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新月や詩から小説、闇(文芸批評)の中

久しぶりに映画を観た。そうでもないか?一週間前にも観ていたから。月曜日は伊勢佐木町の映画館が多いのだが、以前は割引料金だった流れ。土日映画館は混雑するので月曜が多くなった。

でも昨日は混雑していた。松本ヒロさんが安倍首相の映画『2887』にゲストで来ていたからソウルドアウトだったとか。私が観た映画は空いていたけど。今日もやるそうだ。反安倍映画。私も国葬には反対です。デモとか行かないけど。

昨日は月曜日で図書館が休みなのに、図書館に行ってしまった。野毛道を通って。そうだ、「野毛大道芸」も土日で終わっていたのだ。見に行きたかったのに、忘れてしもうた。ポスターだけ。

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昨日は新月でもあった。そこで一句

第26句 新月や大道芸の野毛小路  宿仮

ピエロが月を隠したという俳句にしたかったのだが。月並み俳句も26句まできたな。あと74句めちゃ遠い。

そういえば「十六夜杯」というnoteで俳句と短歌と川柳のコンテストがあるとか。さっそく俳句を三句作った。

短歌と川柳は難しな。短歌はもうドラマチックなこともないから。だから映画を観て、短歌を作ろうと思う。

川柳はよく俳句との違いがよくわからん。世相を詠めばいいのか?

読書。テリー・イーグルトン『文学とは何か』。第一章は、古典回帰の「ニュー・クリティシズム(新批評)」批判だった。ポスト・モダンだからね。モダンを批評するのだった。超モダンがT.S.エリオットの詩の世界。昨日が誕生日だということだった。

小林真大『「感想文」から「文学批評」へ: 高校・大学から始める批評入門』は、どうもテリー・イーグルトン『文学とは何か』を元にしているような感じだな。「批評とは何か」というような。難しくて構造主義から進まぬ。

『失われた時を求めて 10』は数ページ読んだ。そうだ、プルーストにウィリアム・モリス(超古典主義)とか出てくるのだが、古典主義の再評価という流れから第一次世界大戦になって、ブルジョアジーが台頭して、貴族主義が崩壊していく流れなんだ。いや、ブルジョアジーも大衆文化に取って代わらられる。それがポスト・モダンだった。プルーストの散文は、詩的言語から散文化への流れの中で読むと面白い。

それはロシア文学では、プシーキンの詩から散文への変貌。その弟子がゴーゴリなんだが、小説はゴーゴリから始まると言われている。プシーキンの決闘での死というのは、モダン社会の終焉の象徴的事件なのだ。ペテルブルグという場所がそういうロシア文学を生んだのは、先日読んだ井筒俊彦『ロシア的人間-新版』。その流れとして、ゴーゴリ『鼻』を読んだ。

日本の近代詩の始まり北村透谷『楚囚之詩』を読む。これは北村透谷が失敗作だと考えたのは叙事詩を書こうとしたのに叙情詩になってしまったからなんだよな。でもその叙情詩性が日本の詩文化を作っていく。そういう意味で重要な詩だったのだ。彼の後に島崎藤村が出てくる。読書メーターに上げた北村透谷『楚囚之詩』の感想。

楚囚というと中国の戦時の楚の囚人で望郷の念に取り憑かれた捕囚。それを元に日本の民権運動で囚われた囚人の叙事詩になっているのだが、故郷より若妻を忘れられない情けない男になっている。最後恩赦でそんなに喜ぶのなら最初から罪深いことはしなきゃいいのにと思ってしまった。覚悟性が足りない。恋愛詩の要素が入ってロマンチックになっているのかも。ただ後に出版を引っ込めているので透谷としても出来はいまいちなのだろう。近代詩の始まりなのだが、叙事詩より叙情詩なんだろうな。

『戦後短篇小説再発見13 男と女』の伊藤整『ある女の死』を読んだ。いまいちなのは借り物みたいだからだろうか?実体験でなく、谷崎潤一郎『刺青』のオマージュとか解説にはあったが、もやもやするのは不倫の行為がプラトニックに留まっているけど、結局は不倫になってしまったというような。太宰になりきれなかった安部公房と女優の関係のような小説だが、精神的過ぎるのかな。もっとドロドロの散文を期待してしまう。伊藤整は文壇史のほうが面白い。

そういえば似たような詩を書いてしまったな。ドロドロさが足りないかも。散文じゃないので省略してあるのだが。

あとファラオ・サンダースの追悼文。

ゴミ捨てに行って月でも探しに行こう。

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