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掌編「コウテイペンギン」

僕は、隣家に住むコウテイペンギンさんとビール片手に語り合うが……
★5分程度で読み終えられます(約3,000字)


 引っ越し先の隣家には、コウテイペンギンが住んでいた。歳の近い子供がいたこともあって、僕とコウテイペンギンさんはいつしか家族ぐるみで付き合うようになり、互いの家でパーティーをしたり、庭でバーベキューをしたりして遊ぶようになった。

 「こっちにはもう慣れましたか?」
 コウテイペンギンさんが尋ねた。
 「ええ、おかげさまで」
 大型連休の初日、僕の家族とコウテイペンギンさんの家族はいつものように庭に広げたテーブルで一緒に食事をした。
 「子供たちもすっかり馴染んだようでひと安心です」
 はしゃぎ回る子供たちを横目にビールが喉を通り抜けていく。休みはまだ始まったばかりだ。絵に描いたような幸せな光景が黄金色の液体を一層輝かせた。
 「そちらはどうです?」今度は僕が尋ねた。
 「どうっていうと?」
 コウテイペンギンさんはアイスボックスから氷を掴み取り、ジョッキの中に詰め込むと、そこにビールを注いだ。
 「いえ、その……こっちでの暮らしはどうかなあと。ほら仕事のこととか、子供の学校のこととかね」
 我ながら野暮な聞き方だった。相手はコウテイペンギンなのだ。そんな誰にしたって構わない時間を埋めるための話じゃなくて、コウテイペンギンさんにしか聞けないこともあったろうに。僕にはもっと生物学的な、もっと哲学的な、もっと南極的な、広い視野が必要だった。
 「そうですねえ……まあ順調ですよ。そうだ! うちの子が水泳クラブの代表選手に選ばれたんです。いやはや鼻が高いですよ。このままオリンピックに出ちゃったらなんて……ヘヘッ。親馬鹿ですね」
 コウテイペンギンさんは顔を上げ笑った。日脚が伸び、初夏を感じさせる夜だった。彼の鼻、あるいは嘴が黄昏の空にくっきりと浮かんでいた。
 「その……お仲間とかはどうされてるんです?」
 「この辺りに住んでるコウテイペンギンはうちの家族だけですね」コウテイペンギンさんはきっぱりとそう言った。「こっちは暖かいんで、群れる必要がないんですよ。食べ物にも困らない。商店街の魚八……知ってます? 魚八。あの角のパチンコ屋の二軒先にある。あそこに行けば、魚もまあまあ新鮮なのが手に入りますしね。不便なのは……あれです。地面を腹で滑れないことくらいですよ」そう言って、コウテイペンギンさんはビールで膨れた腹をポンと叩いた。彼のジョッキはまるで南極の海面の如く、たっぷりの氷で満たされていて、それは最早、氷にビールをかけましたというような不思議な飲み物だった。
 「心配事とかはないんですか?」
 「心配事ですか……まあ強いて言えば、故国に残してきたお袋が少し気にかかるくらいですかな」
 「親御さんは南極ですか?」
 「ええ。月に一通手紙が送られてくるんですが、どうにも物忘れが多いようでね。まあ、まだ自覚できているうちは良いのでしょうが」
 「はあ。この歳になると親のことは気にかかりますわな。うちも明後日から田舎の両親のところに行ってくるんです。子供を連れてくと喜ぶんですわ」
 「いいですなあ。私も早く故国に戻りたいですわ」
 そう言うと、コウテイペンギンさんは嘴の中に南極式のビールを注ぎ込んだ。ガラガラと音を立てて琥珀の泡が消えていく。僕らは知り合ってまだそれほど経ってはいなかったが、気のおけない関係を築き始めていた。いつもは人見知りしてしまう僕も、なぜだかコウテイペンギンさんとは不思議とウマがあった。そこには哺乳類と鳥類の壁を超えた不思議な繋がりがあったのだ。
 「でも、どうしてまたこっちに越して来られたんです?」
 「あなたと同じ理由ですよ。仕事の都合ってやつです」
 「はあ」
 「南極からの出張でね」
 「南極にも出張があるんですか?」
 「ええ、まあね……」口籠るコウテイペンギンさん。どうやらあまり仕事の話は好まないようだ。
 僕もまた手持ち無沙汰に日本式のビールを腹に流し込んだ。コウテイペンギンさんの方はあの南極式ビールに飽きたのか、黒い尻尾の辺りからシガーケースを取り出し、ジュポッと葉巻に火をつけた。
 「デュポンですか?」
 「ええ! わかります?」コウテイペンギンさんの目がきらりと輝いた。
 「私も好きなんですよ。と言っても、私はライターではなくこっちの方ですが」そう言って、僕はものを書く仕草をしてみせた。
 「ああ! 万年筆ですか。そりゃあいい」
 それからしばらくの間、僕らはデュポンの話を続けた。コウテイペンギンさんのデュポンへの造詣はとても深く、示唆に富んでいた。一方、僕もまた異なる角度から彼の知らない知識を披露し、話はおおいに盛り上がった。


 「い、いやはや、あなたはす、素晴らしい!」
 コウテイペンギンさんはそう叫ぶと、件の南極式ビールを煽った。
 「こ、こんなに話のわかる、に、人間ははじめてれすわ。こ、国賓として南極にご、ご招待差し上げたいくらいれすっ」随分と酔っ払っているようだ。黒い頬は紅潮し、橙色の嘴もうまく回らない。
 「少し飲みすぎじゃないですか?」
 「な、何言ってるんれす? よ、夜はこれかられしょうがっ」
 ジョッキからもアイスボックスからも氷はすっかり消えていて、その代わりにコウテイペンギンさんの足元にはビールの空き瓶と葉巻の吸い殻がいくつも転がっていた。
 「しかし、子供たちもそろそろ寝かさないと」
 「こ、ここらけの話ね……こ、故国の政府が、か、開発を進めているんれすよ」
 「はい?」
 「さっきの、は、話の続きれす。私のし、仕事の話っ。聞きらいんれしょう?」
 「ああ。まあ、そうですね」
 「ほ、本当は国家機密なんれす。で、でも、あ、あなたは良い人そうらから、す、少しばかり打ち明けれもと思っれね。わ、私もす、すそれすが溜まるんれすよ。た、たまには誰かには、話を聞いて欲しいんれすっ」
 「そ、そいつは……どうも。でも、何なんです? その政府の開発ってのは?」
 「こっちの方にす、住める場所をさ、探して、い、移住しようっれ計画があるんれすわ」
 「移住ですか」
 「ほ、ほら、あ、あなたも知っているでしょう。こ、故国では、こ、氷が溶け始めているんれす」
 「ええ、存じてます」
 「わ、我々もこ、困っているんれすわ。こ、子供たちのみ、未来に関わる、じゅ、重らいな問らいなんれす。そ、それでね。が、外務省のえ、エリーろ・コウテイペンギンたち、つ、つまり私のことなんれすが、そんな優秀なペンギンたちが各国にちょ、調査のための出張にい、行ってるんれすわ。わ、我々の新しい暮らしにさ、最適な場所を探して」
 「そりゃあ、大変だ」
 「わ、私はね。ふ、フランスやど、ど、ど、ドイツがよかったんら。ろ、ロードスターに乗って、このデュポンで葉巻を吸う。そ、それが私のゆ、夢らったんれすよ」そう言いながら、コウテイペンギンさんはデュポンのライターを握りしめ、覚束ない手つきで何本目かの葉巻に火をつけた。
 「そうでしたか。でも、そのくらいにしておかないと……ほら、葉巻もスポーツカーも何というか、やり過ぎは良くないんじゃないですか? 南極の氷とかにも。きっと」つい口が滑ってしまった。何も考えずに思ったことをそのまま口にしてしまうのは、僕の悪い癖なのだ。
 「あ、あなたね! そ、そんなこと言ってたら、何もれきませんよ。わ、私らって一生懸命やってるんだ。そ、それくらいのゆ、夢を持っれもバ、バチは当たらないれしょうがっ」コウテイペンギンさんは、突然立ち上がると息を荒げた。「だ、だいたい、私らにみ、未来なんていうが、概念はなかったんら。何せ私らは鳥ですから。あ、あんたら、にん、人間とは違うんだ。ほ、本質的にね。さ、猿とも、ぞ、象とも違うんらっ!」
 「わかりました。わかりましたから」僕は慌ててコウテイペンギンさんを宥めた。
 「ま、まっらく。わ、私はねえ。え、エリーろ・コウテイ・ペンギンですぞ。あ、あなた、じ、自分が少しばかりほ、哺乳類だからって、ば、馬鹿にしないでいただきたい」
 「はあ……失礼しました」
 「わ、わかっていただければ、よろしいんれすっ!」そう言うとコウテイペンギンさんは一度フウと葉巻をふかし、火を消した。
 「それにしても、昔はよかったですよ。未来なんてもんのことは考えもしなかった。考える必要がなかった。あの頃はよかったなあ。お袋と二人でどこまでも氷の上を滑って……幸せだった」コウテイペンギンさんの真っ黒な目に一筋の涙が浮かんでいた。
 「ぜんぶあんたらのせいですぞ」
 物悲しいその声が夜の街に木霊した。それからすぐ、コウテイペンギンさんはばたりと地面に倒れこんだ。抱き上げるとカラスの鳴き声のようなイビキが嘴のあたりから聞こえた。どうやら眠ってしまったようだった。

君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない