『ならやま凮土譚』に参加してきました
ならやま凮土譚とは?
西会津町で開催されたアートツーリズム『ならやま凮土譚』の1月21日〜23日の回に参加した。
私たち参加者も「旅人」と呼ばれ、演劇の登場人物として、演劇の舞台である「あはい(間)」の世界を旅した。
まるで民俗学が演劇の形を取っているような体験だった。
※※この先はネタバレしております。各回で上演内容は違うそうですが、今後参加される方はご注意ください。
プロモーションビデオ
一言で言うと、すさまじかった・・・
現実世界の肩書きや社会的所属、悩み、障壁が一旦解除され、個の自分が剥き出しになり、感情や欲、生き方について、土地の記憶や自然の中の活動を通して、自分と対峙するような時間だった。
参加後1週間は、感覚が研ぎ澄まされすぎて、過敏な状態になっていた。
ジブリ映画「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」のような物語構造と自然観の中に、映画「インターステラー」の次元論があるようなすごい世界観。これは都会ではできないし、伝統文化や土地の記憶が残っている地域でしかできないと思う。
そんなすごいものが西会津で行われた事実に震えてしまう。
この「あはひプロジェクト」が発表された当初、ホームページを見て、プロローグの序文(下画像)に圧倒され、自分に合いすぎてクラクラしていたところに、幸運な流れがあり、参加できることに。
このプロローグは名文だと思う。平家物語の前文も暗記しているが、これもほぼ暗記している(笑)
この序文は演劇家のノミヤユウキ氏が書き上げた。
※土地の記憶について
この記事には「土地の記憶」という言葉が多く出てくる。
最近は「土地の記憶」という言葉がアンテナの高い人の間でキーワードになっているように思う。当然ながら、地域というのはどこも同じではなく、それぞれの歴史や風土、伝統、文化を持っている。その特色を生かした場づくりが重要なっている。
土地の記憶については、まず、安宅和人さんの『シン・ニホン』の中でこう述べられている。
また、井上岳一さんの『日本列島回復論』では「古来と未来」の文脈の中で、使われている。
※お断り
〈写真〉
参加期間中の3日間は、自分のiPhoneやカメラは封印していた。こちらの記事で使用している画像は、下記の4つのいずれかである。
・参加前に撮影した画像
・別日の別行事で撮影した画像
・初日に渡されたインスタントカメラで撮影した画像
・3日目の封印解除後に撮影した画像
〈登場人物について〉
今回、私は「旅人」として参加した。設定上、初めてこの地を訪れた人。
そのため、知り合いの方であっても、知り合いではないように表記する。
◆招待状が届く
ある日、帰宅したら和紙の封筒が届いていた。
中には、お手紙、集合場所の連絡、緊急連絡カードが。ほとんどが和紙でできていた。
◆1日目
物語は、いつも日常の風景から始まるもの。
仕事を休み、私が向かったのは野沢駅。本来は郡山駅集合なのだが、私は地元からの参加であるため、野沢駅に集合。
ここは私にとって、日常中の日常の場所。そういえば『銀河鉄道の夜』でも、この待合室が出発場所だった。
待合室で待っていると、見知らぬ3人組の男女が。1人はギターを持っていたりして、私と同じく野沢駅からの参加の人かと思う。
15:00ごろにバスが迎えに来て、3人の男女と共に、バスに乗り、郡山から乗ってきた友人たちと合流。バスには、あと2グループ乗車していた。
バスの添乗員は、何度も一緒にプロジェクトをやったこともある知り合い。しかし、最初から私など知らないような他人行儀。これも演出なのか?
バスで楢山集落に向かうのかなと思いきや、バスで1分程度の場所にある西会津商店へ。ここが冒険の入り口。
中に入ると、そこは酒場。ヴァイオリンを弾いているアーティストがいたり、知り合いの町の若者たち、芸術家たちがいる。私たち参加者(以下「旅人」)もそこに混ざる。
知り合いもたくさんいたので、「あなたたちも参加?」と聞こうと話しかけたけど、素知らぬふりをされてしまう。まるで見知らぬ人のように。
一方で一緒に野沢駅からバスに乗った見知らぬ3人の男女は、まるで昔からの知り合いだったかのように私たちに話しかけてくる。私たちのグループと他のグループをつないでいった。そして、旅人どうしも話すように。
知り合いが店に出たり入ったりしたかと思うと、いつの間にか町の若者が1人、2人といなくなっていることに気が付く。
外は雪が深々と降る。
次第に時間の感覚もなく(西会津商店は元時計屋であるため、時計が無数にあり、どの時間が正しいのか分からない)、誰が知り合いだったか、誰と知り合いじゃなかったかわからなくなってくる。どこからが現実でどこからが虚構なのかが分からなくなってくる。誰がスタッフで、誰が旅人なのか分からなくなってくる。
ここで気づいたことは、すでに自分は「あはいの世界」に入っているのだなと。
この世界では、現実世界の知り合いも知り合いではないということ。
そして、グループごとに後ろの小部屋に通されて、電子機器を封印する儀式。依り代(よりしろ=自分の分身の和紙を固めたもの)を渡され、顔を描き、水を1杯ずつ飲む。後で考えると、これは「あはい」の世界のものを体に取り入れることで、その世界の住人になることであったのではないかと思う。
ここで「三種の神器」を渡される。
中には
・インスタントカメラ(27枚撮)
・記録用の和紙
・楢山集落の地図
が入っていた。
そして、またバスに乗り込み、出発。
徐々に山の中に入っていく。
雪が深くなる。
日が落ちて暗くなる。
バスが途中で大雪で楢山集落まで登れないことになり、途中でスタッフ(かもしれない)人たちの車に乗り換え。彼らも現実世界では知り合いだけれども、まるで私に初めて会ったかのようなふうに話しかけてくる。だから、この世界では、私の知らない人。
この人たちは、異郷訪問譚(後述)でいうところの境界を越える援助者なのかも。
この日はいつにないくらい大雪の日だったそう。そんな日に私たちは楢山集落に足を踏み入れる。ある意味、この土地からの歓迎だったのかもしれない。
なんとか楢山集落に到着するも、そこはいつも行っている楢山集落とは雰囲気が違う。
夜の中にランプが見える。雪の中にランプが置かれていた。
いつもは納屋であった場所の様子が違っている。納屋が大きなビニールカーテンに仕切られている。まるで1つの部屋のように。
中に案内されると、こにはまるで芸術家の舞台のよう。
周辺部には、楢山集落の矢部一族と旅人が座る。
まず、このあはいの集落に入るための「洗礼」を受ける。
アートパフォーマンス「道具の年取り」が上演される。
この土地でかつて行われていた年中行事を、一流のアーティストたちがアートパフォーマンスに昇華させていた。
最初に1人のアーティストが私たちが座る席の前に吊るされた薄いヴェールの真ん中を横に切る。私たちは、ヴェールの合間から部屋の真ん中で行われるパフォーマンスを見る。
その音を背景に、もう1人が天井から吊るされた和紙に、楢山集落の土で作った墨汁で線を描く。
もう1人が、古い食器や茶器を楽器にして音を出していく。
最後に楢山の砂を線状に撒き、砂の「道」を作る。
この体験はなんだろうか。言葉が出ない。この集落や伝統文化に対する敬意が伝わってくる。
宿に入る私たちのグループは「十五夜」。いつも外からお客様が来る時はここで宴会をしている。
でも、いつもと何か違う。
テーブルの上は、この集落のものと思われる葉っぱや枝で覆われている。
酒場で封印した電子機器は、廊下のツヅラに入れるように言われて封印する。
そのうち料理人が夕食を持ってくる。
西会津の食材と伝統の料理。これはおいしかった。お米も楢山集落で採れたもの。
・こづゆ
・ごはん
・車麩の唐揚げ
・ニシンの山椒漬け
・ソーメンカボチャ
・馬肉の時雨煮
置いてある飲み物も和紙が貼ってあって見れないが、とてもおいしかった。
そのうち、昼間の見知らぬ男女のうちの1人のギターを持っていた男性が部屋を訪ねてくる。
「自分は旅人。仲間とはぐれたから、ここで待たせて欲しい」と。
招き入れて、4人で語りあう。旅人が持って来た泡盛はとても美味しかった。
彼とは土地の話や、壁の話、地域の話をする。
とてもゆっくりと流れる時間だった。
どのくらい時間が経ったか、時計がないから分からないが、そのうち、宿の人が旅人を迎えに来て、別れを告げる。
その時に宿の人から、カセットテープを渡される。
ラジカセでテープを再生すると、最初の案内が吹き込まれている。この声の主は、矢部家の先祖・矢部四郎太さんとのこと。
「鐘が鳴ったらしじまの時間。「名もない者」たちの世界だから声を出さないように」と。
やがて鐘がなり、私たちはあまり話さず、交代でシャワーを浴びて、眠る。
◆2日目
鐘が鳴り、起きる。明るくはなっているけど、何時なのかは分からない。
宿の人が、玄関に設置してある砂時計が落ちたら、外に集合と案内してくれる。
外に出ると、雪の壁がすごい。他の部屋に泊まっている他のグループと合流する。集落の周りを一周する。
部屋に帰ると、すでに朝食の準備がしてある。
朝食はお粥。
コーヒーブレイクをしつつ、部屋に置かれている箱を見ると、楢山集落の、この土地での生活や伝統文化に関係あるものがカードになっているのを見つけて広げてみた。
その後、外に出て、「かんじき」を履いて、宿のスタッフの案内で、裏山の「山の神さま」にご挨拶へ。
何かがいつもと違う。
雪蓑姿の宿のスタッフとすれ違ったり、いつもはない納屋が作られ、石が置いてあったり。
不思議なのは、いつもより「森の中」感が増していて、山の神さまの祠のある場所も、どこか異世界のような心地だった。
雪が枝に積もっていて、とても美しいと感じた。
そして、山の神さまの祠に、部屋ごとにお米をお供えする。
そうすると、今きた道の向こうの方から何かを叩く音が聞こえる。
正体は納屋に置かれた石の上で、和紙の原料となる「楮(こうぞ)」を叩く和紙職人たちだった。
その近くには、昨日、部屋に来た旅人や、見知らぬ人たちもいる。「また会いましたね」と話しかけられる。
和紙職人たちから「楮(こうぞ)を叩いてみますか?」と棒を渡されて、叩いてみる人もいれば、かんじきで雪の上を掘り進めていく人もいた。
みんな自由気ままに遊んでいる。
そのうちお昼になり、部屋に戻る。
部屋に戻ると、大きな箱が置いてある。「料理人が来るまでは封印」と書いてある。
やがて料理人が来て、箱を開けると、そこにはコケや食材で楢山集落の箱庭が作られていた。美しいと思った。
自分たちで野菜を切ったり、胡桃をすりつぶしたりたりして食事を作る。
メニューはざく煮。切った物を茹でる。
料理人が持って来たご飯は、炊飯器で炊いたものではなかった。釜で炊いたのか、昔ながらのご飯という感じだった。
***
ご飯を食べ終わり、話をしていると、食器を下げに来た料理人が、「外で歳の神(さいのかみ)の準備をしている」と教えてくれる。
早速、私たちも、宿の人や他の部屋に泊まる旅人が準備しているところに合流する。藁を運んだり、雪を踏んで場所を作る手伝いをする。
作り方は朝に会った雪蓑姿だった宿のスタッフのような方が教えてくれる。
そのうちソリ遊びが始まる。
誰が一番遠くまで滑れるか競争。大の大人たちでソリに興じる。旅人もスタッフのような方も関係なく、みんなで遊ぶ。
みんな思い思いの遊びをしていて、見ていてとても平和な光景が広がっていると思った。
歳の神に火をつけるのは明日とのこと。十分外で遊んだので、部屋に戻る。
ゆっくりした時間で、同じ部屋の仲間と長らく語り合う。外に散歩にも出かけた。
日が落ちていくのは分かるが、時間も分からなければ、天気予報も分からない。でも、その時間の自分の生命を一瞬一瞬味わっていく感覚を感じる。
そのうち、宿の人が来て、「招待状」をもらう。
昨日来たギターを持った男性から「昨日のお礼に酒盛りに招待します」と伝言とのことだ。
下に行くと、昨日アートパフォーマンスを見た納屋が酒場となっている。
ござが敷かれ、毛布や座布団もある。石油ストーブも準備されていて、暖かい。そこで酒盛りが開かれていた。宿のスタッフや、この土地の人、昨日のアーティスト、旅人、昼間の和紙職人たち。
みんなで酒盛りをする。
この光景は私が西会津の街中でやりたかったもの。ここにコタツがあれば最高だな。
色々な人と話す。現実の世界で会ったことがある人とも。
そのうち、音楽のアーティストが音楽を始める。それに共鳴して、その場でみんな何かで音を出す。
皿を叩く人、瓶を擦る人、テーブルを揺らす人、壁を叩く人・・・
ヴァイオリンと笛も入ってくる。即興のダンスをする人もいた。
その場の全員が何らかの方法でセッションに参加。
全身の鳥肌が立つ。
人間は誰かと共鳴をする生き物なのだ。誰もが何かしらの方法で他者と関わっていたいのだと体感する。
この不思議な光景は何だろう。一生忘れられない光景になった。
ここで、現実との境目がまた分からなくなった。
そして、外に出ると、雪にプロジェクションマッピングをしている。
納屋の前の雪の壁2ヶ所と、納屋の裏の雪の草原の上に。
近くでアーティストがヴァイオリンを弾いている。そして雪の草原の向こうでは、横笛でそれに応える。
別の場所では、雪の彫刻造りやかまくらづくりがされていた。
見たことがない異世界だった。
自分は、この「あはい」という物語の世界に来ているのだなとクラクラしてくる。
不思議に風もない。雪の中にランプが点される。空を見ると星が。
いつまでもこの物語の中に含まれていたいと思う。
この光景を見て、どこか日本神話の天照大神の岩戸伝説を思い出した。
岩屋の前で宴を開く神々が、天照大神に岩屋から出て来てもらおうとしていたならば、私たちが出そうとしていたものはなんだろうか?
しばらして宿の人から、「そろそろ終わり」と言われ、名残惜しいけれど、部屋に帰る。
部屋の仲間と、「すごかったね・・・」という会話をした以外は、体験が凄すぎてしばらく3人でテーブルに座ったまま無言で余韻に浸っていた。
しばらくして、鐘が鳴る。
交代で無言でお風呂に入り、眠る。
すごい体験だった。
◆3日目
まだ少し暗いうちから目が覚めて、残り2人を起こさないように1階に行き、ヒーターとエアコンをつける。
そして外へ。
雲海と山が作り出す絶景がそこにあった。
楢山集落には何度も泊まっているけれど、ここまでの風景はなかった。宿の人も「この風景はなかなかない」とのことだった。
雪の山の上に登り、その絶景を眺めながら、土地の記憶を考える。
別の部屋に泊まっていた女性が出て来て、挨拶をする。ちょっと先の雪の上に座って風景を見ていた。
コーヒーを部屋で淹れて、外で飲みながら風景を見る。
誇張なく、最高。贅沢すぎる時間。
そのうちに宿のスタッフも起きてきて、鐘を鳴らす。
朝ご飯は小豆粥。素朴な味でこれはおいしすぎた。
そしてコーヒーを淹れたり、出発の片付けをする。
そのうち、雲海を眺めながら朝風呂に入ろうということになり、交代で入る(「十五夜」の部屋のお風呂は2階にある)
雪が積もる風景を見ながら、遠くには雲海と山の絶景。そして楢山の薪で炊いたお湯に入る。これも最高だった。
宿の人に枝と和紙を渡され、山の神さまへのメッセージを書くように言われる。書いた和紙をおみくじのように枝に結ぶ。
またみんなで山の神さまの祠に向かう。
昨日お供えしたお米を引き上げ、その代わりおみくじを結んだ枝をお供えする。
また今日も、いつも行っている森の中の様子とは違う。
今日案内してくれている宿のスタッフも、その土地の人。その土地の人の人に案内されないと行けない場所というのが物理的にも精神的にもあるのかもしれない。
***
雪の中で山の神さまにお別れの挨拶をした後は、部屋で片付けや休憩をする。その後で、昨日準備した歳の神を行う。
この土地の人が火を付ける。日の下で乾燥させていたのか、よく燃える。
そこで、旅人たちが歳の神を囲み、1日目に作った依り代もそこに投げ込んで燃やすように言われる。
「3日間ありがとう」の思いを込め、火に投げ入れる。
そのうちみんな続々と集まってくる。
昨日の宴会の人たち、宿の人、和紙職人、料理人、1日目の夜に部屋に遊びに来た人たち、この3日間関わった人たちがみんなが来る。
鍋料理や、餅、スルメ、団子、干しさつまいも、温かい飲み物が振る舞われる。
みんな火を見たり、飲み物を片手に談笑したりして、雪だるまを作ったり、思い思いの時間を過ごす。遠くには美しい山陵が見える。
本当に豊かな光景だと思う。
私が見たかったのはこういう光景だったんだなと思う。
ここで、全日程の終了と電子機器の封印の解除が言い渡されたので、部屋に帰り、iPhoneを持ってくる。
(部屋に帰ったら、ツヅラとペーパーナイフが準備されていた)
2日ぶりにiPhoneを触る。まるで私のものじゃないような手触り。液晶のアプリ、重さ、温度。
そして歳の神の周りで起こっている風景を撮りまくる。
しばらくして、旅人だけが納屋の方に呼ばれ、お土産をもらう。
和紙が板に貼られており、それを剥がして持っていく。
一度部屋に戻ると、そこには、お土産が。
笹のちまきが。中はおこわだった。おいしくいただく。
そして迎えが来て、荷物を宿のスタッフに運んでもらう。
みんなで集合写真を撮り、バスに乗り込む。
楢山において、こんなにたくさんの人に手を振られて別れるのは、初めてのことなのではないかと思った。
バスが楢山集落を離れる。どんどん後ろに遠ざかっていく。
道道の周りの山や集落の風景がとても美しい。
バスがいくつかの集落を通り、そして橋を渡り、町に戻ってくる。
私の家のすぐ近くでバスが止まる。
同じ部屋の友人たちや、別のグループの皆さんに挨拶をする。
「良い旅を」
そしてバスを降り、高速道路に向かうバスを見送る。
この3日間、非日常の世界に行き、日常に戻って来た。そして何かを得たという実感がある。
しかし、その「何か」は分からないまま私の旅は終わった。
◆考察「あはい(間)の世界」
あはいの世界とは、そもそも何であったのか。
あはいの世界について、「旅の枝折」には、このように書かれている。
事前に楢山集落から届いた手紙には、このように書かれている。
■異郷訪問譚
私は、「あはいの世界」とは、「異郷訪問譚」の「異郷」だと思う。
今回の場合は、日常(現の世界)の先にある異郷に迷い込んだ旅人の物語であると思う。
異郷訪問譚とは、物語の主人公が異郷に赴き、そこで歓待もしくは試練を受け、異郷の異性と結婚したり、異郷の宝物を与えられたりした後、元の世界に帰り、元の世界の王となる型を持った物語グループの総称である。
異郷とは、異世界、非現実の世界、魔法の世界、神々の世界、非日常が起こる世界とされ、『桃太郎』の鬼ヶ島、『浦島太郎』の竜宮城、ジブリの『千と千尋の神隠し』の油屋の世界などが挙げられる。
ジブリや村上春樹作品はこの構造が使われている(ただし下記の⑨は描かれないことが多い)と言われている。
異郷訪問譚には、様々なバリエーションがあるが、大きく分けると下記の通りの構造
これを「ならやま凮土譚」に当てはめて考察をしてみた。
①欠如
生きる力 通信機器でしばられる生活
②主人公の出発
駅でバスに乗る
③援助者の出現
酒場で一見旅人に見える謎の見知らぬ3人の男女
④境界を越える
酒場の出来事(依り代を作る)=精神的な境界
阿賀川の橋 =物理的な境界
⑤宝物の授与者に試される主人公
歳の神の手伝いをする、和紙をたたく、雪の中を漕ぐ、通信機器を使わない 楢山での生活、依り代を燃やす
⑥主人公の新たな変身と宝物の授与
和紙
山の神さまにお供えした米
⑦主人公の帰還
バスで家の前に降りる
⑧欠如の解消
山での生活を通して生きる力の獲得
⑨即位
?
■日常の延長線上の非日常
村上春樹『海辺のカフカ』のように、今回の旅も、日常の延長線上としての非日常の旅であったと思う。
だからこそ、超自然的な演出はなかったし、「日常にあるものを使って非日常を作り出す」というようなことが行われていたように思う。
だから「現の世界」から、境界を越え、あはいの世界に行って、かつては日常であったその土地の風土を味わうという演出がなされていたのではないのだろうか。
■境界について
異郷訪問譚には「境界を越える」という大事な要素がある。
今回も、参加者(旅人)は境界を越えた。
境界とは、「ウチとソト」「日常と非日常」「この世とあの世」「この村と隣の村」「人間の領域と神の領域」のように、あらゆる物事にある「個」として存在するものや概念どうしの境目のことである。
その境界となる領域は「チマタ」と呼ばれて内外を分けるだけではなく、交通や交易の場としても機能する。チマタでは古くから市が開かれ、その市では男女の交歓の場としても存在した。あるいは相対立する他の共同体との戦争をする領域でもある。または処刑場であったり、葬送の場であるなど生と死を分かつ賽の河原でもあった。また、神に祈り、神を迎え、その為にときにいけにえを捧げる天界との通路としても認識されていたし、妖怪や異形の者たちが出没する地帯でもあった。
つまり、境界の中では、非日常的なことや霊的なこと、超自然的なことが起こるわけだ。
今回の境界だと思われる西会津の商店の「酒場」でも、時間が分からなくなったり、誰が知り合いで誰が知らない人かが分からなくなり、異世界に入るための非日常な儀式も経験した。
■神殺しのモチーフ
境界が壊れたらどうなるか?
人間の領域を秩序とするならば、外側である神の領域は混沌だ。境界が壊れることがあった場合、人間の領域も混沌となる。
今回の「ならやま凮土譚」は、この「境界があいまいになる」「境界が壊れる」ということがモチーフになっているのではないかと思う。
実際に、「神殺し」のモチーフも用いられている。
人間の領域が混沌の状態になると、神と人間が同じ場所にいるということになり、大変危険な状態である。
そのため、境界を再度設定し直し、人間と神の領域を分けるように境界を引く必要がある。それを風土記の形で残っているのが『常盤国風土記』の箭括麻多智の神殺しの説話である。『常盤国風土記』は713年に編纂され、721年に成立した常盤国(茨城県)の地誌である。
この物語の要点は・・・
・箭括麻多智(やはずのまたち)という人が「郡役所の西の谷の葦原(あしはら)」を開墾して田にしようとしたとき、夜刀の神(やとのかみ)が多数現れて、それを妨害した
・麻多智はこの神が開墾の妨害をするのに怒り「甲鎧で身を固め、自身で仗を手に取り、打殺し追い払」った
・麻多智は、夜刀の神に対して神殺しを行った
・麻多智が夜刀の神を打ち殺した後、境界の溝に杖を立てて、その境界を守るために祭祀者となることを宣言した
・夜刀の神は西の谷の芦原に住む神。麻多智はもともと神の住んでいた領域に田を作ったので、夜刀の神が怒った
ということだ。
問題点としては、麻多智が西の谷の芦原に田を作ったとき、今まであった神の領域と人の領域の境界は不明確になってしまった。そして人の領域に神が侵入してきたりすることが起こる状況だった。それは、人にとってとても危険な状態で、人は安心して暮らしていくことができない。
そこで、境界の再設定として「神殺し」が行われる。
その結果、麻多智による境界の設定によって、不明確になっていた神の領域と人の領域は再び明確になり、夜刀の神が人の領域に侵入することはなくなった。
つまり、麻多智の神殺しの話は、人が自らの生活を守るために、神との境界を定める物語であるのだ。
神の領域と人の領域はそれぞれ自然と文明だ。神と人が混じり合って住むのは混沌の状態、神と人が分かれて住むのは秩序の状態だ。
麻多智の神殺しは混沌を自然と文明に分けることによって(境界を設定することによって)、この世に秩序をもたらした行為である。
前近代においては、自然の方が文明よりも圧倒的に強い力を持っていた。混沌は人に危険をもたらす。そこで、神殺しによって秩序を取り戻そうとする。
前近代の神殺しは、自然の脅威から人の生活を守るために行われるものだった。
今回は、楢山集落が異郷で、私たち旅人は、混沌の中にいたということになる。そして、3日間試練をそれぞれ経験した。
私たちに課された試練は、
・電子機器を使わない
・夜に鐘が鳴ったら、名もなきものが蠢くので静かにして眠る
・歳の神の準備の手伝いをする
などなど、3日間で意識している・していないに関わらず多くあったと思う。
そして最大の試練は、歳の神で依り代を燃やすことだった。
3日間自分と共にいた依り代を燃やすことで、古い世界の自分との決別、そして、非日常の世界の象徴を消滅させる(神殺しのモチーフ)ということであった。
依り代を燃やしたことで、境界が再設定され、混沌が秩序となった。
見計らうように、これまで知り合いではないふりをしていた宿の人やスタッフたちも知り合いに戻ったし、電子機器を開封して良いこととなった。
その後に、土産品として、和紙が授与されたり、山の神さまに備えたお米やおこわをもらった。
これは異郷で試練を乗り越えたことでもらえた「宝物」に他ならない。
■5次元世界
3日間「5次元」という言葉を聞かない日はなかった。
あはいの世界・楢山集落に着いた直後からスタッフ(のような)人々は、「5次元世界へようこそ」という表現をしていた。
また、「次元」という言葉を幾度となく耳にしたし、手紙の類にも次元の話が出てきた。
そこで、「あはいの世界=5次元世界」とは何のことであったのか考察してみる。
5次元世界の提唱者であるハーバード大学教授の理論物理学者のリサ・ランドール氏によると、私たちは縦・横・高さの3次元世界に時間を加えた3+1次元の世界に住んでいる。
そして、私たちの3+1次元世界は、5次元世界に浮かぶ膜のような世界だとされている。それをブレーンと呼ぶ。また、3+1次元世界の外に広がる5次元世界はバルクと呼ばれる。
私たち3+1次元の世界の住人は、このブレーンの上に張り付いており、5次元世界=バルクに行くことはできないし、5次元世界=バルクを表現することもできない。
バルクには、私たちの世界のような3+1次元世界のブレーンがいくつも存在し、私たちは行き来することができない。ただし、重力は行き来することができるとされる。
これを交わらない並行世界・マルチバース仮説と呼ぶ。
他のブレーンには、私たちと同じような人間や時代、文化の人類が住んでいるかもしれないし、そうでないかもしれない。時代も人種も定かではない。
2次元的に描くと下記のように図式化できる。
ここで、仮説として、
・あはいの世界のスタッフのような人たち
= 5次元人(バルク人)
・あはいの世界
= 5次元上(バルク)に5次元人が作った四次元超立方体(テッサラクト)
である仮定する。
上記は映画「インタステラー」の5次元世界を参考にした。
「インターステラー」でも主人公が最後にバルクに5次元人が作ったテッサラクトに収容される。
もしかしたら、今回の演劇の作り手たちは、「インターステラー」に影響を受けているのかもしれない。
では、四次元超立方体(テッサラクト)とは何か?
4次元超立方体を3次元投影したものだ。
線(1次元)切ると断面は点(0次元)になる。同じように正方形(2次元)の断面は線(1次元)となる。
このように考えると、5次元の断面は、4次元の立方体となる。
しかしながら、3+1次元に住む私たちは、私たちよりも高次元のものを描くことはできないため、3次元に投影したものが4次元超立方体だ。
つまり、私たち「旅人」は、3次元世界を離れ、5次元に作られたテッサラクト(あはいの世界)に旅をするという演劇に参加したと言えるのではないか?
宿のスタッフ(のような)の人たちは5次元人(バルク人)で、彼らが私たち旅人をテッサラクト=あはいの世界に連れていき、そこで、試練や冒険を通じてこれからの新しい世界の生きる力を与えるという設定だ。
もちろん、3+1次元人が5次元世界には行けない。現実的には起こり得ないことだ。だからこそ「演劇」としてそれが表現されたのである。
四次元超立方体(テッサラクト)の中では、時間を超越する。
様々な時代に触れることができる。境界があいまいで、何が起こるか分からない。
だからこそ矢部家の先祖の矢部四郎次太氏の声も聞こえたし、時間と他者との境界があいまいになる宴会に参加できたし、どの時代から来たのか分からない旅人と話すことができた。
何よりも、時間が分かる電子機器が使用禁止だった演出もこのためであったのではないかと考えられる
4次元超立方体(テッサラクト)を3次元展開すると、このような形になる。
3次元は私たちが見ることができる世界だ。
この展開図の中に含まれる私たち旅人は、時間の概念がなくなり、物理的に移動をすることで、部屋(立方体)を移動することになり、各場所で様々な人や土地の記憶に触れることができた。
なぜ今、「集落」で上演されたのか?
今回の演劇は、西会津の山の中の辺境と呼ばれる「楢山集落」を舞台上演された。
なぜ今、「集落」で上演される意味があったのかを考えた。
全国的に、集落は今、消滅の危機にある。既に消滅している集落もある。
西会津においても10年後にはなくなるとされている平均年齢が80歳を超えている集落も存在している。
昨今の社会は、成長社会から成熟社会へと変わり、画一化から多様化へ、集中から分散へ、正解がある時代から、正解がない時代へと変化している。
過去の成長社会において、経済が成長する中で、資本主義の外にあり、経済の中でいらないようなもの、例えば、集落、土地の歴史、家の歴史、人情、近所、旅、自由、故郷、田舎、大家族・・・といったものを捨てがちになっていた。
しかし、成長の時代が終わり、社会が成熟していく中で、それまで信じられてきた神話(終身雇用、学歴主義、大企業は倒産しない)といったものが崩れており、人々が生きる依りどころとしていた基盤が揺らいでいる時代が今日だ。そして、最近、それまで排除されてきた「集落」「地域」「近所」「家族」といったものが見直されてきている。
3・11や新型コロナショックでその傾向が加速しているように思う。
都市化や生きることや、「不便」がない生活により、現代人は「生きる力」を失ってしまっている。他者や自然、土地への関心が希薄になっている。
そのような時代にあって、楢山集落は、地域、土地の歴史、家の歴史、人情、近所、故郷、田舎といったものを今代当主の矢部家が残しており、象徴する場所である。
一方で、NIPPONIA楢山集落という宿を創り、集落を新しい形で進化させようともしている。
古来からの歴史と新しい未来を矛盾なく組み合わせ「古くて新しい未来」を作り出そうとしている。
「生きる力」を育み、人間性の再生を象徴している場所であるとも言える。
集落という辺境から新たな文化を創り出そうとしているのだ。
そのような土地で、集落の土地の記憶に触れる演劇というのは「生きる力を取り戻す」「自分を生まれ変わらせる」という大変意義のあることなのではないかと感じる。
映像と写真
当日の写真や、プロモーション動画はこちらからご覧いただける。
参考文献
『境界の発生』赤坂 憲雄(講談社学術文庫)
『西会津町史第6巻(上)民俗』西会津町
『日本列島回復論』井上 岳一(新潮選書)
『森を守る文明 支配する文明』安田 喜憲(PHP新書)
『三体1〜3』劉 慈欣(早川書房)
『ワープする宇宙』リサ・ランドール(NHK出版)
『リサ・ランドール 異次元は存在する』リサ・ランドール(NHK出版)
『シン・ニホン』安宅 和人(NewsPicksパブリッシング)
『進化思考』太刀川 英輔(海士の風)
参考メディア
「インターステラー解説: ラストシーン解説『5次元』『彼ら』『重力は時間を超える』とは?
映画『インターステラー』
次回の上演
次回は初夏バージョンで、6月24日(金)〜26日(日)の日程で行われます。今回は「草木をまとって山のかみさま」の体験も組み込まれています。
私が参加した冬とはまた内容が異なり、異次元の体験ができます!
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