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梅の香や忘れな草や木瓜老人

グーグルレンズでは「ダンコウバイ」と出てのだが不明の木の芽。花だとわかりやすいのだが。「だんこうばい」は梅に似た香木だそうだ。ちょうど『源氏物語』は「匂宮三帖」を読んでいるところだった。でも梅の匂いってよくわからないんだよな。花粉症ということもあるのだが。梅の香りはどんな香りだったか?今日の一句。

梅の香や忘れな草や木瓜老人

春の花でまとめて落としてみた。詠嘆のやを繰り返し使うのは良くないんだろうけど、春の花を三回使っているから気にしない。ボケ老人だから。

そういえば映画『林檎とポラロイド』という映画を録画してあり昨日見たのだが半分ぐらい見て、これ見たことがあったと思い出したのだ。調べたら過去ログに感想を書いていた。

一度見たと思ったら眠くなって寝てしまった。昨日はTVの録画をいろいろ見ていたが「欲望のサブカルチャー史 日本80年代」を見た。宮沢章夫を講師としたETVの「 ニッポン戦後サブカルチャー史」とは別の番組。まあ、似たようなものか?80年代のバブル世代の振り返りという番組。

YMOのテクノ・ポップは世界から見た日本の姿で、中国の人民服とかガスマスクの姿で彼らはアイロニーとして作ったのだがイギリスで思わぬヒットとなってしまってアイロニーとは受け止められなかったという。それ以降のメンバーの動向はテクノ(技術系)よりは自然派になったことを見ればわかること。坂本龍一などは原発を批判しているし。ただそれがコマーシャルに乗ってヒットしてしまうとなかなか降りれないことになってしまうのか?
糸井重里は教祖となることをむしろ自分自身をアンチだと捉えていた(「朝日ジャーナル」インタビュー)のに教祖になった。筑紫哲也の「若者たちの神々」という当時のニューアカやサブカルブームの火付け役は、後に教祖のようになってしまうのだが、その位置から降りられないと保守化していく。糸井重里はまさにその例だけど、糸井の場合は矢沢永吉のゴーストライターとして出たのに宣伝というメディアに乗ってしまった。それは日本の経済産業を生み出した(まさにバブルをうみだした)本人だから、その批評が出来てないのかもしれない。例えばここのコメンテーターとして林真理子が出てくるのだが、まさに糸井重里の下で学んで時代に乗った人(時代と寝たとも言われるが)なのだが、彼女の顔のクローズアップと神経症的な表情はそれを物語っている。彼女自身もその当時のバブルの女とかを批判していた(その最大の批判者がアグネス・チャンなのだが)のだが、表舞台に出る人じゃなかったのに表舞台に引っ張りだされている姿は哀れさを誘う。
もう一つ例を上げれば吉本隆明が資本主義社会に乗った。それは娘の吉本ばなながポイントだと思うのだが。娘を売り込む必要があったのだと思う。それは親心だったのかもしれない。今では吉本の娘ということで奇異な視線にさらされることはないが、戦後の二・三代目という政治家が多く誕生したのもこの頃だ。それは個人主義がますます跋扈していく中で金持ちと貧富の差が開いていくのだ。庶民の憧れも大衆という経済成長にあっては、責任という問題を日本で問うことは後退と見なされた。経済活動を進めていくことをバブル世代は望んだので、その結果が今の日本を生み出したということでもある。この番組のラストで「80年代はスカだった」とキャッチコピーが付くのだが、それで終わりにしてしまうのがメディアで責任のありかを問わないのだ。まあ、メディアにその責任の一端があるのだが。

当時のフランスの日本紹介の番組は花見の酔っ払いたちを映し出し、これが日本人ですとやっていた。今もそれほど変わらないが。

読書。大江健三郎『燃あがる緑の木』はそんな80年代が舞台で、やがて新興宗教の教祖となっていく男の話だが、彼がそういう者に批評的だったのに、村おこしや周りの者から神輿を担がれて教祖になっていくのだった。オウム真理教事件が大江健三郎にそれを書かせたのだが。最初は共同体という、それは反権力でもあったのだがどんどんヤバい方向に向かっていく。作家(大江健三郎)は静観するしかなかったのか?
語り手が両性具有の人で今のジェンダーの問題も見えてきそうなのだが、大江健三郎の中ではそれは虚構性として天使的(仲介者)として描いているのだと思う。

地下鉄サリン事件から28年目だった。28年前の今日地下鉄サリン事件が起きたのだ。


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