よなよな
いまでこそ、別に珍しいものでもなくなったが、その頃のオレにとって、それは初めて飲む味だった。ビールに種類があるということもよく知らなかったし、普通に市販されているラガー系のビールしか飲んだことがなかったオレにとって、初めて飲んだそのビールの華やかな香りは、まさにちょっとした衝撃だった。日本でよく飲まれている一般的なビールは、下面発酵という、低温で時間をかけて発酵させる製法で作られていて、ラガービールと呼ばれている。それに対し、上面発酵という、常温で短時間で発酵させる製法で作られているのがエールビールだ。一概には言えないが、喉越しを重視するラガーに対して、香ばしく華やかな味わいがエールの特徴だ。そのへんのスーパーで気軽に買える今とは違い、まだあの頃は一般に普及しておらず、オレにとってそのビールは、ローカルの特別な商品だった。夏を涼しい高原で過ごすことと、お金を稼ぐことを両立できる、一石二鳥のプランとして、オレはその派遣会社に履歴書を持って面接に行った。すぐに行って欲しいということになり、七月中旬からちょうど一ヶ月間の派遣が決まった。学校には全く行っていなかったが、当時のまだ高校生だったオレの東京のバイト先での時給は七五〇円で、しかもあまりシフトに入れてもらえなかったので、どんなに頑張っても月に七万を稼げたら良い方、という具合だった。リゾートホテルへ派遣される場合は、勤務を満了したら往復交通費を支給、時給は研修期間無しで八〇〇円、という契約になっていた。公休は通算で六日程度のシフトが決まっていたので、一ヶ月の滞在で十五万円以上が稼げる計算になっていた。オレは結果として、当たり前のように途中で嫌になって帰ったので実際に勤務したのは十日くらいで、交通費も支給されなかったから、結局の支給額は六万くらい、そこから交通費を引くと五万くらいしか手元には残らなかった。いまがどういうふうになっているのかはわからないが、当時のそのリゾートバイトの現場は、いま思っても本当に悲惨なものだった。歳は三十を越えたくらいの若ハゲで、家賃を払えるアテがないのと借金取りに追われているから、という理由でもうかれこれ何ヶ月もその長野のホテルの寮に住み着いているやつとか、殆ど日本語がしゃべれない韓国から出稼ぎに来ている人たちとか、ぱっとしない雰囲気のアラサーとアラフォーの女たちとか、何人かのグループを作って固まって妙にえばってるやつらとか、そういう人たちで現場は成り立っていた。どこか影のある同世代の聡明な美少女と恋に落ちることを夢にみていなかったわけではなかったオレとしては、完全にバイト選びを失敗した形になった。軽井沢のグリーンプラザといえば、子供の頃に家族旅行で泊まったことがあって、オレがそのバイトで勤務することになったビュッフェスタイルのレストランで、かつて家族で食事をしたこともあった。特に悪い印象もなかったし、むしろ良いホテルだと思っていたのだが、いざ働いてみると、ほんとうにデタラメな現場で、すぐに嫌気がさした。早朝五時くらいに出勤して、アルコールスプレーを吹きかけて生臭い冷蔵庫の中を拭くことから一日が始まり、朝食の勤務が終わると中抜けがあり、夕方からまた勤務に戻り夕飯をサーブする、というような毎日だったのだが、借金に追われている若ハゲが微妙に他のスタッフにいじめられていたり、あとは偉そうに指図をする社員とそれに媚を売る使えないバイト達、そういう図式が出来上がっていたりして、とにかくレベルの低い現場だった。オレはまず大食堂に配属されたが、何度かヘルプで入った小さいレストランのマネージャーにスカウトされた。君、優秀だね、と言われて、そうして社員はそのマネージャーが一人いるだけというそのレストランで途中から働くことになった。オレはそうやって期待されると、妙に頑張ってしまい、結果、自分が損をすることになるというなんとも難儀なたちで、案の定、ことは厄介な方向に進んだ。最初は全力で働いていたが、数日もすれば充分に嫌になっていたおれは、さっさと終わらせて帰ろうと思っていた。しかし、その意に反して、オレを長くこの職場に繋ぎ止めて置きたかったそのマネジャーが、勝手に契約期間を延長していたのだった。高校生だから舐められていたのだろうと思うが、むしろ早く帰りたいと思っていたオレとしては契約の無断延長は全くの心外で、延長されるのは困るし、むしろ早く辞めさせて欲しいと改めて申し出たが、無視された。そのマネージャーは赤い国産のSUVに乗っていて、同じレストランのバイトの女の子と付き合っていた。その女の子は、たぶん二十代の前半くらいで、当時十七歳だったオレからすると、とても大人びて見えた。わけのわからないブスとかデブとかのなかで、一番かわいいのがその子で、恋心までとはいかないまでも、その子は退屈な仕事場でのオレのささやかな癒やしだった。マネージャーと付き合っているということは特に公表はされていなかったが、ある時、その子が休みの日にの夕方に、マネージャーと手を繋いで歩いて、赤いSUVに二人で乗り込む姿を見てしまい、その夜の勤務中に他のバイトにそれとなく聞いたら、ああ付き合ってるね、とそっけなくそれが事実だということを知らされた。あんなクソマネージャーと付き合ってるのか、と思うと一気にテンションが下がって、その子までオレにとってはどうでもいい存在になってしまい、もはやバイトを続けるモチベーションが全く残っていなかった。最後の交渉をしようと思い、その夜、営業終了後にオレはマネージャーを捕まえて、話がしたいと伝えた。まぁ座りなよ、そう言って薄暗い店内でオレとマネージャーは向かい合って座った。身体に食べ物の匂いが染み付いていて気持ち悪かったし、早く汗を流したかった。何より、疲れていた。マネージャーは煙草に火をつけて、下らない能書きを垂れている。いかに君が現場に必要で、いかに君が優秀で、だからこそいつまでもいてもらえないと困る、そういうようなことをダラダラと話すマネージャーを眺めながら、オレはポケットの中の煙草の箱を指先で弄んでいた。吸ってもいいですか? 喉までその言葉が出かかったが、敵に不利な情報を掴ませたくないという本能がオレを押しとどめたのだろうか、ぐっと我慢した。目の前でうまそうに煙草をふかして客用の灰皿に灰をを落とすマネージャーの顔をみていたら、マネージャーの彼女の子の茶色く染めた髪と、白いシャツの背中に透けて見えていた紺色の下着を思い出して、そしてすべてがどうでもよくなって、これ以上話が長引くともう黙って煙草を取り出して火をつけてしまいたくなるような気がして、わかりましたもうちょっと頑張ってみます、と言ってオレは席を立った。建物を出てすぐに煙草に火をつけて、それを吹かしながら寮に戻ると、韓国人の人たちが宴会をしていた。彼らは、顔を真赤にしてビールをガバガバ飲んでいた。たぶん十歳以上は歳上の人だったが、ちょっとだけ仲の良い韓国人の男がいて、他の日本人スタッフに伝わらないように、オレは英語で彼に話しかけた。もうこの現場が嫌で、オレは今夜脱走することに決めた、迷惑をかけることになるかもしれないが、とにかく明日からオレはもういないと思う、短い間だったけどありがとう、そんなようなことを英語で伝えると、少しだけ驚いた様子だったが、嫌ならしょうがないよな、と言ってくれて、オレたちは缶ビールで乾杯したい。夕方のうちに、実は私物はおおかたまとめてあったので、脱走はそんなに大変でもなかった。翌日が公休日だという韓国人の彼と明け方近くまでビールを飲んだ。オレはそのころギターがそれなりに上手に弾けるようになった頃で、そのリゾートバイトにもアコースティックギターを背負って持ち込んでいた。寮の食堂で、サザンとかビートルズとかをオレは弾いた。グループをつくって固まっている日本人たちとは殆ど話さなくなっていたし、借金に追われている若ハゲとはたまに話したが、妙に人を見下した物言いをするので、好きにはなれなかった。何日か前に、同じように食堂で酒盛りをしていると、日本人グループのリーダー格だった背の低いくせ毛の男が、カンパリのボトルを持っていて、みんなに振る舞っていた。その頃のオレにしてみればカンパリというお酒は未知のものだったし、出どころがその男であることが少し気に食わないにしても、飲んでみたくて、食堂の湯呑みを持ってそいつのところに行った。いまはあげられないが、あとで部屋であげるから、十分くらいしたらオレたちの部屋に着てくれ、と言って追い返されて、彼らは部屋に帰っていった。言われたとおりに十分後に行くと、部屋には鍵が掛かっていて、外から呼んでも一切返事がなかった。次の夜、食堂にまたそのカンパリがあったので、オレはそいつの目を盗んで勝手に飲んだ。水で割って飲んだのだが、その鮮やかな赤色の見かけに反して、特に美味しいとは思わなかった。脱走の当日、これから眠りに着く韓国人に別れを告げて、ギターケースとタイヤ付きのキャリーケースと、それからダンボールを一箱、窓から外に出した。日本人達に見つからないように忍び足で寮の中を歩き、玄関で靴を回収して、まだ薄暗い明け方の高原にオレは立った。ギターケースを背負い、ダンボールを肩に担ぎ、反対の手でキャリーを引く、というスタイルで駅まで歩く予定だったが、キャリーのタイヤが壊れていたのと、ダンボールの荷物が予想以上に重かったこともあり、仕方がないので寮の物置にあった荷運び用に手押しの一輪車にキャリーと単ボールをのせて、それを押してオレは山を下り始めた。まだスマホがなかった頃だったが、ガラケーのimodeの地図を頼りに、オレは二時間近くはかかるだろうという道をただただ歩いた。途中、ホテルと駅を結ぶその道を、車で出勤するレストランの関係者たちと何度かすれ違った。マネージャーの赤いSUVが着た時は少しだけドキっとしたが、平静を保ったまま顔をそむけて、ただただ山を降りる道を歩き続けた。小学校の低学年のころのことだったが、ビーバー隊というボーイスカウトのような活動で劇の練習をしているときにも脱走したことがあった。あとから遅れて出勤してきた副隊長と逃げ出して間もないところの歩道ですれ違ってしまい、その場は顔を伏せてごまかしたが、しばらくして脱走そのものがバレて、慌てて走って戻ってきた副隊長に捕まって連れ戻された。ビーバー隊のユニフォームは茶色いベストで、オレはそのベストを脱いで、着ていたトレーナーの下に着て、逃げていた。劇では、森の木の妖精みたいな役で、全くやる気にならなかったし、そもそもの活動が苦痛でしかなかった。小学生のオレは、そこから逃げてもどこかに行くあてはなくて、ただウロウロとあたりを歩いていただけだった。その点、高校生になったオレは、きちんと自宅に帰るための逃走をしていた。とにかくひたすら歩いた。朝の高原はさわやかで、キャベツ畑とかを眺めながら、眠い目をこすりながら街を目指した。始発電車の少し前に駅から一番近いセブンイレブンについて、まだ駅から少しだけ距離があったが、とりあえず朝食を買って食べて、セブンイレブンの建物の裏に手押し車を捨てた。もちろん始発に乗るつもりだったが、だらだらしていたら乗り過ごしてしまい、仕方なく乗ったのは次の電車だった。東京に戻って、嫌だから帰ったということを派遣会社に連絡すると、勤務表を送るようにとだけ事務的に言われた。オレが急にいなくなってモーニング営業でマネージャーは困ったのだろうなぁと思いながら、東京に戻ってこれた喜びをオレは噛み締めた。荷物の中にはよなよなエールが何本か入っていて、オレはしばらくかけてそれを大事に飲んだ。いまになってみると、べつにエールビールが特に好きなわけではないと思うが、その頃のオレにとってじゃ、長野でしか買えない特別なもの、だった。いまでもよなよなエールを見かけると、リゾートバイトから逃げてきたあの夜明けのことを思い出すことがある。十七歳のオレと、今のオレ。得たものと、失ったものを見比べて、そして、少しだけ感傷に浸る。久しぶりに、よなよなエールを買ってきた。暗い台所で、十七歳から十年以上経ったオレは、懐かしいそのビールを、缶のまま飲んだ。(2018/01/29/04:35)
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