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『同時代ゲーム』を読む(その6)

『同時代ゲーム』大江健三郎

海に向って追放された武士の集団が、川を遡って、四国の山奥に《村=国=家=小宇宙》を創建し、長い〈自由時代〉のあと、大日本帝国と全面戦争に突入した!? 壊す人、アポ爺、ペリ爺、オシコメ、シリメ、「木から降りん人」等々、奇体な人物を操り出しながら、父=神主の息子〈僕〉が双生児の妹に向けて語る、一族の神話と歴史。得意な作家的想像力が構築した、現代文学の収穫1000枚。

「第6の手紙 村=国家=小宇宙」

娘よ、そもそも都市生活者である私たちにとって村や国家や小宇宙とは何なのか?それらはお前との間にあるわけではない。≠なのだ。村≠国家≠小宇宙という関係性があったとしたら娘よ、お前と私との≠の関係性なのだ。それは脳内世界にだけある関係性だ。娘よ、お前はSFを読まないだろうけど私はSFに随分影響されてきた人間である。特にP.K.ディックとか。娘よ、私が思うのは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ぐらいは読んでみてもらいたい。

電気羊は架空世界に存在するヴァーチャルな羊であり、ネット世界に存在する羊と考えてもいいかもしれない。しかしそのネット世界ですらも羊を飼うにはコインが必要だし経験値が必要だということだ。そういう学びがあって初めて羊を手に入れられる。たとえば任天堂のゲーム『あつまれ、動物の森』でもただで自由に遊べるゲームではないということなんだ。そのシステムはゲームデザイナーによって、ゲームデザイナーは顧客の志向やら企業の力によって森の規模が決まる。しかし脳内世界は無限に想像出来てしまうのものなんだ。そのシステムの限界と脳内の自由な世界にはギャップがある。それを決めるのはゲーム内のルールであったり法というものなのだ。

「村=国家=小宇宙」というのは村を森に置き換えて『どうぶつの森』のようなコミュニティーだ。そして国家が任天堂のようなルールを作る企業だとしよう。そして小宇宙がゲームプレイヤーの脳内ということになると思う。

最後の手紙では、父=神主の裏切りがある。それは父=神主は外部の人なれど雇われた神主だったからだ。『どうぶつの森』のゲームデザイナーとしてもいいが、プレイヤーのためにもっと自由なゲームを作ろうとして、アップルから派遣されてきた研究者(それがアポ爺とペリ爺の天文学者なのである)が任天堂のノウハウを盗むというスパイ容疑をかけられて、父であるゲームデザイナーはその研究者のゲーム理論が優れていることに気づきながら会社を混乱させたくないと思う。そして研究員をスパイだと主張するのだ。そのような企業論理の世界とゲームプレイヤーの世界の葛藤の中にいながら、父であるゲームデザイナーはプレイヤーを裏切ったと、シナリオ作家である息子は反抗して新しい神が支配するゲームを作ろうとする。

それは柳田国男の日本の民俗学の研究。日本神話の「国津神」と「天津神」の入れ替え。森の神はもともとは「国津神」であったものが壊す人のような外部の「天津神」に屈服させらた。しかし壊す人は、「天津神」以前の神であり村の「国津神」だったのだ。その解釈を巡って壊す人を天津神の系譜に組み込むか、いやまったく独自の森の神なのだするのかの物語なのだ。

それは双子の兄である露己(ツユキ)が父に反抗して、森の壊す人に会いに行く。すでに壊す人の肉体はシリメという悪人によってバラバラにされてしまった。その肉を喰いながら生命の営みを育んできたのが森である。つまり壊す人は肉体をバラバラに破壊されながも魂だけは森の木々の中に宿っているというようなことだ。

露己は父の裏切りによる大日本帝国の従属する態度に反抗して森へ壊す人に会いに行く。それは外部の人として森を彷徨い壊す人の魂を求めたのだ。そして森のフシギを発見した。それは宇宙的なメッセージというような奇蹟だ。それが信仰というものなのだ。

ただ露己は狂人として「天狗のカマゲ」に取り憑かれた者として森から連れ出される。それはまるでデモの手足を機動隊に掴まれ連れ出されるように、デモのナマケモノのように手足を四方掴まれ連れ出されてしまうのだ。そしてかれは森のフシギ(露=小宇宙)を見るのだ。それは露に映った逆転世界。『伊勢物語』「芥川」にでてくる露と消えてしまう世界なのだ。

白玉か何ぞと人の問ひし時 露と答へて消えなましものを

『伊勢物語 芥川』

娘よ、それが世界だ。




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