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『同時代ゲーム』を読む(その4)

『同時代ゲーム』大江健三郎

海に向って追放された武士の集団が、川を遡って、四国の山奥に《村=国家=小宇宙》を創建し、長い〈自由時代〉のあと、大日本帝国と全面戦争に突入した!? 壊す人、アポ爺、ペリ爺、オシコメ、シリメ、「木から降りん人」等々、奇体な人物を繰り出しながら、父=神主の息子〈僕〉が双生児の妹に向けて語る、一族の神話と歴史。特異な作家的想像力が構築した、現代文学に刻まれる収穫1000枚。

「第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争」

娘よ、ほとんど手紙を出すこともない私だからこれが何通目かも忘れてしまったのだが、記録としてnoteに残してあったのが「第三の手紙」であったからまた四通目の手紙として書き続けていくことにするよ。

しかし、ここで最大の難問に気がついたのだが、娘よと呼びかけるお前の名前をまだ決めていないことに気付かされたというか、『同時代ゲーム』で双子の兄妹の名前が出てくるのが実に第四の手紙だったわけだ。その名前は露巳(つゆみ)、露己(つゆき)であると知ったのは先に読んだ尾崎 真理子『大江健三郎の「義」』だったのだが、その名前はまったくと言っていいほど覚えていなかったのは、第四の手紙まで出てこなかったからなのだ。ただ書簡体小説は読んだ記憶があり、その語り手は僕であり、相手は妹だった。ここに大江健三郎の文体の秘密があると思うのだ。つまり「妹」を固有名の露巳(つゆみ)にしない限り総ての妹の可能性のある処女(でなくてもいいのだが、兄の妄想の中では処女なんだろうと思う。それこそ神話的な再生の物語となるのだし)に対して兄の語り手の僕は総ての童貞文学青年とも言える。そこにこの書簡体小説の語りの秘密があったと思うのだ。

では何故そこで(第四の手紙)で兄と妹の双子の兄妹の固有名を明らかにしたのだろうか?これは由々しき問題である。何故ならば、その理由が正しければ私も名前をお前に固有名を与えなければならず自らの固有名を名乗らねばなるまい。それは細部のリアリティを明確にするという大江健三郎の教えでもあるのだから。

固有名について、例えば壊す人という一般名詞であった神話時代から生まれ変わりとして亀井銘助と言う固有名が出てきた背景について考えるならばそれは神話時代よりも歴史的事実としての「五十日戦争」を明確化するためにその首謀者の名前を明らかにせねばならなかった。

例えば第三の手紙で上げたイスラエルの「木を植えた男」は神話ではなく事実として、ヨセフ・ワイツというユダヤ人がイスラエル建国の「青い募金運動」として「木を植える運動」を始めたのは神話ではなく事実なのだからその固有名も明らかにせねばならなかった。亀井銘助も神話よりは村=国家=小宇宙の歴史的事実として名前を語る必要性があったのだ。

では露巳と露己はどうして名前を明らかにせねばならなかったのか?それは戸籍制度の問題が浮上してきたからろう。それは国家権力が重税を課すために、村=国家=小宇宙を日本国家として従属せねばならない法が存在したのだ。しかしそこに抜け道があり在の村では二人で一人の固有名を語り一人分の税金を納めることを考えたというのだ。

それで「露巳(つゆみ)」と「露己(つゆき)」も露のような世界に生きているからこの名前なのだと思うよ。娘よ、日本の和歌の歴史には露を世界に見立てて幻想を詠む風習があるのだよ。

そして「露巳」には「巳」の性質、つまり蛇なのだが、それこそ「おしこめ」の生まれ変わりとするのが名付け親としては当然の親心であったのだろう。己は字の通り、個人でありまた自己である「己」という漢字は重要なポイントだと思う。

さて、そこまで明らかにしたのに娘の名前を語らないとは不公平なものなのか?ここで語ってしまってむしろお前を幻滅せずにおかないかと。親の名付けほど勝手なものはあるまい。そうだ、笑い話として聞いてほしいのだが、以前子供が出来たらという妄想を抱いて「きょうこ」がいいと思ったのは古井由吉に『杳子』という作品があったからで、そういうネガティブさとポジティブさを含んだ名前がいいと思っていたものだが。「きょうこ」は今日子でもあり京子でもあるような。ただ女の子に子の付く名前は、すでに古臭く感じていたのだから、娘よ、お前の名前は「きょうこ」でないことは確かだ。

それともう一つ気が付いたのだが、最近流行っているという『推しの子』を観て、私は『同時代ゲーム』との共通性に気がついたのだ。その双子の名前はルビーとアクア(これも泡だ)だ。そして母親の名前がアイという名前はわたしの時代にはそれこそ掃いて捨てるほどありふれた名前だったような気がするのは「愛」と書いていろんな読ませ方のドラマがあったからなんだ。

娘よ、名前が無くて不安ならばルビーとでも呼ぼうか?なんかまがいものの宝石じみているが真珠とかの方が好みだが、この場合、真珠と書いてキラキラネームもいいかもしれない。そして私はアクアということになるのだろうか?『同時代ゲーム』としてのキャラ設定ということなのだ。

そう双子キャラ設定は、二人で一人前という特有な考えがあって(よく夫婦になって一人前とか言うが)、それは大江健三郎の小説でも『推しの子』でも変わらないと思う。たいてい逆の性格が与えられるのはお互いに補うためだと思う。ルビーとアクアだったら疑うことを知らないアイドルキャラのルビーと疑うことしか知らないプロデュース(演出家的な)アクアで母のような大スターを目指す。弁証法的だけど。

『同時代ゲーム』の場合は兄である露己(つゆき)は神話の歴史を書く人で(脚本家)で妹である露巳(つゆみ)は神話を生み出す人。その完成には二人は必要なく一人は消えて一人立ちしていく成長物語になるのだそうだ。

そういえば『鬼滅の刃』の兄妹も双子的であり一心同体というパターンだ。そういう物語分析もあるのだ。

名前のことだった。

壊す人は亀井銘助という固有名が出てきたのは戸籍制度の血税という大日本帝国が在の村を支配することになったからだった。亀井銘助は最初の反乱の時は仲介役として二回目は反乱軍を率いて、さらに「五十日戦争」が森の在の村の民俗史となるのだった。

それは戸籍制度によって一つの名前を二人で所有するというカラクリを亀井銘助が作って、つまり亀井銘助の中にも壊す人という一般名詞の者と亀井銘助という固有名の存在があったわけだ。それまでの物語で一般名詞ばかり強調されていたのはそういうことだったのだ。壊す人はまた次の世代にも壊す人が現れて、おしこめもまた次の世代のおしこめがあらわれる。そういう伝承があって語り手の僕と聞き手の妹という一般名詞の伝承の世界から第4の手紙では固有名で呼ばれる歴史世界になったのだ。それが、「五十日戦争」だった。

そして大日本帝国の侵略者で軍隊の指揮官として、「無名大尉」と村人が一般名詞で呼ぶのも固有名のある人物ではなく、ただ敵としての「無名大尉」だったからで、お前の代わりはいくらでもいるという、その「無名大尉」もすでに神話化して書き込まれることになったのだ。その妖怪性というべきもの、例えば座敷童が固有名ではなく妖怪「座敷童」となるように「無名大尉」もいつしか村の神話では欠かすことのできない「無名大尉」という不気味なキャラとなっていくのだ。

そういうことだ。ルビーには同調する相手ばかりではなく敵役が必要だということだ。それが有馬かなになるのか?さらにライバル・キャラとしてもっと強敵が現れてくるのか?その関係が相反すればするほど三角関係の中で弁証法化されるというわけだ。

『鬼滅の刃』でも次々に強敵が現れては仲間が死んでいくのはこの弁証法のためかもしれない。それは個人という闘いを超えて共同体の中での精神としていくものだからだ。手っ取り早く言えば大和魂ということなのだが、大江健三郎はどこかで魂(たましい)が濁って(だましい)になると騙すことになるということを書いていた。「魂」の問題は彼のテーマなのだ。それは『鬼滅の刃』では柱として魂の、『推しの子』だったらアイドルという魂の、『同時代ゲーム』はさて何の魂だろう?


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