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#ネタバレ 映画「無法松の一生」〈1943〉

「無法松の一生」 〈1943〉
映画「グレート・ギャツビー」を連想
2022.7.30


( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)

「無法松の一生」は、小学生ぐらいの頃、(たぶん映画ではなく)TVドラマで観て、感動し、忘れられなくなった想い出があります。

今、言語化すれば、養子に出されそうになった子どもの頃の私も愛に飢えていたはずだから、主人公の心情が沁みたのかもしれません。

今、映画で見直してみると、(まだ途中ですが)意外にも映画「グレート・ギャツビー」を連想しました。

両者は、すでに結婚しているかつての恋人を、財力の限りを尽くして奪い返そうとする西洋人と、夫を亡くしている女に一目ぼれしても、尽くすことだけで一生を終える日本人の物語です。

映画「グレート・ギャツビー」を観れば、主人公・ギャツビーの哀しみを、「あれは自分だ」と、私を含めた世界の多くの男は思うのでしょうが、「無法松の一生」を観れば、多くの日本人は、「あれが日本人だ」と思うのかもしれません。

女に気持ちを打ち明けようとした「無法松の一生」が、当時の検閲官の餌食になったのなら、映画「グレート・ギャツビー」を観る私の目は、まるで検閲官になってしまったのかもしれませんね。

追記 2022.7.31 ( 「私益」から「公益」へ )

人力俥夫の松五郎(無法松)は、その仕事で記号化されているとおり、一対一で仕事をする個人事業主であり、さらに無法松と呼ばれているように、喧嘩っ早いことで有名でした。

そんなある日、(慣例に反して)芝居小屋に顔パスで入れてもらえなかったことに腹を立て、こんどは金を払って入り、客席で嫌がらせにニンニク料理を始め、従業員どころか、観客全員から非難を浴びせられるエピソードがありました。

そこに街の顔役が仲裁に入ります。

その時、顔役から、「慣例にはそれなりの事情があったはず。それを突然無視したのは芝居小屋側に問題がある。だから、松五郎の言い分が正しい。

しかし、松五郎の方にも問題がある。

あんたは罪のないたくさんの観客に迷惑をかけた。こっちの方はどう始末をつけるつもりかね」と諭されます(表現は正確ではありません)。

そうしたら、すぐに松五郎は頭をかいてあやまりました。

それを観た顔役は、「あんたみたいに竹を割ったような性格の人は見たことが無い」「これで私の顔も立った」と、上機嫌で酒宴を用意するのでした。

継母にイジメられて家出した過去を持つ無学な松五郎は、世間は弱肉強食だという人生観を持ち、悪事こそ行いませんでしたが、自分の利益の事しか考えない人間に育った可能性があります。

しかし、おじさんになって、初めて高級な公益という概念を教わったのです。

彼は軍人の未亡人から頼まれ、ひ弱な男の子を逞しい男に育てる父親代わりになることにしました。未亡人に一目惚れしていたからとも言えますが、これは、さっそく公益という概念を実行したのでしょう。

しかし、愛を告白すれば、単なるラブストーリーになってしまいかねません。成就しない可能性がありますし、「下心があったからだ」と世間で言われては松五郎のプライドが許しません。

だから、恋心は秘めたままの方が良いのでしょう。

当時の検閲でも恋心が問題視されたようです。詳しくは知りませんが、おそらく「出征している兵隊さんの奥さんを口説く男を連想されては、兵隊さんも安心して戦えないから」という気持ちだったような気がします。

いずれにせよ、松五郎が大っぴらに恋愛を語り、もし、それが成就するような展開になっては、この物語の柱が、公益から恋愛になってしまいかねないと思いました。

追記Ⅱ 2022.7.31 ( お借りした画像は )

キーワード「秘めたる」でご縁がありました。美しいブルー、氷雨の世界観ですね。少し上下しました。ありがとうございました。

追記Ⅲ 2022.7.31 ( 映画「嫌われ松子の一生」 )

映画「嫌われ松子の一生」は、映画「無法松の一生」と何か関係があるのでしょうか。

映画「嫌われ松子の一生」の主題は、「人生は他人の想い出になって完結する」だと思います。

映画「無法松の一生」の松五郎は、一対一でお客様を乗せる人力俥夫の仕事をしていましたが、そこでの人間関係は希薄なものでした。

しかし、恋をすることで、未亡人から頼まれ、男の子を育てることで、孤独な松五郎の人生も、他人の想い出になって完結するのです。

追記Ⅳ 2022.7.31 ( 映画「コラテラル」 )

ちなみに、映画「コラテラル」は、タクシー運転手が殺し屋であるお客様に深く関わるお話でしたので、こちらも気になります。

『 映画「コラテラル」では、殺し屋・ヴィンセント(トム・クルーズさん)が、タクシー運転手・マックス(ジェイミー・フォックスさん)に説教しました。

マックスの夢である、モルジブの写真や、惚れてる彼女の名刺、それにベンツのカタログなどについて、夢見るだけではだめだ「ある日鏡を見ると、老いぼれた自分が写っている」ぞと。』(私のレビュー・映画「コラテラル」の抜粋、加筆再掲)

ここで女性問題の説教をするシナリオは、映画「無法松の一生」の松五郎の美学を良しとしない、映画「グレート・ギャツビー」的な西洋人の美学のようにも見えます。このよう構図は、歌劇「椿姫」をモチーフにしたような映画「プリティ・ウーマン」にも感じられました。悲恋の二人を現代に甦らせ、ハッピーエンドに向かって突っ走る作品です。

映画「無法松の一生」のリズミカルな太鼓は、映画「コラテラル」では殺し屋の連射音になっていたように思います。

そして、松五郎 →(映画「嫌われ松子の一生」では松子)→ 映画「コラテラル」ではマックスに。

映画「無法松の一生」の冒頭の松五郎は、むさくるしい男として描かれていました。→ 映画「コラテラル」の殺し屋が、トムのイメージと離れた白髪頭で無精ひげの男に。

追記Ⅴ 2022.8.3 ( 映画「グレート・ギャツビー」 )

「無法松の一生」には人力俥夫が出て来ますが、「グレート・ギャツビー」には貧しいクルマ屋が印象的に出て来ます。又、ギャツビー自身もクルマ好きのよう。

同様に、ラストには、松五郎の家の土間にある、主を失った人力車と、風に揺れているマドンナのポスター → さみしさ・哀しさ・絶望感などを感じさせるメガネ屋(眼科?)の看板(看板は対岸にある緑の光をみつめるギャツビーの心象風景なのかもしれません)。

マドンナの子供のために(マドンナとの恋愛を成就するためでもあったはず)松五郎がコツコツと溜めた貯金通帳 → マドンナを奪い返すためにギャツビーが作った財産。

松五郎の生き様の語り手である街の顔役 → ギャツビーの生き様の語り手である隣人・ニック。

松五郎が打つ本場の祇園太鼓や運動会 → ギャツビーのにぎやかなパーティー。

など、意外に連想する点が多いのです。

オマージュの可能性はどうなのでしょうか。もし、その可能性があるとしたら、どちらが、どちらのオマージュになるのでしょうか。

ウィキペディアで米国の小説「グレート・ギャツビー」を見ると、1924年に脱稿、1925年に刊行で、日本語訳の初刊版は1957年のようです。

同様に「無法松の一生」を見ると、1938年(昭和13年)に「富島松五郎伝」の題名で脱稿し、「改造」の懸賞小説に佳作入選したようです。

時系列で言えば「グレート・ギャツビー」が先になるようなので、「無法松の一生」は「グレート・ギャツビー」の影響を受けて誕生したのでしょうか。

この路線は、映画「タイタニック」から映画「初恋のきた道」を連想するのと似ているように思います。



( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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