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#沼落ち の日々

前回の記事に書いた通り、ツイッターでは日々「秀活」(西城秀樹の軌跡・功績を広く伝えるための活動)に勤しんでいるのだけれど。その合間に、ほんの時たま、遠い日の思い出を呟いてきた。

当時の日記も手帳もとっくに失ってしまって、記憶を辿る術もない。でもだからこそ、憶えていることを少しでも残しておきたい。でも。

そんな個人的な思い出を、公に書いていいのかどうか。なんだか自慢話みたいで、嫌な感じ、と思うかも。まあ、自分がどう思われようといいけれど、せっかく繋がった同志たちとのあいだに齟齬をきたすのは本意ではない。

どうしたもんか。と思いつつ、ある日ちょっとしたきっかけがあって、ひそかにこっそり呟いてみた。と、だだだっとコメントがついた。驚くほど沢山のリプをもらった。おそるおそる開いてみると、誰もがみんな喜んでくれていた。自分がその場にいたように思えてどきどきした、もっと聞かせて、と言ってくれた。

あまりのことに、ちょっと戸惑った。本当に良いの? 書いてもいいの? 戸惑いながらも呟いて、ささやかなスイートメモリーが少しずつ積もっていった。


最近になってようやく、ちょっと分かってきた。
例えば今、世界的なヒーローとなっている大谷翔平君。注目度が増し、興味が増せば増すほど、彼にまつわる話題が欲しくなる。野球のことだけでなく、素顔が知りたい。ひとつでも多く、エピソードを知りたい。知ることで、わくわくどきどきが増していく。

そうか、スターって、そういうものなんだ。
どんなエピソードでも、ささいな思い出でも、みんなで共有できてしまう。沢山のことを共有すればするほど、その人の面影が胸の中で確固たるものになり、ぐっと身近な存在になって、うれしい。
そういうことなんだよね。

そしてまた。
ツイッターで秀活していると、時に他の「推し」ファンと想いを交わすことがある。たとえば、少年隊、三浦春馬さん、スマップの面々の、ファンの人達。喪失感、使命感。知って欲しい、伝えたい、残したい、取り戻したい。たぶんそんな想いが、通じるのだろう。私達の「秀活」を見て、自分達も頑張ります、と言ってくれたりする。切なさ、もどかしさにへこたれそうになりながらも、前に進もう!と、エールを送り合ったりする。

そう。
推しへの想いはみんな同じ。

そんなことを実感していたとき、ちょうどこのnoteのトレンドに、#沼落ちブログ というタグを見た。興味を惹かれて読んでみると、ああ、そう、そうだよね、と激しく共感。もちろん対象の推しはイマのアイドルたちだから、書いているみんなは、ずっと若い。たぶんわたしの子ども世代、いやもしかしたら孫世代かも。

でも。
推しへの想いはやっぱり同じ。

推しとの出逢い、沼落ちしたきっかけ、その瞬間。初めての生推し。それはもう、どれもきらきら煌めいて、読んでいるだけでどきどきわくわく追体験。というより、むしろ、バック・トゥ・ザ・フューチャー。

悪いけど、推し活としては先輩です。今で言う「推しが尊すぎてしんどい」っていうのを、遙か昔に体験してます。しんどすぎて、人生変わった。その自覚さえあります。しっかりと。

70年代のことなんて、もう「昔話」の域かもしれない。けど、もしかしたらあの時代の方が、「推し活」は激しかった。歌謡曲全盛期の熱狂時代、あの頃の「推し」は、まさに「スター」で。遠くて近くて、やっぱり遠くて。

ツイッターで呟いていたそんな「沼落ち」の日々を、ここに少しずつ載せていこうと思います。気まぐれに、ぽつぽつと。










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