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原民喜を読む

『夏の花・心願の国』原民喜 (新潮文庫– 1973)

現代日本文学史上もっとも美しい散文で、人類はじめての原爆体験を描き、朝鮮戦争勃発のさ中に自殺して逝った原民喜の代表的作品集。被爆の前年に亡くなった妻への哀悼と終末への予感をみなぎらせた『美しき死の岸に』の作品群、被爆直後の終末的世界を、その数カ月後に正確な筆致で描出した『夏の花』三部作、さらに絶筆『心願の国』『鎮魂歌』などを収録する。大江健三郎編・解説


『苦しく美しき夏』

原民喜と生前の妻を描いた作品。原民喜にとって妻は自分の自我を肯定してくれる母のような存在。それは童話を創作することなのだが、その世界の対極が戦時中の現実であるわけだった。突然、特高に逮捕されたり家政婦を雇うと盗みをして去って行ったり。現実は民喜にとって怯える場所だった。

そんな民喜にとって彼の創作する童話を褒め称えてくれる妻の存在はなくてはならない人だった。二人の世界は天上界だった。原民喜が翻訳した『ガリバー旅行記』につながる。自我が持てなくなっていく世界で、原民喜の自我を肯定するばかりか、守ってくれる人だったのが妻だった。

『秋日記』

敗戦後の作品。すでに妻はなくなっており回想ということなのか?作品はその当時のことのようだから日記を元にした作品かもしれない。ただ当時のメモは天気と夢しか書かなかったとある。現実的なことは苦手だったようだ。入院している妻のほうが夫に指示する感じ。妻は糖尿病でイニシリン注射をしてくれる先生が徴兵されるのでその心配をする。夢の世界は歯医者の夢で痛くないように治療してくれるとかたわいがないものだった。民喜も肺が悪いようだった。その治療のことがあったのかもしれない。妻に励まされたようだ。とにかく生活力がなくて神経が細い人だった。芭蕉の『おくのほそ道』の序文が出てくるのだが入院中の妻との別れを重ねてしまう。民喜も妻も俳句をやっていた。それで知り合ったようだ。だから花や自然の描写が多いのだ。

『冬日記』

民喜に英語の先生の就職が決まる。戦時に英語の先生も不思議な感じがするが、そういう就職口があったのだろう。それで妻は喜び、帰りにお土産を買ってくると大喜びしてくれるのだった。子供を褒める母親だ。学校での臭いが耐えられないという。人の臭いが苦手とか。英語を学んだ頃の青春の回想。姉から聖書を貰った想い出。妻は姉のイメージなのか。『マルテの手記』やトーマス・マンの記述。


『美しき死の岸に』

昭和初期~戦後期に多くの作品を残した抒情作家・詩人である原民喜の自伝的短編小説。1944(昭和19)年に肺結核で亡くなった、妻であり、作品の唯一の宛先でもあった貞恵との最後のひとときを、たれ込める当時のほの暗い空気とともに、静謐な筆致で描き出している。原が自死を決意し始めたころの文章と思われる。

妻の臨終の作品。書かれたのは戦後で妻の死から5年も過ぎていた。むしろ、民喜の自死の方に近い。「死の親和力」というかリルケ『マルテの手記』の影響なんだろうけど、日常では戦禍が刻々と破壊に近づいている。その中にあって妻のいる病室は別空間なのだ。バリアのような。病気の妻に守られている非日常。戦時だから日常が非日常で逆なんだけど。病室が隔離されているから別世界になる。それは死との境界例なのだが、聖書に親しんでいるものにとっては約束された安眠でもあるのだ。病弱の妻が「死んだらあの世から守ってあげる」と冗談で言う。それは冗談でもなかった。守られているのは民喜の方だった。戦禍から。そして、妻が実際に死んでしまうと置き去りにされた気持ちになってしまう。自死に近づいているのだった。

『死のなかの風景』

1944(昭和19)年に肺結核で亡くなった、妻であり、作品の唯一の宛先でもあった貞恵の死後、当時朝日映画社に勤務していた原の胸に訪れる心象風景を、そこへの就職を斡旋した同社勤務の友人・長光太とのやりとりを中心にして描いたもの。

自死の年の作品で自死の直前に書かれたような。妻が死んで取り残された者たちの営み。民喜は映画会社に勤めていた。当時の映画だから軍部の検閲を受けたものだろう。友人がいつか自由に映画を撮ってみたいというようなことを言う。民喜はもうそんな時代がやってくるとは信じられなくなっている。妻の死後ふらふらと街を彷徨っているような。同じく妻を看病していた実母は神戸の田舎に引っ込むという。姪は妻と同じ肺結核で、妻の形見の着物を上げることにする。民喜も実家に帰ることにする。その道中(鉄道)での空襲の情景。ますます戦禍は酷くなり妻はもういない。

『夏の花』

「夏の花三部作」の二。初出は「三田文学」[1947(昭和22)年]。原爆投下からの原一家の動きと広島の惨状を、「壊滅の序曲」とは違って一人称で生々しく描いていく。当初の題は「原子爆弾」といい、「近代文学」誌上にすぐ掲載される予定だったが、GHQの検閲を考えて取りやめられ、後日その目を逃れるように「三田文学」に載った。

亡き妻の新盆の為に実家へ戻っていた原民喜。妻の墓参りを済ませて二日後に原爆にあう。厠で原爆にあった私は裸で飛び出し、天地がひっくり返す様子を滑稽的に描いている。太字の「うわあ」という叫びの繰り返しは漫画的でさえある。しかし、その後にどうも常時ならざる爆弾だったことを知るのだ。崩壊した家を出てあとの描写は(GHQの検閲で削除されるのを考慮したというが)、地獄変だった。そして『壊滅の序曲』で描いた甥の死。

言葉を失った作家はカタカナで表記する。それがあとに有名になる「パット剥ギトツテシマッタ アトノセカイ」。女学生との会話と甥の死を描くことで、若い未来が失われた絶望の世界を描き出す。それが後の『心願の国』に繋がっていくのだ。神保町界隈の喫茶店での平和な若者の情景へと。

『廃墟から』

「夏の花三部作」の三。初出は「三田文学」[1947(昭和22)年]。広島の原爆に遭遇して数日後、原は親類とともに広島郊外の八幡村に移るが、その後の原一家の状況をやはり一人称でその時々の考え・感情を込めてまざまざと描いている。

原爆の悲惨さを物語ってはいるがある部分戦争が終わってからの立ち上がりの書とも言える。建物が全壊したあとに中国山脈の山を眺めるのだ。恐怖は人間たちにあった。ある部分この作品は「天使の詩」だ。

「もう空襲のおそれもなかったし、今こそ大空は深い静謐を湛えているのだ。ふと、私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のような気持ちがするのであった。」

ベンヤミンの「天使」が降りてきたような心情だ。そして、原民喜はその広島に引きつけられていく。原民喜は原爆以前に最愛の妻を亡くして生きる希望もなく絶望していた。それで故郷の広島に戻っていたのだ。すでに敗戦濃厚の状態になりつつある広島では空襲警報がなりながらも爆撃はされていなかった。それが『壊滅の序曲』での三人称での描写である。順番的には『壊滅の序曲』『夏の花』『廃墟にて』が時間軸での展開だ。

『壊滅の序曲』

「夏の花三部作」の一。初出は「三田文学」[1949(昭和24)年]。原爆投下直前の広島の徐々に緊迫していく空気を、原の実家をモデルとした森製作所を舞台に、本人だと見なされる人物も含め三人称で淡々と描いていく。

広島は空襲警報は鳴るが空襲はされなかった。そのことで県外から避難してくる人々。その人々は防衛せずに逃げ出した非国民扱い。広島を防衛すべきと留まるように軍部は言うがもはや従う者もいない。疎開の準備に忙しい家族の中で冷静に分析する正三であるが、自身も疎開することになる。実家での家族の諍い(疎開すべきとする妻と留まるべきとする夫の諍い)などの日常を描きながら危機的な状況が迫っていることが伝わってくる。本土決戦に備えて住民を避難させず留まらせて置こうとするのだ。それに従わない者たちの疎開する様子、「建物疎開」という空襲に備えて家を解体する作業も(守るべき軍部が家を破壊していく)、幾度となく空襲警報が鳴っている広島の原爆前の広島の様子を記憶に留める正三だった。

『火の唇』

敗戦後の作家の内面世界。彼という宙吊り状態の主人公。原爆の記憶が消えない中、東京での貧乏暮らし。そこで女と知り合う。未来のイブなのか?観念的な作品。「火の唇」という小説を書いているが、その題材を求めて戦後の東京を彷徨う。

原爆の記憶で実家の助けられなかった女中の話。彼女を置き去りにして去ってしまった懺悔の心情。「火の唇」は、生活の為に人間が人間を食いちぎる貪欲さを述べた内容。実家での妹と嫂の対立。生活に対する貪欲さが民喜には耐えられないのだ。

都会の女は、救いをもたらすのか?夜の店の女だが下駄を履いている貧しい女。女は愛人がいて帰ってきたので彼の元から去っていく。「生きて下さい」の言葉を残して。

『鎮魂歌』

[1949(昭和24)年]。原爆を生き残った「僕」は、自分のなかから止めどなく吹き出す原爆のイメージや原爆に遭遇した人々の声に貫かれる。小説も文体も壊れていくなかで、「僕」は人々の嘆きという鎮魂歌を身体全体で受けようとする。

原爆のPDSTの人の手記のような錯乱した作品。「原爆記念館」が出来たときに民喜を招待したという。そのトラウマに襲われ、次々に思考がぐるぐる巡っていく原民喜。同じ言葉を繰り返す観念の世界。小説よりも詩に近い散文詩。

その中で民喜の三才のときに亡くなった実母のことが浮かんでくる。中学生のときに叔母から聞いた母の幻影。その叔母を訪ねて母の面影を探したこと。父がそんな民喜を見て不憫に思い、父は民喜を東京にやったこと。そういう人格形成があったのだと知る。民喜の短編は子供時代の回想が多い。それは彼岸だから、死者の世界に憧れていく。原爆以降は死者の為に生きると決意する民喜だったのだ。。

ただウィキペディア見ても三歳のときに亡くなった実母のことは出てなかった。父が11歳のときに亡くなっている。あと影響が大きいのは「聖書」をプレゼントしてくれた姉の死。三才で亡くなった母は創作なのか?よくわからん。

死者の面影を引きずって生きなければならなかったのは姉の死からだった。『聖書』をプレゼントされたのが大きかったのだろう。それで死者への親和力が強くなった。「死者の為に生きる」という使命を感じて生きてきたが、現実の人間との乖離。生活のためにはなんでもやる貪欲な人間とあまりにもかけ離れている彼だった。

『永遠のみどり』

これが一番いい。救われる。遠藤周作とタイピストのU嬢が出てくる。梯久美子『原民喜―死と愛と孤独の肖像』に詳しい。タイトルはU嬢の着ていたドレス(ワンピース)だった。吉祥寺時代の想い出から、広島再訪。そこで精神的におかしくなってしまうのだが、まだこれの作品は小説として完成されている。

原爆後に東京に出てきたが身を寄せていた出版社が潰れて吉祥寺に移ったのだ。井の頭公園は亡き妻との想い出の場所。比較的心穏やかな頃に遠藤周作やU嬢と出会って、青春時代を追想する。U嬢に妻を遠藤周作に若かりし自分を見ていた。私小説。

後半は広島再訪。ペンクラブの誘いがあったが、生活は苦しく兄に借金の催促。嫂から妻と使っていた瀬戸物をどうするか?と聞かれアルバムを出して妻の写真を剥がそうとするが剥がれない。「水を下さい」と最後の言葉を残した女中の話。その言葉をサインしたのだが(原爆小説が売れて知名度のある作家になっていた)、その後その死者たちの声の幻影に悩まされる。後半は、やはり辛い話が出てくるが最後にU嬢の緑の服に救われる。未来へむけての「みどり」色。

『心願の国』

昭和初期~戦後期に多くの作品を残した抒情作家・詩人である原民喜の遺稿。1951(昭和26)年の夜、原は吉祥寺駅-西荻窪駅間の線路に横たわり、自殺する。原の自死に向かう決意や想いがそれとなく記されており、文章のそこかしこが、年少の友人・遠藤周作やU子嬢との日々、ふたりへ宛てた遺書と呼応し、響き合っている。

武蔵野界隈に住んでいた原民喜が精神がずたずたになりながら生きた記録である。この小品の背景は、梯久美子『原民喜―死と愛と孤独の肖像』に詳しい。鳥たちのさえずりが聞こえる朝の目覚め。それに同化することができない原民喜の記憶は原爆以前に妻の死によってもたらされていたのだ。むしろ原爆の悲惨さを伝える為に生きる決意をしたのだった。若い世代に伝えたい遺書とも言える絶筆『心願の国』は原民喜の彷徨する散文であり、すでに鉄道自殺の線路が見え隠れしている。しかし、彼は鳥となって高く飛び経ったのだろう。亡き妻の元へと。

『ガリバー旅行記』ジョナサン・スウィフト、翻訳原民喜


参考書籍

『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 梯久美子(岩波新書– 2018)



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