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#ネタバレ 映画「コラテラル」

「コラテラル」
2004年作品
足を洗いたい人たち
2004/12/2 23:06 by 未登録ユーザ さくらんぼ (修正あり)


( 引用している他の作品も含め、私の映画レビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)

殺し屋のヴィンセントは、本当は稼業から足を洗いたかったのではないでしょうか。でも、なかなか踏ん切りがつかぬまま、ズルズルと今日も5人を殺める契約を結んでしまいました。

ヴィンセントは孤独の中にいました。仕事の依頼人とは面が割れるのを防ぐ為に堂々と合うことが出来ず、かといって殺める相手とは、殺人という名の究極過ぎる人間関係の下では親しくなる事など不可能です。

ヴィンセントは今日も「これは自分の仕事なんだ」、「殺すのは私ではなくて弾丸だ」、「たった60億分の1人だ」などと自分自身を慰めていました。でも「ある日鏡を見ると、老いぼれた自分が写ってる」などと将来には不安を隠せませんでした。

そして、警察に捕まって死刑になったり、殺めようとした相手から返り討ちにあって、ゴミ捨て場に捨てられるような惨めな最後は迎えたくないと思っていました。出来るなら「地下鉄の中で誰にも気づかれずに静かに息をひきとりたい」と、殺し屋には相応しくない穏やかな最後を願っていたのです。これを堅気の願いに翻訳すると「最後は畳の上で死にたい」とでもなるのでしょうか。

そんなヴィンセントの唯一の心の友達はジャズです。ジャズは慰めの音楽だからです。だからジャズを演奏する相手を殺める運命になったときには、彼に生きるチャンスを与えようともしました。それも残念な結果になりましたが。しかし敵にチャンスを与える姿勢は、ラストの伏線であったのかも知れません。

そんなヴィンセントが偶然出会った男はタクシー運転手のマックスでした。マックスもまた孤独な仕事の中にいました。例えば一晩に5人の客をのせて、しばらく友人の様に雑談を楽しんでも、目的地に着けばその関係は消滅してしまうからです。

ヴィンセントはマックスにモルジブの写真や彼女の名刺、それにベンツのカタログなど、夢見るだけではだめだ「ある日鏡を見ると、老いぼれた自分が写っている」ぞ、と説教をしました。

あれは同時に自分に向かっても言っていたのですね。

そのほか、マックスの母親の見舞いに行き、花束を買うシーンなどは、ヴィンセントが堅気の生活に憧れる気持が見えた様な気がします。

そしてやってくる地下鉄のシーン。

ヴィンセントは最後の決闘のシーンでマックスに勝ちを譲ったのではないでしょうか。とっさに「計画が違っても適応すればいい」と決断しチャンスを与えたのかもしれません。

マックスにはベンツと彼女を手に入れる夢を実現させる為に、そしてヴィンセントは友に、足を洗わせてもらう夢を実現させてもらうために。

追記 2004/12/4 10:26 by 未登録ユーザさくらんぼ

この映画はのモチーフは「人と人との邂逅」であると思いました。それにはタクシー運転手と殺し屋だけでなく、その周りの人たちとの邂逅も含まれます。

そして、とりわけこの映画がスポットを当てていたのが「見下していた者たちとの良き邂逅」です。タクシー運転手が殺し屋に「あんたは見下げた人間だ」と言うセリフが有りました。しかし、やがて、その見下していた殺し屋から良き影響を受けて運転手は目覚めるのです。ラストの夜明けのシーンには夢だけの生活とは決別する意味も込められていたのかもしれません。

また女性検事は、最初はタクシー運転手を内心見下していたはずです。少なくとも自分と同列には見ていなかった。そしてたぶん恋人も。しかし、その運転手が命の恩人となるのです。(誤解の無いように言いますが、私はタクシーの運転手に偏見は持っていません。)

これらの「見下していた者たちとの良き邂逅」は映画「ラストサムライ」にも通じるテーマであったのかもしれないと思いました。

ところで「足を洗いたい人たち」はこの三者の内の一人であり、もっとも「見下される立場」(本人はそう思っていなかったかもしれませんが)でありながら、あまり語られなかった殺し屋の内面を、少し想像で膨らませてみました。楽しんでいただけたのでしたら嬉しく思います。

追記Ⅱ 2005/3/20 6:57 by 未登録ユーザさくらんぼ

ポスターなどを見ると、トムが演じる殺し屋は、ダンディを気取っていますが、無精ひげが生えノーネクタイですね。殺し屋という人生に憔悴している様子が表現されていたのかもしれません。この作品はしみじみとした隠し味を持つ佳作でした。

追記Ⅲ ( 目覚めの爽快感は健康指標となる ) 
2015/9/14 15:53 by さくらんぼ

今朝のNHK「ラジオ深夜便」の話です。

半分眠りながら聴いていましたので、正確では無いかもしれませんが、午前4時台に、たしか名古屋大学名誉教授の先生が、こんな話をしていました。声だけを聴いていると、政治家の麻生先生にそっくりな、明るい方です。

『 人間は本来112歳まで生きる。もし短命になるとしたら、それは毎日の不養生のせいである。自分がどの程度不養生しているかは毎朝目覚めた瞬間に分かる。指標は、小学生のころのような「爽快感」がどの程度あるかである。 』 ( 概ねこんな話でした。)

これを聴いた時、気功で言う「元気」の話と似ていると思いました。

ご紹介すると…

『 人間には持って生まれた「元気」という「気」がある。それは、遊んでいても、仕事をしていても、楽しんでも、心配事をしていても、消耗していき、それを使い果たしたときが寿命である。

気功をすれば外気から新しく「気」を取り入れることができる。それは「元気」そのものではないが、「元気」の補助となって「元気」の消耗を抑え、結果、寿命を延ばすことはできる。

正しい気功をすると爽快感がある。爽快感が無かったら、どこかやり方が間違っているのだ。 』 ( こちらも記憶の要約なので、表現が正確ではないかもしれませんが、概ねこんな話です。) 参考「気功革命」盛 鶴延(著)

私が仕事をしていたときには、仕事での疲労と心配事で、朝の目覚めは爽快でないのが当たり前でしたが、リタイアした今は、朝の目覚めの「爽快感」が、健康指標であるのを実感できるため、養生に気をつけています。もちろん、気功をした後の爽快感も体験しました。

長寿はめでたいことですが、目的はそれだけではありません。不養生をしていて、早々と、中年以降にも心身の不調が出てきて、皆に迷惑をかけてもいけませんしね。

ネタ帳 10/10

これで、お約束したネタ帳の在庫放出が終わりました( 今回はラジオが面白かったので、急きょ、ネタ変更をさせてもらいましたが)。お読みいただき有難うございました。また、ネタが見つかれば、ときどき書かせていただきます。)

追記Ⅳ ( 映画「ヒッチャー」 (1985年) ) 
2017/8/16 21:34 by さくらんぼ

> ヴィンセントは最後の決闘のシーンでマックスに勝ちを譲ったのではないでしょうか。とっさに「計画が違っても適応すればいい」と決断しチャンスを与えたのかもしれません。マックスにはベンツと彼女を手に入れる夢を実現させる為に、そしてヴィンセントは友に、足を洗わせてもらう夢を実現させてもらうために。

映画「ヒッチャー」(1985年)から、この映画「コラテラル」(2004年)を連想しました。ともに、クルマに乗せた男から命を狙われる男の顛末記です。映画「ヒッチャー」のオマージュかは、今の時点では良く分かりません。

追記Ⅴ 2022.8.1 ( お借りした画像は )

キーワード「タクシー」でご縁がありました。幻想的ですね。色も美しいです。少し拡大し、上下してみました。ありがとうございました。

追記Ⅵ 2022.8.1 ( 映画「無法松の一生」 )

映画「無法松の一生」から、映画「コラテラル」を連想しました。

詳細は映画「無法松の一生」に書きましたので、お読みいただければ幸いです。




( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

更新されたときは「今週までのパレット」でお知らせします。)


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