見出し画像

海の青より、空の青 第30話

灯台

 短い休憩を終え飲み終わったジュースの缶をゴミ箱に投入すると、灯台のある海に突き出した堤防へと向かうことにした。
 夏の日差しを受けて輝くようにそびえる光の塔は、海上交通の安全のために建てられた海の守り神であるのと同時に、休日を楽しむ人々の憩いの場でもあった。
 水平線の上にある巨大な入道雲を指差し歓声を上げる、幼い兄弟とその父と母。
 三脚を立て高そうなカメラで写真の撮影をしている、革のジャケットに身を包んだ髭面の中年ライダー。
 そしてただここに来ることだけが目的だった、僕と彼女。
 各々が同じ場所に居ながらにして、それぞれの夏の時間を過ごしていた。

 彼ら彼女らの邪魔にならないよう、堤防の途端から少し離れた場所に腰を下ろして夏の大海原を眺める。
 あの海岸以外からこの海を見るのは初めての経験で、消波ブロックに当たり砕け散る波の姿は、砂浜からのそれとは随分と印象が異なっていた。
「夏生くんってさ、やっぱり夏生まれなの?」
 それは今までの人生でも何度か聞かれたことのある質問だったので、回答のテンプレートはすでに用意されていた。
「ううん、四月生まれ。なんかうちの両親が夏に出会ったからだって、そんなようなことを言ってた……気がする」
 そんな大味な理由で付けられた意味のあるような無いような『夏生』という名前だったが、当の本人である僕はそれなりに気に入っていた。
「志帆ちゃんは?」
「私は七月だよ。未来に向かって大きく帆を広げてって、昔お父さんが言ってた……気がする」
 夏に生まれたにしては、彼女は随分と白く透き通るような肌の持ち主であった。
 だが、海からの風を受けて長い髪を靡かせるその涼し気な姿には、『志帆』という名前がピッタリと合っているように感じた。
「夏生と志帆って、なんか海に似合う名前だよね」
 彼女はそう言うと、口に手を当ててクスクスと笑う。 
 そうして僕たちはこれまでも会うたびにしていたように、互いに思いついたことを口にしながら、しばらくの間話に花を咲かせた。
 
 気がつくと、ついさっきまで灯台の下にいた若い子連れの夫婦がいつの間にかいなくなっていた。
「志帆ちゃん。あそこまで行ってみようよ」
 堤防の突端を指差してながら腰を上げ、彼女の腕を引っ張り立ち上がらせようとした、その時だった。
「すみません、あの」
 バリトンを思わせる渋い声がした方向に顔を向けると、カメラを三脚に載せて海の写真を撮影していた中年のライダーが、再び「すみません」と口にしながらこちらに一礼した。
「僕は趣味で写真を撮っている者なんだけど、もし良かったらでいいんです。あなた方の写真を撮らせてもらえませんか? 不躾で申し訳ない」
 その突然の申し出に、僕と彼女は顔を見合わせて目を白黒させる。

 彼の説明では近いうちに写真のコンテストがあるそうで、その題材として僕と彼女が目に止まったのだという。
「僕は別に……いいですけど」
 立ち上がり掛けたままの格好で固まっている彼女に目をやる。
「夏生くんがいいなら、うん」

 彼に指示されるがまま堤防の縁に腰を下ろす。
「さっきされていたように、彼氏が彼女の腕を引っ張って立ち上がらせてください」
 彼氏彼女と言われたことに若干の照れと抵抗があったのだが、そんなことを彼に言うのはもっと照れくさかった。
 言われたとおりに先ほどと同じ動作を繰り返してみせる。
「ありがとう! すごく良かったです! じゃあ次は――」

 シチュエーションを変えながら数カット分の写真を撮影され、慣れない行為だったこともあり少し疲れてしまった。
 だがこの程度で人の役に立てたと思うと、疲労に見合うくらいの満足感もあった。
「ふたりとも本当にありがとう。あと最後にもう一枚だけ。これはお礼として後日あなた方に送らせてもらうので、どうぞお好きなポーズで」
 そう言われると逆にどうすればいいのか思いつかなかった。
 右往左往する情けない姿を見て察してくれたのだろうか。
「夏生くん、こっちきて」
 彼女は僕の手を引くと堤防の突端まで進み、カメラを構えたライダーの方にくるりと振り返る。
 こうして最後の一枚は、紺碧の海原と群青の空を背景にして僕と彼女が手を握りあっただけの、非常にシンプル構図の写真になった。
 写真の送り先をライダーに聞かれた彼女は、自分の住所と名前とを告げた。
 彼は僕と彼女に何度もお礼を言うと、自動販売機でジュースまでおごってくれた。
 引き受けてしまった直後は少し面倒だと思っていたのだが、これほどまでに感謝されると、何だか自分たちが偉業でも成し遂げたような気持ちになってくる。

 大きく手を振りながら去って行く彼を手を振り返しながら見送り、そしてついに灯台の下にいるのは僕と彼女のふたりだけになった。
「ちょっとだけ疲れたね」
 自動販売機脇の木陰に置かれたベンチに並んで腰掛けると、彼女は静かに僕の肩に体重を預けてきた。
 その行動に少しだけ驚いてしまったが、それは本当に少しだけのことで、すぐに彼女が疲れないように肩の角度を整える。

 しばらくそのままの体勢で言葉を交わしていると、急に彼女からの返事が返ってこなくなる。
 代わりに小鳥がさえずるような、小さくかわいらしい寝息が聞こえてきた。
 さっきとは逆に今度は僕が彼女の目覚めを待つ番だと決めながら、左肩に寄り掛かる安らかな寝顔をこっそり見下ろす。
 彼女の柔らかそうな髪が海風に流され、膝の上に置かれた僕の手の甲に毛先が触れる。
 絹糸のようなそれにそっと触れてみると、シルクのようにサラサラとした感触を伴いながら即座に手の中から零れ落ちていった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?