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ホワイトノイズ

 べつにうつ病になったりしたとか、そういうわけではないと思うが、ホワイトノイズばかりを聴いて過ごしていた時期があった。youtubeで、ホワイトノイズ、と検索すると本当にホワイトノイズを延々と再生するだけの動画が出て来る。それを部屋のスピーカーからただただ再生して、ただただ聴いていた。本来、ホワイトノイズというのは、能動的に聴くようなものではないのかもしれない。作業効率を上げたり、集中しやすくしたり、といった意図で無音よりもディストラクションにならない音、として再生されることが多いような気がする。それをどういうわけか、その頃のオレはただただ聴いていた。絵理子のことは、変わらず好きだったが、付き合い続けることが辛かった。自分勝手な考えかもしれないが、絵理子の彼氏で居続けることが、その頃のオレにはどういうわけか、耐え難いものに、いつからか、なっていた。デビュー、そう呼んでいいのかどうかわからないが、とにかく、プロのカメラマンとして仕事を始めて、ちょうど三年目だった。絵理子とオレは同じ歳で二六歳、絵理子は社会人四年目の年だった。オレには写真しかない、そう本気で信じて、五年前、オレは大学の経営学部を中退した。別に経営学に興味があって入ったわけではなかったし、大学に入るのは当然とおもっていたので受験して、受かったなかで一番いいのがそのオレが通っていた大学の経営学部だった。大学に入った頃は、将来のことなんて全然考えてもいなかったし、ただ漫然と、きっとオレは会社員には向かないのだろう、というようなことだけを考えていた。経営学部というのが、少なくとも初等課程では会計学ばかりを取り扱う学部であるということをオレは知らずに経営学部に入ってしまい、簿記がどうのとか会計がどうのとかそういう話ばかりの授業に一年生のうちに嫌気が差すようになった。小さい頃からカメラが好きで、大学に入ってからも迷わず写真部に所属していた。多くの写真部がそうであるように、暗室が完備されていて、自分で撮ったフィルム写真の現像が部室でできたし、写真に関心があるだろう仲間たちができたのは嬉しかったが、そのうちに、周囲と自分との間にある、写真に対するモチベーションの差に悩むようになった。当たり前だが、大学の写真部にいる学生たちが皆プロのカメラマンを目指しているわけではないし、プロのカメラマンを目指している学生に会いたいなら写真学科のある大学へ行くほうが遥かに話が早い。と、そんなことは当時のオレだってもちろんわかっていたつもりだったが、どういうわけか、おれは趣味感覚で写真をやっている周囲の学生に苛立ちを覚えるようになって、写真部に顔を出さなくなり、そのうちに、いまとなってみればただ時間の問題だったような気もするが、大学そのものにも行かなくなった。親は当然のようにオレのその行動には賛同はしなかったし、大学くらいは頼むから卒業してくれと涙ながらに嘆願されさえもした。それでもオレは、大学を辞めることが、さもイコールプロカメラマンへの道であるかのように、固い意思で大学を辞めて、そのうちに、ネットで見つけた募集に応募して、雑誌の編集部にアルバイトとして出入りするようになった。計算すると時給千円以下の安い賃金で、オレはひたすら編集部で働いた。その編集部での仕事は、大きく分けて、ロケで素材を撮ることと、誌面のレイアウトを作ることだった。校了間際にはオレも明け方近くまで編集部に残って校正作業に参加したし、時には原稿を書いたりすることもあったが、その編集部に入ったのは、そういった作業ではなくて、もちろん撮影の部分が目的だった。ジャケットや小物などのファッションに関連する商品などが誌面に載ることも多い雑誌を作る編集部だったのだが、撮影作業も編集部の仕事だった。カメラマンは外部の人間に依頼するが、撮影のアシスタントを別途つけるような予算はなく、オレみたいなバイトがほとんどつきっきりでいつも撮影に立ち会った。アシスタントなので、オレがシャッターを切ることはまず無かったが、ライティングの実作業や、構図作りの補助などの作業は、大いに写真の勉強になった。デジタルカメラが一般に普及して、ちょっと金をだせば誰でもプロ顔負けのカメラが買える時代になって久しい。画質でいえば、プロも素人も殆ど変わらないという時代になってしまった。そんななかで、プロと素人を明確にわけるがライティングだ。どこから、どれだけの、どんな光を被写体に当てるか。たったそれだけのことなのに、とても難しいし、奥が深いのがライティングだ。被写体を活かすも殺すも、その全ては光にかかっていると言っても過言ではない。幸い、腕のいいカメラマンが編集部には出入りしていて、オレは率先してその人が撮影する現場にアシスタントとして入るようにして、時にアシスタント業務は過酷さを伴うこともあったが、それでも、そこでオレはとにかく光の扱い方を学んだ。プロのカメラマンというのは、恐ろしいことに、名乗った瞬間からなることができてしまう。もちろんそれで食っていけるかどうか、というのはプロのカメラマンを名乗ることとは全く別のことなのだが、カメラを持っていて、有償で仕事を請け負うことを宣言しさえすれば、その日から誰だってなれてしまうのがプロカメラマンだ。そうして三年前、オレは雑誌の編集部のバイトを辞めて、プロのカメラマンとして独立した。そう言うと聞こえがいいが、実際は、名乗るようになったからと言って仕事がドカドカ来るようになるわけではないし、相変わらず雑誌の編集の手伝いもバイトとしてやっていたし、ネットで見つけたカメラマンの仕事の募集に応募して、とんでもなく割の悪い仕事を引き受けてしまったりすることも多かった。話が違ってギャラが全然もらえないこともあったし、カメラマンとして自活していくのは、思っていた以上に大変なことだった。プロのカメラマンになって三年、というのは、そうして藻掻くような暮らしを始めて三年経った、というだけのことだった。絵理子と付き合い始めたのは二十一歳の頃だった。その頃、オレはまだ大学を辞めていなかったし、プロのカメラマンになる覚悟もできていなかった。絵理子はそのあときちんと大学を卒業して、大学で取得した資格を活かして就職した。面と向かってそういうことを話し合ったことはないが、どう考えても絵理子の方が収入は多いだろうし、将来の安定した仕事をしている。もちろん今更になってそんなことに気がついたわけではないし、そのことで絵理子になにか責められたりしたわけでもない。才能に自信が無いのかもしれない。もしかすると、ほんとうはただそれだけのこと、なのかもしれない。それでもオレには、自分には才能が無いと認めるその勇気さえもない。才能があるからといって仕事が増えるわけではない。オレよりも下手くそなのにオレよりも稼いでいるカメラマンだってたくさんいる。だから、才能がどうのこうの、という問題が重要なわけではないのかもしれない。それでも、このままこれから先も、この道でしっかりと生き抜いていくという自信がもてないような気がしてしまうときがある。才能がもっとあれば、そういう考えは単なる逃げかもしれない。それでも、オレが逃げ込めるところなんて、他にそんなにない。絵理子に悲しい思いをさせたくない。それは本心から思っている。でも、どういうわけか、オレに才能がないかもしれないということが、絵理子をこの先の人生のどこかで不幸にしてしまうかもしれない、ということにつながっているのだと思えてしまうことがある。絵理子に別れて欲しいと伝えてから、オレはホワイトノイズばかりを聴いて過ごしていた。絵理子は突然オレに別れを切り出されて、全く腑に落ちないし、理解できないという様子だった。あまりにも突然だったとは思うし、浮気をしているとか他に好きな人ができたのだとか思われたとしてもおかしくない。大切だから、大切過ぎるから、別れて欲しい。そういうふうに思うことがあるなんて、かつてはオレも想像さえできなかった。いまでも、自分が何を本当は考えているのかわからないような気がするときもある。できれば絵理子とはずっと一緒にいたいが、それでも、どういうわけか、離れなければいけないような気がしていて、別れて欲しいと伝えてからしばらく経ったが、それは今でも変わらない。たとえば半年、たとえば一年、そういうふうに期間を区切って絵理子と離れてみたらどうなるだろうか。才能がどうのこうのとか、そういうことでうじうじしないような人間に、オレはなれるのだろうか。来週、久しぶりに、絵理子に会うことになっている。最近はホワイトノイズを聴いていなかったが、さっきから、またオレは久しぶりにホワイトノイズを聴いている。たまに、なにかに試されているのではないかと思うときがある。誰が何を、誰に試されているのかはよくわからないが、たとえばオレが、たえば絵理子が、それから、たとえばオレと絵理子の関係が、見えないなにかに試されている、そんなふうに思えるときがある。オレは、絵理子に、何を伝えるべきなのだろうか。オレは、絵理子に、何を伝えたいのだろうか。ホワイトノイズの音の中に、考えが浮かんでは沈んでいく。好きだというだけで誰かと一緒にずっと居続けられるわけではないということを、少し前までのオレは、知らなかった。(2018/01/19/02:15)

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