金英の死体を見付けたのも、道理というものだった。
 私は黙々と笏に筆を走らせる冏を横目に見ながら、由に尋ねる。
「あの楽器保管庫の鍵を持っているのは、あなたですよね? 他に鍵を持っている方はいませんか?」
「鍵は、私が持っている一つだけだと聞いています」
 これで、下手人が合鍵で侵入した可能性は消えた。仮に合鍵を持っている者がいたとしても、どうやって誰にも気付かれずにあの楽器保管庫を出入りしたのかは謎のままだ。いくら暗かったとはいえ、楽器保管庫が茜門のすぐ近くにある以上、近付く者がいれば門番達に姿を見られていたに違いないのだから。
「昨晩楽器保管庫の鍵を閉めてから今朝までの間に、あなた以外に鍵を使うことができた人はいますか?」
「いません。失くさないように入浴中や就寝中でも身に着けるようにしていますし、今は楽器保管庫を保全している宦官に貸していますが、普段は鍵を誰かに貸すことはまずありませんから」
 由の答えに、私は眉間に皺が寄るのを感じた。
 一服盛るなどすれば、由から鍵を盗むこと自体はできるだろうが、四六時中鍵を身に着けているという由から、気付かれずに鍵を盗むのは無理そうだ。ということは、由が自分で鍵を開けて金英を殺したのだろうか。あるいは、由は共犯であって、下手人が他にいるのかも知れない。それとも由が処罰を恐れて、鍵を盗まれた事実を伏せているだけなのだろうか。
 いずれにしても、由が朝になって鍵を開けるまで、楽器保管庫に近付いた者はいないという門番達との証言と矛盾してしまう。
 どうにも辻褄が合わないが、私はとにかく事実を確認することにした。
「鍵を人に貸さないということは、金英様を楽器保管庫に閉じ込める時、あなたもそこにいた訳ですよね?」
「はい。私に金英様を閉じ込めるように命じた方――玉環(ぎょくかん)様という方なのですが――その方は金英様を目の敵にされているようで、何度か命じられて、昨夜と同じように閉じ込めたことがあります。あまり気は進みませんでしたが」
 由は、淡々とそう答えた。
 由が言う『玉環』とは、あの董(とう)玉環だろう。玉環は舞だけでなく歌や楽器も達者で、公主――皇帝の娘だ――達も習いに来る程の腕前と評判だ。一時は皇帝の寵愛を受けていたこともあると聞くが、今皇帝の関心は別の女性にあるらしいので、憂さ晴らしで金英に辛く当たっていたのかも知れなかった。
 それに付き合わされていた由も気の毒だが、この後宮にいる女達は皆皇帝の妻という扱いであるし、ましてや宮妓はその辺の宮女よりも高い地位を与えられている。金英に同情する気持ちがあったとしても、奴隷同然の扱いである宦官が逆らうことなどできないし、言われた通りにするしかなかったのだろう。
 私は由への同情を心の隅へ追いやると、質問を続けた。
「鍵を閉める時、金英様に怯えた様子はありませんでしたか? その時でなくとも、今までに誰かに命を狙われているようなことを、話していらっしゃいませんでした?」
「命を狙われているという話は聞きませんでしたが、金英様は暗い所が苦手ですから、怯えているのはいつものことでした。それからこれは、玉環様には内密にして頂きたいのですが……」
 由はそう言い置くと、玉環がどこかで聞き耳を立てているかのように、心持ち声を潜めて続けた。
「玉環様は私が鍵を閉めるところをわざわざ確認しに来たりはしませんから、いつも鍵を閉める前に縄を解いて、明かりを置くようにしていました」
 あの蝋燭を用意したのが由だとわかって、私は感心すると同時に、申し訳なくも思った。外見の印象から、由はもっと冷淡な人物かと思っていたので。
 人は誰でも、様々な感情を織り込んでできているのだということを思い出させてくれるこの仕事が、私は決して嫌いではなかった。
 私は心の中で由に詫びつつ、次の質問を口にする。
「金英様に良くして差し上げていたようですが、親しい仲でいらしたのでしょうか?」
「いえ、決してそういう訳では……私はあの方をお慕いしていましたが、想いを告げるような真似はしませんでしたし、只の顔見知り程度の間柄でした」
 宦官の中には宮女達との恋愛を楽しむ者もいると聞くが、由は不器用な性質らしい。由の言葉が事実なら、金英を手に掛けた可能性は低そうだが、先の言葉が本心とは限らなかった。由には金英を殺す理由がないと思わせて、疑いの目を逃れようとしているのかも知れない。
「楽器保管庫に鍵を掛けた後、朝になって金英様を見付けるまで、どう過ごしていましたか?」
「他の宦官達と寝起きしている房間で、朝まで寝ていました」
 由はしっかりと私の目を見て、そう答えた。
 宦官は皇帝の側に仕えることを許されているため、その一部は強大な権力を揮い、後宮の外に屋敷を保有することさえあるが、大半の宦官は只の奴隷に過ぎない。個室を与えられていないのは、当然だろう。寝ていた場所によっては、こっそり房間を抜け出しても誰にも気付かれなかったかも知れないが、同室の宦官達がいたなら、証言の裏付けを取ることはできるかも知れなかった。
「今朝は、いつ頃起きましたか?」
「朝の鐘が鳴った時です」
 時刻はこの大興城に唯一ある水時計によって管理され、朝と晩には鐘が鳴らされることになっている。朝の鐘は『鶏鳴(けいめい)』と言われる、まだ夜が明け切らないくらいの時分に鳴らされる鐘だ。多くの人々はこの鐘が鳴ると起き出して、働き始めることになっていた。
「起きた後は、どうしましたか?」
 私が問いを投げ掛けると、由は私の目から視線を逸らさずに、答えを口にした。
「身支度を整えて、すぐに楽器保管庫に向かいました。金英様を早く出して差し上げた方がいいと、そう思ったので。ですが、私が鍵を開けた時には、もうあの方は亡くなっていたのです」
 楽器保管庫の鍵が一つしかない以上、やはり鍵を持っている由が最も疑わしいと言える。だが、仮に由が下手人だったとしても、どうやって門番達に見られずに楽器保管庫に近付いたのだろう。門番達に金でも握らせて、見逃してもらったとすれば辻褄は合うが、由には金英を殺す理由が見当たらない。むしろ、日頃から金英に辛く当たっていたらしい玉環の方にこそ、殺す理由があると言えるだろう。もしかしたら玉環と由が手を組んで、金英を殺したのかも知れないが。
 いろいろ考えている内に、由が怪しく見えてきてしまい、私は思考を中断した。手掛かりが少ないこの状況で、無闇に由を疑っては、真実から遠ざかってしまいかねない。
「朝、金英様を見付けた時の状況を話して頂けますか?」
「いつもなら、あの方は鍵を開けたらすぐに出ていらっしゃるのに、今日は違っていました。それで様子を確かめようと中に入ったら、あの方が亡くなっていたのです。もう夜明けでしたから、私は明かりを持っていませんでしたし、あの方は目を閉じて横になっていたので、最初はただ寝ていらっしゃるのかと思いました。ですが、笄が胸に刺さっていることに気付いて、急いで人を呼んだのです。近くにいた門番が来てくれて、そのまま人を呼びに行ってくれたので、私は楽器保管庫の外に出て待っていました」
 今の話を聞く限りでは、特におかしな点はなさそうだ。大体の状況はわかったが、もう少し詳しく知りたくて、私は問いを口にした。
「その時、金英様の脈や呼吸の有無は確かめましたか?」
「いえ、そこまで気が回りませんでした」
 もしかしたら金英の息はまだあったのかも知れないが、もし発見時に生きていたとしても、その後間もなく亡くなったのは確かだ。金英が朝方に亡くなった可能性が高いことからして、由が楽器保管庫の鍵を開ける少し前には殺害されていたのかも知れなかった。
「金英様を見付けた時、楽器保管庫の中に誰かいませんでしたか?」
 下手人が楽器保管庫の中に予め潜んでいたとしたら、下手人が誰にも見られずに金英を殺害することは可能だ。どうやって脱出したのかという疑問は残るが、それはひとまず後で考えればいい。
 なかなかいいところに着目できた気がしたが、由は言った。
「特に誰も見ませんでした。暗かったですし、金英様に気を取られて周りは特に気にしていなかったので、他に誰かいても気付かなかったと思いますが」
 「誰も見ていない」という証言が嘘でない保証はなかったが、由は明かりを持っていなかったと言うし、あの暗さでは誰かが潜んでいることに気付かなかったとしても、不自然ではないだろう。
 だが、由が何か下手人に繋がるものを見聞きしている可能性はあった。
「何か見慣れない物を見掛けたり、聞き慣れない音を聞いたりしませんでしたか?」
「特にそういうことはありませんでした」
「そうですか……」
 残念だが、もうこれ以上由から聞き出せることはなさそうだ。
 私は静かに筆記を続ける冏に目を向けると、問いを投げ掛けた。
「ねえ、冏はまだ何か訊いておいた方がいいと思うことはあるかしら?」
 冏は少し間を置いてから、由に面を向けて言った。
「では僭越ながら、一つだけ。あの楽器保管庫に、扉以外から出入りする方法はあるのでしょうか?」
 冏の質問を聞きながら、私は隠し通路の有無の確認を忘れていたことに気が付いた。答えはある程度予想できるが、念のため確認しておくに越したことはないだろう。
 私がそう考えていると、由は冏の問いかけに少々意表を突かれた様子で、わずかに眉を上げて問い返した。
「あの楽器保管庫に、抜け穴のようなものがあると? もう何年もあそこを管理していますが、そんな話は聞いたことがありません」
 思っていた通りの答えが返ってくると、私は再び冏に問いかける。
「他に何かある?」
「いえ、もう十分かと」
 冏がそう答えると、私は冏から由へと眼差しを移し、紅を刷いた唇に笑みを作って言った。
「お手間を取らせましたね。どうもありがとうございました。それから、私達が金英様の死について調べていることは、どうぞ内密にお願いします。騒ぎを大きくしたくないもので」
「承知しました」
 由は小さく頷くと、立ち上がった。

 由が揖の挨拶をして扉の向こうへ消えるなり、冏は板独座から腰を浮かせた。そうして体ごと私に向き直ると、伏して深く頭を垂れる。
「申し訳ございません。差し出がましい真似を致しました」
 謝罪されると思っていなかった私は、些か困惑して訊いた。
「どうして謝るの? やれって言ったのは私よ? もし何か気付いたことや気になることがあったら、さっきみたいに言って欲しいの。そうしてくれた方が、私は助かるわ。私一人じゃ、金英様の死の真相には辿り着けないかも知れないもの」
 私はできる限り、慎重に言葉を選んでそう言った。
 後宮で冏の周囲にいた者達は、冏がただ黙って掃除の仕事をこなしてさえいれば、それで良かったのだろう。冏の考えなど誰も興味もなかったし、むしろ邪魔なものでしかなかったに違いない。
だが私としては、冏に話し相手になってもらったり、考えをまとめる手伝いをしたりして欲しかった。今回私に与えられた仕事は、人の人生を左右するものだ。決して間違いは許されない以上、少しでも真実に辿り着く確度を上げたかった。
 一人では無理でも、二人ならできるかも知れない。
 冏はそろそろと顔を上げると、その美しい唇で躊躇いがちに問いを紡いだ。
「本当に、よろしいのですか?」
「だから、何度もそう言ってるじゃない。冏がしたくないなら、無理強いするつもりはないけど、嫌?」
「そんなことは……ただ、久しく人として扱われることがなかったので、少々戸惑っているだけです」
 冏は私から目を逸らすと、そう答えた。相変わらず表情はあまり変わっていないが、形のいい眉がわずかに寄せられていて、困惑しているのは間違いないようだ。
 だが只の無表情より、この方がずっといい。
「きっと、すぐに慣れるわよ」
 私はそう言った後、ほんの少しだけ迷ってから、思い切って切り出した。
「ねえ、ちょっと気になってたことがあるんだけど、訊いてもいい?」
「はい」
「冏はどうして掃除の仕事をしてたの? 冏なら文書を扱うような仕事も、きちんと務まったと思うんだけど」
 望んで宦官になった訳ではないであろう冏に対して、掃除の仕事をしていた理由を問うことには躊躇いもあったが、やはり気になった。どうしても腑に落ちないのだ。普通なら肉体を酷使する掃除より、文書を扱う仕事を選ぶだろう。場合によっては、掃除の仕事では望むべくもない栄達すら期待できるのだから。
 私が冏の答えを待っていると、冏は軽く目を伏せて、静かに答えた。
「……ここに連れて来られた頃は、誰とも口を利く気になれなかったので、何を訊かれても黙っていたのです。後宮に入った宦官は、最初に必ず誰かの下に付くことになっているのですが、私が付いた宦官が掃除を担当する直殿監(ちょくでんかん)という衙門(やくしょ)に属していたので、私も掃除の仕事をするようになりました」
 口を利く気も失せる程に塞ぎ込んでいたとは、本当に辛い経験をしたのだろう。それでもこうして話をしてくれるようになったところを見ると、時間は少しずつ冏の心を癒してくれているようだった。
 元々の冏は、どんな人物だったのだろう。
 もっと口数が多かったのかも知れないし、よく笑う人だったのかも知れない。
 いつか、冏が本当の自分を取り戻せるといいと、私は思った。
「私の書記官を引き受けてくれる気になったのは、どうして?」
「使えそうな人材はいないか、後宮中の宦官達を虱潰しに当たっていた者が、私の元にもやって来たのです。印綬監(いんじゅかん)や尚宝監(しょうほうかん)といった文書を扱う衙門から、人を回せる余裕はないということでしたので。近頃は以前程人と話すことが億劫ではなくなっていましたし、ずっと読み書きをしないままでは、せっかく先生から教わったことを忘れてしまいそうでしたから、私などでよろしければと思いまして」
 その『先生』という人物は、もう生きてはいないのかも知れなかった。生きていたとしても、その『先生』がこの後宮にいない限り、生きて再び会うことは難しいに違いない。『先生』が冏に残したものは、きっと思い出と知識だけで、『先生』から授けられた知識を忘れてしまうことは、冏にとって耐え難いことなのだろう。
 冏が『先生』に与えられた知識を活用する機会が得られたことを思えば、今までの書記官達と上手く行かなかった苛立ちや悲しみにも、意味があったと思えた。ずっと心の奥底にあった濁った感情が、泡沫になって消えていくようで、私は心から言う。
「私の所に来てくれて、本当にありがとう」
「私の方こそ、お引き立て頂きまして、ありがとうございます」
 そう言った冏の口元には、微かな笑みが滲んでいて、冏の「ありがとう」が口先ばかりのものではないと、私は素直にそう信じられた。
「次は、どなたからお話を伺いますか?」
 由が手を付けなかった茶杯を静かに几の脇へと退けながら、そう問いかけてきた冏に、私は特に考えるでもなく答える。
「さっきお名前が出ていた、玉環様がいいわ」
 日頃から金英に辛く当たっていたという玉環には、疑うに十分な理由がある。話を聞く限り、多少つついた程度で動揺するような手合いではなさそうだが、尻尾を出してくれたら儲けものだった。
「少々お待ちを」
 冏は立ち上がって扉を開けると、扉のすぐ側に控えていたらしい広に、「玉環様を呼んで来て欲しい」と頼んだ。

   第2話                   第4話

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?