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海の青より、空の青 第29話

二人の目指す場所

 潮騒に混ざり、たまに遠くの方から海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 海原を左手に見ながら彼女の歩調に合わせ、かれこれ十五分くらいは歩いただろうか。
 振り返ると亜麻あま色の砂浜に二人分の足跡だけが、そっと寄り添いながらどこまでもずっとずっと続いていた。
 先ほどから僕と彼女は会話という会話をしていなかった。
 それは話すことが無くなったわけでもなければ、歩くのに疲れたからというわけでもない。
 互いに手と手を取り合い、同じ景色を見ながら同じ方向に歩みを進める。
 そうすることで今、僕と彼女は今ひとつになっていた。
 もはや言葉を交わす必要すらないほどに。

 さらに十分ほども歩くと、霞んだ景色の向こうにようやく低い山が見えてくる。
 その海側の山麓にそびえ立つ白亜の塔こそ、彼女の言っていた灯台なのだろう。
 この海には毎年のように訪れていたが、こんなにも遠くへと来たことはいまだかつてなかった。
「夏生くん」
 彼女は突然僕の名を呼ぶと立ち止まり、ずっと繋いでいた手がそっと離れた。
 手と手とが合わさっていた部分が外気に晒され、初めて自分が手のひらに汗を掻いていたことに気付いた。
「夏生くん。私がいいよって言うまで目、つむってて」
 何年か前に従姉あっちゃんにも同じ様なことを言われたのを思い出しながら、僕は彼女に言われた通り瞼を閉じた。
 視覚が閉ざされると急に波の音が大きくなったように感じ、まるで自分が海の上にでも立っているような錯覚に陥る。
 時間にすればわずか十秒足らずだったはずだが、視覚からも触覚からも彼女が消えていたその時間は、それよりも随分と長く感じられた。
「もういいよー!」
 その声がやけに遠くから聞こえた気がして目を開くと、数十メートルも離れた場所でサンダルを両手に持ち、裸足になった彼女がこちらに手を振りながら「灯台まで競争ねー!」と言うや否や、くるりと身を翻して走り出した。
 呆気にとられ口をポカンと開いたまま、徐々に小さくなっていく後ろ姿を眺めていた僕だったが、事態を把握すると砂を思い切り蹴ってその背中を追いかける。

 脚力にはあまり自信がなかったのだが、これでも一応は現役のバスケ部員だ。
 遥か彼方に小さく見えていた後ろ姿が見る見る間に大きくなってくる。
 ものの数十秒で彼女の横に並び、そしてさらに数秒後には置き去りにする。
 追い越しざまに彼女が発した「待って-!」という声にドップラー効果が掛かって耳に届くが、次の瞬間にはそれすらも聞こえなくなっていた。
 そのあとも振り返らずに五〇〇メートルほどの距離を二分と掛からず駆け抜け、灯台の目前まできてようやく足を止める。
 肩で息をしながら振り返ると、すでに追いつくことを諦めていたふうの彼女は、手に持ったサンダルを頭の上で振りながらゆっくりと歩いていた。

「夏生くんって足、早いんだね」
 ようやく追いついてきた彼女は、足の裏に付いた砂を払いながら少しだけ悔しそうな顔をする。
「これでも男の子だからね」
 走力への言及は避けつつ誇ったような顔をして見せたあと、サンダルを履き終えたばかりの彼女の手を再び取る。
 そうして僕たちはまた、ひとつになることができた。
「小さい頃はすごくおっきいと思ってたけど、そんなでもなかったかも」
 目の前の白い塔を仰ぎ見ながら彼女がそう呟く。
 僕に言わせれば十分な威容を誇っているように見える灯台だったが、幼い彼女が見たそれはきっと、いま目の前にあるものよりも何倍も大きく見えたのだろう。

 この灯台はちょっとした観光スポットになっているようだ。
 灯台から少しだけ離れた木陰にはベンチが二基ならべて置かれており、その脇には自動販売機もぽつんと一台設置されていた。
「志帆ちゃんはどれがいい?」
 ポケットから財布を取り出しながら彼女に声を掛けると「あ、自分で買うよ」と慌てたような声が返ってくる。
「どれでもいいならブラックコーヒーとかおすすめだけど」
 彼女の言葉を無視し、ブラックコーヒーのボタンに手を伸ばすをする。
「あ! 待って! ……りんごジュースがいいです」
 ブラックコーヒーのボタンから左斜め下へと腕をスライドさせ、彼女が所望したりんごジュースのボタンを押下する。
 ゴトンという色気にない音と共に取り出し口に転げ落ちてきた缶を拾い上げて彼女に渡すと、自分用には普段からよく買う青色の缶のスポーツドリンクを購入した。
「ありがとう」
 そう言いながらプルタブに指を掛けて缶を開けようとした彼女だったが、どうもその手付きが怪しいように見えた。
 黙って手を差し出すと、素直に「お願いします」と言って缶を渡してくる。
 開封したそれを再び渡ながら、スポーツドリンクを給油でもするかのように口の中に流し込む。
 二十分ほどの散歩――そのうち数分は『かけっこ』だったが――で乾ききっていた喉が一気に潤う。
 彼女のほうに目をやると、まるで淹れたてのホットコーヒーでも飲むかのように、缶を両手で保持しながらチビチビと味わっている様子だった。
 その白く細い指の間からわずかに覗く缶のペイントに、『果汁0%』と書かれた小さな文字が見て取れた。
 それはかき氷の『ブルーハワイ味』と並び僕の中では昔からの謎だった。
 ただ、美味しいことには間違いないのだから、きっと深く考える必要などないことなのだろう。


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