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啄木の裏読み「虚実皮膜」の寺山修司の世界

『啄木を読む―思想への望郷・文学篇』寺山修司(ハルキ文庫)

青森出身の著者が、岩手出身の先達・石川啄木の歌業について、「時代の青春を代表させることができた歌人」と称賛しながらも、そのダイアローグの不在を卓越した視点で論じた表題作ほか、「太宰を読む」「鏡花を読む」「江戸を読む」―など、日本文学史を撃つ寺山修司のゲリラ的新編集文学論                   (解説・小林恭二)

出版社情報

寺山修司が影響を受けた作家の虚実皮膜の作家論エッセイ。石川啄木だと棄てられた芸者視点でみるとか太宰の駄目作家ぶり。そんな中で夢野久作の啄木の三行詩を真似た短歌〈狂歌〉『猟奇歌』が面白い。啄木→夢野久作→寺山修司のラインが伺える。あと泉鏡花の好みとか。井原西鶴『好色五人女』からは「夜桜お七」の元になった「八百屋お七」。彼女を学生運動のさなかに登場させるエッセイ。滝沢馬琴『南総八犬伝』とかも興味深い。

啄木を読む

啄木の短歌を引用して、そこから伺える物語を寺山修司が想像する。啄木本(金田一京助『石川啄木』など)を踏まえているので、面白いアレンジ(編曲)という感じか?

「石川啄木大きらい」が良かった。「芸妓・函館小奴」の視点からの詩。

石川啄木は近代の天皇制と家族制度が結びつく家的なるものから離脱したいと願っていたが彼の内面にあるのは男尊女卑という近代そのものの姿だった。寺山修司は幸徳秋水らの革命思想に憧れながらも徹底できなかったロマンチストとしての啄木が描いている。啄木の家の詩が小坂明子『あなた』とあまりにも類似しているのだ。そこは絵空事のニューファミリーか?という夢でしかない。

現実には嫁姑問題で絶えず悩まされる家長としての啄木がいただけであった。

猫を飼はば
その猫がまた争ひの種となるらむ
かなしきわが家


そうした母を背負っていく姿は、寺山修司に『楢山節考』を想像させるのだが、それは日本的情緒の制度の中へ組み込まれてしまうのである。

たはむれに母を背負ひて
そのあまりにも軽さに泣きて
散歩あゆまず

太宰・中也を読む

太宰『走れメロス』からみる駄目男を太宰と重ねて読む太宰像。中也の方が長谷川泰子との恋愛は子供のままごとのような恋愛で泰子は中也を男として見ていなかった。そして小林秀雄に靡いたのは中也から離れたい為だった。恋愛の別れというより、住む場所の引っ越しというぐらいだったという。ただ中也はまだ思春期真っ只中で勝手に理想の女を妄想して燃え上がってしまったという説が面白い。

鏡花を読む

鏡花の『草迷宮』から手毬歌の考察。サッカーの元が戦争捕虜の首を蹴飛ばした成り立ちから、「手毬」もそういうものかと類推するが、そうではないという。お手玉のようなものがルーツだとするが、それでも鏡花『草迷宮』にこだわる寺山修司であった。

『草迷宮』は寺山修司が映画化していた。短編の実験映画みたいだけど。観れるかな?まず原作を読みたい。第二部は『夜叉ヶ池』を撮った篠田正浩監督との対談。『夜叉ケ池』は今見るといまいちだったな。玉三郎を見る映画か?

乱歩・織田作之助・夢野久作を読む

おもしろかったの夢野久作の『猟奇歌』という短歌形式の詩。啄木の三行詩を意識しているらしくパロディ詩もあった。猟奇的な狂歌なのだが、寺山修司の短歌に影響を与えたと思う。石川啄木→夢野久作→寺山修司という感じ。

泣き濡れた
その美しい未亡人が
便所の中でニコニコして居る  夢野久作『猟奇歌』

便所の中の未亡人がどうしてニコニコしているのがわかるのか?作者主体と考えると覗き見しているとしか考えられないが、そうじゃないだろう。作者は虚構として妄想を見るのだ。寺山修司の虚構性短歌はそこから生まれた。それと寺山修司の便所の俳句もあった。

便所より青空見えて啄木忌  寺山修司

江戸を読む

井原西鶴『好色五人女』から「八百屋お七」。林あまりの短歌に坂本冬美が歌った『夜桜お七』で有名だが、寺山修司はそれを学園闘争時代の話として組み立てるエッセイ。面白い。そうか、『色情めす市場』がそんな話だった。

滝沢馬琴は『南総八犬伝』。原作も読んだことがなく映画を見てもよくわからなかったのだが、寺山修司の解説は面白い。そういえば少年漫画で『アストロ球団』というのは『南総八犬伝』を野球漫画にしたのか。なかなか超人漫画で好きだったな。当時のロッテ監督の金田とか出てきて、現実と虚構が隣り合っている。もともと寺山修司もそのパターンだった。そういう虚構と現実の曖昧さみたいなもの。「虚実皮膜」の文学論。

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