見出し画像

詩を読んで雲をつかむや秋の空

昨日も雲日より。雲の本のお勧めは、辞典は『風と雲のことば辞典』。古典文学は渡部 泰明『雲は美しいか: 和歌と追想の力学 』。現代文学は多和田葉子『雲をつかむ話』だろうか?

ここまでは「シン・俳句レッスン」で書いていたのだが、『風と雲のことば辞典』を読んでいて雲の言葉を探していたら(俳句のため)、部屋が暑くなって出かけたのだ。

やる気はあるのだが、こう暑すぎては思考力も減退する。今も午前4時で一番涼しい時だと思うが28℃もある。気温が高い上に湿度も高いからたまったもんではない。そう言えば昔(80s)は電車でも窓を開けて乗っていたよ、とかツイートしたら、同意する人がいてくれた。昔は風が気持ち良かったのだよな。『風と雲のことば辞典』でも「あ」から始まるが「秋風」とか涼しさの代名詞のような言葉が並ぶ。今は秋風も感じることはあるが、少し歩くともう汗だくだった。電車の冷房車の一瞬の涼しさは、秋風以上だけど。

このあと「シン・俳句レッスン」の続きをやる。今日で川名大『現代俳句』は終わりにするか。また返却日がやってきた。短歌の方も鈴木宏子『「古今和歌集」の想像力』は返却期限が来ているのだった。

昨日も図書館に行ったが、読まずに返した本一冊。役立たなくて返した本一冊。読み終わって感想も書いた本一冊を返却して、4冊上限(10冊)まで借りた。図書館には文藝春秋の芥川特集号があると思って行ったのだが、まだ入ってなかった。芥川賞作品は読んでいたので(芥川賞も予想的中)、選者の選評だけ読みたいと思っていたのだ。それを評価して点数にしてnoteに載せるとか考えていたのだが、本が置いてないのなら仕方がない。最近は当たり前のことしか言う人がいないから選評は昔みたいに面白くないんだよな。石原慎太郎とかガチガチの保守系で本はあまり読んだことはないのだが、世界の動きから外れた選評は面白かった。まあ、今ではそれが日本の社会の意見のようになっているが。

図書館で借りた『詩歌と戦争』は北原白秋が童謡の詩を作ってやがて戦争協力者となっていく過程を描いている本。あの時代にほとんどの人は戦争翼賛詩を書いているのだが、そのなかでも中心的な存在だったのが北原白秋だという。彼は終戦前に亡くなっていたので、それほど騒がれることもなかったのだが(いや騒がれたけど、また復活していくんだよな、そういう過程が書かれた本)。戦争詩特集は「高橋源一郎の飛ぶ教室」で去年やったと思う。戦争詩を書かなかったのは金子光晴ぐらいで、萩原朔太郎も書いていた。ちょうど読み終わった『詩の原理』なんか読むと戦争詩とか書きそうもないんだけどな。まあ白秋を尊敬していた詩人だからそっちのほうから頼まれれば断れなかったと言っているのだ。人間そんなに強いものでもないし。そうしない人は消えていくしかなかった。白泉のように。

それで今日は『詩の原理』の感想を書く。読書メーターのほうにさっと書いたのだが、後半は書ききれなかった。やっぱ今読むと保守的になりそうなところはあるのだ。文語がいいとか。萩原朔太郎というと口語自由詩の人かと思うかもしれないが、晩年は文語体の詩にかえっていくのだった。貴族性とかも言っている。一般ピープルとは違うんだよみたいな。その辺に優越思想があったのかもしれない。ただ口語詩は、宮沢賢治の「永訣の朝」とか素晴らしいんだよな。聴き逃し「カルチャーラジオ 文学の世界」は宮沢賢治をやっていて朗読とか聞くと素晴らしいのだ。

【聴き逃し】カルチャーラジオ 文学の世界 自分を生きる~再読・宮沢賢治(6)永訣の朝 8月10日(木)午後8:30放送 https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=1929_01_3880463

#radiru

まあ宮沢賢治はちょうどいいときに亡くなったというか、戦争協力とかの時代より前の人だったから。ただ宮沢賢治の詩はわりと保守的なので、その時代に生きていたら率先してやったかもしれない。たらればで話ても仕方がないのだが。

宮沢賢治の詩も音律のよさは音楽的なのだ。萩原朔太郎『詩の原理』に当てはまる。このへんから詩の研究をしているのだが。朔太郎は詩は主観的なものだから客観的散文は小説とかだというのだが。

現代詩で音楽的なのは谷川俊太郎かな。このへんがぎりぎりなのか?あとは頭でっかちになるか、相田みつをの人生訓みたいな詩になるか、金子みすゞが谷川俊太郎と相田みつをの間に入るかな。そんな構図。詩の才能もないので頭で理解するしかないのだけど。でも今やっぱ一番先進的なのはラップだと思うのだ。「ライムスター」とか詩は際立っている。今はもう時代遅れだけど、レジェンドではある。

これはもう1989年だもんな。主観的で音楽的だという詩のスタイルはラップに受け継がれた行ったのだと思う。文語?だよな。

でも最近和歌とか作るので文語はいいかもと思っている。変化ある言葉を使いたいんだよね。昨日借りてきた『古今集』の本は、そういう意味でもやっておきたいと思って借りた。

あと高踏派とかいわれるT.S.エリオット。翻訳は西脇順三郎がやっている。大江健三郎読書から広がりなのだが、そのへんの本も。朔太郎に言わせると象徴派まではいいが高踏派にあると保守的になるので、古典派ということだよな。古典の象徴がわからないと理解できない。それが詩のアカデミーみたいな特権階級意識なのだが。貴族的ということで、朔太郎は貴族性も必要だという。ニーチェの人だから。その辺から保守的になっていくのか?このへんはテリー・イーグルトン『文学とは何か』で読んだので普通に理解できない言葉を使う詩人は受け入れないのだが。大江健三郎が分かれ目になるのかもしれない。大江健三郎は詩人になりたかった人だけど小説家になったというような。ただ大江健三郎の引用する詩は高踏派でも理解しやすいんだよな。それが詩の翻訳的な引用だからか?

映画『テノール! 人生はハーモニーもこのへんの詩の興味からも興味深い映画だったが、結局フランスは階級社会でラップよりもオペラの方が高尚だという感じが残念な映画だった。彼はオペラ歌手としては成功しないだろう。低所得層から出てきたと騒がれるかもしれないが、そんな感じだ。オペラが悪いというのはなく、なぜラップミュージシャンで戦わないのかということだよな。オペラの要素を組み込めばラップは変わるけど、オペラに行ってラップを捨てるのだったらそこまでの話だった。偉大な歌手はいるかもしれないが、革命的な偉大さではないんだよな。2パックはそういう革新性を持っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?