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後輩書記とセンパイ会計、 陰湿の軟体に挑む


キャラクター紹介(←noteにまとめた記事にリンクしています)

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 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば風林火山で名高い武田信玄に塩を届ける人にだってなれただろう。ふみちゃんは小学生時代、「万葉集」という和歌集にも詠まれているらしい、海藻を天日に干して煮詰める「藻塩焼き」という古代の製塩法で塩を作ったことがあるほどの上級者だったらしい。本の知識だけで何でもできるわけはないと思うが、塩の由来を調べる余り、太古の昔まで遡ってしまうふみちゃんは、普通の中学生とは別次元の感覚で考えるような女の子だった。
 そんなふみちゃんに会うために公民館へ自転車でやってきた一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの起源知らずで、数学が得意な理屈屋で、眼鏡店の初売りで一目惚れしてしまった弾力のあるラバーフレームの眼鏡に新調したところだった。
 一月十一日。ふみちゃんの話では「塩の日」だそうだ。かつて戦国時代に、武田信玄の領内で、信玄と争う今川氏と北条氏の経済封鎖によって領民が塩を手に入れられず困ったとき、信玄と長年敵対するライバルであった上杉謙信が越後の塩を送って領民を助けた、という出来事があったらしい。そして、それと何の因果関係もなく、公民館で僕とふみちゃんが塩を大量に使ってしまうアクシデントが起きた日だった。
 公民館の前に自転車を止めると、中の駐車場には全部テントが張られて、町内もちつき大会の会場になっていた。昼時に来た僕は、それなりにお腹を空かせていた。寒空の下、もち米を蒸したにおいが立ち込め、みんな忙しそうに作業している。ふみちゃんの姿を探す。確か調理の手伝いをすると言っていた。ふみちゃんはきちんとできるんだろうか。まあ、一人でやっているわけもないと思うけど。
 もちつき会場をうろうろしていると、先にふみちゃんが僕を見つけた。
「数井センパイッ!」
 白い息を吐き、小さな体と大きな声で飛び跳ねる。花柄の可愛らしいエプロン姿で元気いっぱいだった。朝から手伝うと聞いていたので、ちょっと疲れてるかと思ったが、普段会うときよりも活力に満ちている。お祭りの雰囲気だからかな。
 ふみちゃんの隣りにはエプロン姿の大人の女性がいて、目が合ってにっこりされた。あ、たぶんこの人は――
「あなたが数井くん?」
「はい」
 僕は短く答えた。ふみちゃんが紹介してくれる。
「お母さんです」
 やっぱりそうだった。僕はコートの襟をさっと直して、名前を言った。
「はじめまして、数井三角(みかど)です」
 僕は、人前ではあまり下の名前を口に出さない。何となく昔の天皇みたいで仰々しく、言う度にあれこれ聞き返されるからだ。僕はもっと普通の名前が良かった。けれども、ふみちゃんのお母さんにはきちんと挨拶したほうがいいと思ったのだ。
 すると、お母さんは特におおげさな反応もせず、ふんわり笑顔で頷くだけで、何となく安心した。どうもこれはふみちゃんから「みかど」という名前も聞かされている様子だった。
「こんにちは。じゃあ、あなたが生徒会の先輩さんなのね。いつもうちのふみをお世話してもらってありがと」
 横からふみちゃんが慌てて口を挟む。
「おっ、お母さん、違うって! お、お世話されてばかりじゃないよ!」
 すごい否定の仕方だな。いろいろお世話してると思うけれど……。ただ、お母さんに対しては、ですます言葉じゃないんだな。家族だからそうか。
 それはともかく、小柄な背丈といい、ほわんとした雰囲気といい、一瞬で親子とわかるほどよく似ている。もちろん髪型は違う。ふみちゃんは黒髪を両サイドで二つに分けて、白いリボンで結んでいる。一方、お母さんは長い黒髪を真ん中分けにして、巫女さんのように後ろで一つ結びにしている。面白いことにリボンの結い方は同じだった。
 そう言えば、ふみちゃんの家は神社だが、二人してこっちを手伝ってていいのだろうか。確か初詣の人がおみくじを引いたら八丁味噌ソフトを渡すとかやっていたような。
「あの……神社はいいんですか?」
「心配ないですよ。うちの専門はご祈祷(きとう)です」
 とふみちゃん。続いてお母さんが補足する。
「うちは参拝客が少ないからほっといていいんです。主なご利益は厄除けですし、人が一番来るのは節分なんです」
 親子そろって同じ答えだ。ほっといていいのか。ともかく厄除け神社なんだと初めて知った。だから強力な護符があるのか。いつもふみちゃんの説明は雑すぎて結びつかないことだらけだが、ちゃんと聞くと話がつながる。
 コートのポケットに手を入れて突っ立っていると、ふみちゃんが中から身を乗り出し、僕の袖を引いた。
「数井センパイ、美味しいうちに早くこれ食べてください。塩大福です。自信作なんです!」
 真っ白い大福がきれいに箱に並んでいた。
「もらっていいの?」
 と伸ばした手を僕は止めた。八丁味噌ソフトがよぎったのだ。
「ふみちゃん、これって中身は普通のあんこだよね?」
「塩味をちょっと濃くしてますけど、数井センパイ、もしかして苦手ですか?」
 ふみちゃんには、僕の質問の意味が通じなかったようだ。すると、お母さんが鋭く察知して首を横に振った。
「先輩くん、違うのよ。ほんとは八丁味噌のあんこにしたかったんだけど、町内会長さんから『どうか普通のあんこにしてくれ』って懇願されちゃったんです。先輩くん、あれが好きだったなら、今日はごめんなさいね」
「いえ……」
 僕は八丁味噌のあんが食べたかったわけではないし、そのズレは別に問題なかった。とりあえず、町内会長さんの判断は全面的に支持したい。きっと美味しいとは思うけど、しょっぱくて白いもちを割った中から八丁味噌のあんが出てくるのを想像すると――。
 気を取り直して一個つまむと、お母さんがふみちゃんの頭をぽんぽんと撫でた。
「ふみ、こっちはだいぶ終わったから、先輩くんと一緒に食べておいで」
「いいの?」
 ふみちゃんの顔がもっと明るくなる。僕もちょっと嬉しかった。
「それでね、こっち戻ってくるときお使いしてくれる? 公民館の台所からお塩の袋をもらって来てほしいの。あ、急がなくていいからね。急がなくていいからねっ」
「はいっ!」
 いい返事をして、ふみちゃんは花柄のエプロンをつけたままテントの外に出た。できたての塩大福をパックに四つ詰めて輪ゴムで止め、くるっと振り返った。
「数井センパイ、外出許可が出ました」
 おおげさな言い方だなと苦笑すると、お母さんも同じように笑っていた。当然だろうけど、ふみちゃんの性格を熟知している気がした。だから、塩が足りないなんてことは、もしかしたら――無いのかもしれないな。

 もちつき大会の中心では、おじさんたちが首にタオルを巻いて、威勢よくもちをついている。できあがったもちは、いくつかのテントに運ばれる。ふみちゃんのお母さんのところでは塩大福になり、他のテントではあんこやきなこのおはぎになったり、お雑煮や力うどんや大根おろしもちになったりする。せっかくお正月なのでお雑煮は後で寄って食べようと思ったけれど、まずはできたての塩大福だ。
 座って食べる場所用に大きなテントがあり、それに入ろうとしたが、ふみちゃんはなぜか恥ずかしがり僕のコートを引いて止めた。仕方ないので、会場の奥に植木を見つけ、ベンチみたいに座れたのでそこへ行った。手で砂を払うと、ふみちゃんがポシェットからウェットティッシュを出してくれた。指の間まで丁寧に拭いた。
「数井センパイ、約束通り来てくれましたね」
「ふみちゃんに誘われたら、僕は基本的に来ている気がするよ」
「そうですね」
 輪ゴムを外してパックを開ける。やわらかそうな塩大福がぎゅっと詰まっていた。
「今日は何時から手伝いをしてたの?」
「起きたのは五時です」
「五時?!」
 僕は休みの日にそんな早く起きたことはない。せいぜい遠足の日くらいだ。
「でも、お母さんは四時に起きてました」
「四時っ?!」
 もちつき大会ってそんなに早い時間から準備するのか。ただもち米を炊いてつくだけだと思っていた。僕は十一時過ぎに起きたから、何だか申し訳ないくらいだ。そんな準備の大変さを聞くと、塩大福がかなり貴重なものに思えてくる。
「数井センパイ、食べてください。それ、わたしが作ったやつなんです」
 それを選んで持ってくるふみちゃん。確かにお世話されてばっかりじゃないなと思いつつ、一個目にかぶりついた。ほんのり温かくもっちりした食感で、もちにもあんこにも塩味が効いていて、ほんと美味しい。という感想もちゃんと言わないうちに一個すぐ食べてしまった。
「もう一個いい?」
「お、美味しいですか? ちゃんと言ってください」
 少し不安げというか機嫌が悪くなった。あ、ごめん。
「すごく美味しいよ。ほんと美味しい。このおもちの皮はふみちゃんが作ったの?」
「お母さんです」
 あれ。
「――このあんこは?」
「お母さんです」
 えっと、じゃあ……ふみちゃんは何を作ったのだろう。
「包んだのは?」
「私ですっ」
 そんな感じかなと思って聞いたら、やっぱりそうだった。たぶんそれはふみちゃんもわかっていて、だからさっき人の多いテントに入るのは恥ずかしがったのかもしれない。でも、包むのも大事だし、早起きして準備を手伝ったんだから、これは間違いなくふみちゃんが作った塩大福だ。
 もう一個もすぐ食べてしまった。ついモグモグと無言で食べて終えてしまった。ふみちゃんは悲しい目をした。
「数井センパイ、あの……もう一個……食べます?」
「えっ。いや、その二個はふみちゃんのだろ?」
「でも――一緒に食べたかったんです」
 そうか……そういうことだったのか。しまった、二個目はちゃんと待つべきだった。
「じゃあ、一個は多いから、少しだけ分けてくれる?」
 そう話すと、ふみちゃんの機嫌が直り、鼻歌まじりに塩大福をちぎって、小さいほうを僕に渡してくれた。これはこれで楽しかった。大福二個以上も食べたので、お雑煮はしばらくお腹に入りそうにない。
 バッグから温かいペットボトルのお茶を出して飲むと、ふみちゃんも欲しがったので少しあげた。こういうとき心臓が高鳴って緊張したこともあったが、何だか最近は自然になってきた気がする。僕がふみちゃんのことをよく知るようになったせいかもしれない。そう思ったところに、
「数井センパイ、粉がついてます」
 ふみちゃんが不意にウェットティッシュで僕の口元をふき、ひやっとしたところを布のハンカチで水分をふいてくれた。取れました、とやわらかく笑った。
 僕は突然のことに顔を赤くして、ありがとうとつぶやき、何か別の話をしようと思った。
「お母さん、やさしい人だね」
「えへへ、数井センパイもそう思いますか? 実は、塩は十分あったんですよ」
「えっ」
 ふみちゃんは気づいていた。塩があるのにお使いを頼んだこと。まあ、手伝ってるんだからそうか。じゃあ、ふみちゃんは知っててお使いを素直に引き受けたんだ。
 いや……これって、お母さんもふみちゃんが気づくとわかってたのかな。もしかして僕が「お手伝いを抜けて大丈夫?」とか言いそうだったから、お母さんはわざとあんなふうに理由をつけて外出許可を出したのかな。
 僕は今ここで何を言ったらいいんだろう。すると、ふみちゃんは最後の塩大福をほおばりながら言った。
「お母さん、お祭りだと張りきりすぎて、たまに面白いこと言うんです」
 パックは空になった。考えすぎか。
「面白いことねぇ」
 お母さんはきっとやさしい人だ。人のやさしさは、必ずしもお互いが意思疎通していることではないのかもしれない。違ったことを感じていても、両方が思い合っていれば、それは気持ちがつながることなんだ。ふみちゃんとお母さんの話を聞くと、そう感じる。
「私は――お母さんみたいになりたいです」
「ああ。よく面白いこと言うしね」
「んっ?」
 と首を傾げるふみちゃん。
 そうか。……そうだな。ふみちゃんはいつか家の神社を継ぐことになるかもしれない。
 神社の奥さんって何をするか知らないけれど、神社の用事をいろいろするのかな。それとも、ふみちゃんは別の神社へお嫁に行ってしまうとか、他の神社から神主になる男の人が婿入りしてくる……なんてことはあるんだろうか。
 もっとも、神社の家業を継ぐ生き方については、両親が会社員で共働きである僕にはなかなか想像できないことだった。そして――嫁ぐとか、婿入りとか、そういうのを今ふみちゃんに聞くのも恐かった。
 すっかり黙り込んでしまった僕を心配して、ふみちゃんは切ない目をする。
「あ……数井センパイ、私のお母さんのこと知らないのに、ごめんなさい」
「いや、僕もちょっと考えごとしてた……ごめん」
「どんなことですか?」
 答えに困る。ごまかすつもりはないが、言葉を選んだ。
「いや、お母さんみたいになるふみちゃんって、どんな感じなのかな、って」
「お母さんみたいに素敵ですよ」
 即答だった。
 うん――確かにそうかもしれない。
 今から悩む僕がバカだ。未来はもっと先だ。そう考えよう。

 塩大福を食べ終わったので、パックをゴミ箱に捨て、公民館の中へ塩を取りに行った。僕たちはお使いを頼まれたわけで、一応それは果たすことにしたのだ。
 建物の中も町内の人たちが忙しそうに動いていた。どこが台所か知らなかったが、何となく廊下を進んでいくと、水の音がしてエプロンをつけた女の人たちが出入りしている場所を見つけた。邪魔にしないようにそっと覗くと、予想通り台所だった。
「あら、ふみちゃん」
「ん、どこの子?」
「出雲(いずも)さんとこの娘さんよ」
 顔見知りらしいおばさんたちがふみちゃんの姿に気づいた。僕は町内の人とあまり会ったことがないから誰も知らない。でも、ふみちゃんは家が神社だから何かと接点があるんだろう。
 ふみちゃんの出雲という苗字はいかにもふみちゃんらしい。『出雲大社』という日本中の八百万(やおよろず)の神様が集まる大きな神社があるそうだが、ふみちゃんのお父さんは遠縁の遠縁くらいで血縁はないと聞いたことがある。それはともかく、日本中の神様が集まる特別な場所――という響きは、ふみちゃんが古い日本文化に何かと詳しいことを象徴しているようで、生徒会室で聞いたときすごく納得したのを覚えている。
 その点、僕の名前の三角は……「さんかく」と読まれるのも困るけど、みかどは完全に名前負けだ。世界や銀河といった超絶な名前の人たちと比べても、平凡な僕はヒロシとかサトシくらいが良かった。まあ、小学校で「天皇」とかのあだ名が付かなかっただけでも運が良かったかな。
 ふみちゃんはおばさんたちに用件を話した。
「あの、塩大福用にお塩の袋が欲しいんです」
 あらそうなの、はいはいはいっとバケツリレーみたいに中継されて、塩の袋はすぐにもらえた。大きい袋ではなく、ふみちゃんの小さい手でも持てるサイズだ。
「数井センパイ、行きましょっ」
 僕たちはお辞儀をして玄関のほうへ引き返した。ふわふわ揺れるふみちゃんの髪を眺めながら、テントに戻った後、せっかくの機会だし僕もふみちゃんを手伝おうかな、お雑煮までの腹ごなしも必要だし……などと考えた。
 その途中である。ふみちゃんが急に立ち止まった。
「どうした? 何か忘れた?」
「数井センパイ、この部屋、ちょっと入っていいですか?」
 何だろう。僕がいいと言う前に、ふみちゃんはさっさとふすまを開けていた。畳が敷かれた広い和室だ。公民館は人が多くて慌ただしいのに、この和室だけは人の姿も荷物もなかった。ガラン……と寒くてさびしい部屋。
 静かにふみちゃんは部屋の奥の一点を見つめている。和室には暖房が入ってなくて、冷たい風が廊下へ流れてきた。窓は締まっているがカーテンは全部開いていて、外の景色が見える。人が増えて外も賑わっていた。とりあえず――この部屋には何もない。それだけのはずだった。
 それだけではなかった。
「数井センパイ……仏様になれなかった白くて湿っぽいぶよぶよしたのが、隅っこで寝てますね」
 ふみちゃんはそう言った。
「えっ?」
 白くてぶよぶよしたものなど、どこにもいない。
「ぶよぶよで気持ち悪いんですが、体が黒くて目玉が飛び出ているほうとは違います」
 なっ、何の話なんだ。黒くて目玉が飛び出す――というのは一瞬金魚みたいなものかと思った。だけど、和室には水槽もないし、何の生き物もいない。床の間はあるけど、置物はない。隅から隅まで単なる畳の間だった。
「仏様になれなかった……ってのは?」
「白いほうは、脅かしじゃなく、ひがみです」
 僕にとってこういうことは初めての事態ではなかった。これまで何度か味わった、つまりさっきお母さんに『お世話してもらってる』と言われたのはたぶんこういう出来事の積み重ねの意味だろう。僕は冷静に息を整え、ふみちゃんのそばに貼りついた。ふみちゃんが部屋の奥まで勝手に進んで行かないように。護るとか、護られるとかではなく、ふみちゃんが僕から離れて行かないように。それから考える。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「部屋の隅に……何かいるのか?」
「おもちみたいな頭です」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。おもちみたいな頭の白い湿ったぶよぶよの仏様のなりそこないがふて腐れて寝そべっていると。『わしは宴を支度されてないし、たいして世間にも知られてないし、どうにも扱いが悪い』とこぼしているらしい。そこで何をしているかふみちゃんに聞けば、何もしていないようで、何のためにいるかと聞けば、暇なんだと思います、と拍子抜けする答えだった。
「仏様が……暇?」
「数井センパイ、違います。仏様のなりそこないですから、拝んでもご利益はありません」
「その……なりそこないってのは?」
「化けそこないです。仏様になろうと呪文を唱えて、あえなく失敗したんです」
 ふみちゃんの説明はそこで終わりだった。仏様って呪文を唱えればなれるものなんだろうか。もっと厳しい修行を積んだり、諸国を旅したりして、最後は人々や動物たちに囲まれて光輝くイメージがあって、仏様はそうやすやすと呪文でなれるものには思えない。つまり、そいつは考えが甘かったんだ、ということか。もしくは、昔のドラクエであったらしい『復活の呪文を間違えて死んだ』みたいなことか。……違うか。僕の頭も空回りしていた。
「……で、どうするの?」
「はい、一応迷惑なので、塩で追っ払います」
 おっぱらう。そう言うなり、ふみちゃんは持っていた塩の袋の口を破って、手のひらに塩を出し、まるで土俵入りの相撲取りみたいに力一杯まいた。こんなに積極的に攻めるふみちゃんは初めてだ。ぶよぶよはそんなに危険なものなのか。と僕が聞く暇もなく、ふみちゃんは何度も何度も徹底的に塩をまく。
 部屋の隅まで届くほど、いや、もしかするとその迷惑なやつが逃げまどい、ふみちゃんはそれを追撃しているとか、そんなとんでもない状況が起きているのかもしれないが、とにかく畳一面に塩粒が散りまかれ、どんどんすごい状態になってきた。
 どこで止めていいのかわからない。もしも塩が尽きたら、僕たちはまた台所へ取りに行くべきんだろうか。ここは家じゃない、公民館だ。外にはお母さんもいる。さすがに狂気じみてきたので、僕はふみちゃんの肩を揺すった。


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「ふ、ふみちゃん、まきすぎじゃないかっ?」
「あっ、すいません、つい……。右へ左へ走って逃げるので、追っ払うのに夢中で」
 やっぱり追撃してたのか。きっとゲーセンのアクションゲームみたいな感覚で塩をぶつけてたんだな。……で、どうなったんだ、その仏様のなりそこないは。僕が尋ねると、ふみちゃんは振り向き、やりきった満足げな顔を見せた。
「――消えました」
「消えたの? 消えたんならいいんじゃないか?」
 ふみちゃんは頷く。
「そうですね。塩だらけの部屋になって、『うっひゃあ、のんびり寝る場所もない!』と切羽詰まって外へ逃げようとしたので、何とか食い止めました。同類の黒いほうは死を暗示するものなので、やっぱり白いほうも外へ出しちゃいけないと思って」
 食い止めたという言葉通り、窓が開く気配はなかった。もちろん人が手で開けなきゃ開かないんだけれど。
「外に出ず……消えたの?」
「どうやって逃げたかは、私も夢中だったのでよくわかりません。何か『びろびろびろーん』という変な呪文を唱えて、床に吸い込まれていきました」
 まあ……一応、自分に折り合いをつけ、納得することにした。僕は、ふみちゃんが勝手に公民館の和室に入り、塩を全部まき散らしたことしか認識していない。事実だけから解釈すれば、ふみちゃんはただのいたずらっ子だ。そして、白くて湿ったやつというのが何だったのか、どこへ消えたのか、そもそもいたのか、ふみちゃんの言葉以外から何も感じることはできない。現実に残されたのは、畳の上にある大量の塩だ。
 これをどうするか、それが重大な問題だった。
「ふみちゃん、とにかく、もちみたいに白いやつは――消えたんだね?」
「きれいさっぱり消えました」
「もう出ないね?」
「はい、出ません!」
 塩をまき切ってすっきりした満面の笑顔。もう、今から僕がする『後始末』の役目の報酬なんてこれだけで十分だ。前払いだ!
「わかった。じゃあ、塩だけは何とかしよう。急いで家から助っ人を持ってくるから、ここで待ってて」
 わが家にいる働き者、自走式掃除機の出番だ。白いものの追っ払いに使った貴重な塩を掃除してもらう。ふみちゃんは感激した顔を見せたが、とにかく和室に人を入れないように命じて、僕は大急ぎで自転車で家へ戻った。
 幸い親の目もなく、物入れで寝ていたルンバをリュックに詰め込み、全力で自転車を飛ばした。往復で二十分くらい。ちょうどいい腹ごなしだ。
 その間、ふみちゃんは和室の前の廊下でぼうっと座って待っていたようだ。通りかかる町内の人にどう話したか知らないけれど、リュックを背負った僕が到着すると、誰も入れなかったと明るく報告してきた。
 二人で和室にまた入り、ふすまを閉め、ルンバのスイッチを入れた。モーターの大きな回転音と吸引音が鳴りはじめ、塩粒の海は少しずつ少しずつ消えはじめた。
 ルンバの仕事中、放っておけないので畳に座ると、ふみちゃんも隣りに座った。お母さんのところに戻らなくていいのだろうか。休憩しすぎに思えて心配になった。
「なあ、お使いはいいの? ここは僕一人で十分だから、先に行っていいよ」
 気を回したつもりだが、ふみちゃんはくすっと笑った。
「それ、先に死んじゃう人の台詞ですよ」
「いや……縁起が悪いやつは塩で消えたんだろ?」
「私がまいちゃった塩なので、センパイのそばにいます」
 まあそれならと頷くと、そばにいます、と寄り添いながらもう一回言った。お母さんに対しては、僕が家に行ってる間に適当にメールして休憩を延ばしてもらったらしい。うんそれならと僕が伸びをして返すと、私がまいちゃったので、とまた楽しそうに微笑んで言った。

 しばらく経ち、塩粒がすっかり消えたところで、ルンバをしまい、僕たちはまた台所に寄って塩の袋をもらった。町内のおばさんに「えっ、もうなくなった? 今日はずいぶん塩大福が出るねぇ。可愛いふみちゃんがお手伝いしてるからかな?」と笑っていたが、本当の真相は当然話さなかった。ふみちゃんは満足げに塩の袋をしっかり握り締め、はずんだ足取りでお母さんのいるテントへ戻った。
 お母さんは、ふみちゃんをにこにこと見つめながら塩を受け取ると、続いて僕と目を合わせてお辞儀した。
「ふみのお世話をいつもありがと、先輩くん。荷物はここに置いていいよ」
 僕の増えた荷物にすぐに気づいた、やさしい人だった。リュックを背から下ろしながら僕は申し出る。
「あの、すいません、ふみちゃんをさぼらせちゃった分、僕も手伝います」
「数井センパイ、違います。私、さぼってません!」
 と慌てて訂正した後、気合い十分でおもちにあんこを包みはじめるふみちゃんと並んで、僕は塩大福を配る係りを任されたが、ふみちゃんとは別に進展はない。息の白さが濃くなり、寒空が薄暗くなるまで声を出し続け、お祭りっぽい行事で張りきる楽しさを味わいながら、ふみちゃんがお母さんと仲良く一緒に帰っていくのを晴れ晴れしく見送るだけだ。

(了)


各話解説

 第一巻から第四巻に続き、今回も和やかに楽屋話を交えながら作品解説をしたいと思います。日頃お世話になっている関係各位へのお礼を兼ねて、つらつらと気ままに記したいと思います。どうぞお付き合いください。
 第五巻は、後輩書記シリーズの総決算として、ゆるふわの枠にとらわれず、登場人物の内面にもっと深く踏み込んだ作品を書きました。巻を重ねるごとに登場人物に私自身が入れこんで、情愛を傾ける物語になったからだと思います。また、今回はシリーズ初のオール書き下ろしでもあるため、巻頭に『登場人物紹介』を置いて、読者の皆さんに「また会えましたね」とご挨拶させていただきました。
 第一作目「陰湿の軟体」は、最近、妖怪創作の間で熱いブームになっている『びろーん』を題材にしました。モノノケ市や深川お化け縁日、妖怪オンリーなどのさまざまな場で、びろーんの漫画やグッズを出されている漫画家・しげおか秀満さんと知り合い、いつかふみちゃんとびろーんを対決させたい! と構想してついに叶った作品です。
 びろーんとは、佐藤有文氏著作の妖怪図鑑に掲載されていた妖怪で、仏になりそこなってぶよぶよになった妖怪で、塩をかけると溶けて消える、という解説がされています。また、びろーんは仏の妖怪である『塗仏(ぬりぼとけ)』の別名、あるいは退化したもの、とも書かれています。
 さて、この相対する「塗仏」は、京極夏彦氏が京極堂で知られる百鬼夜行シリーズ『塗仏の宴』を二部作で出したことで、全国的に知名度が上がりました。元は鳥山石燕の『図画百鬼夜行』や佐藤嵩之の『百怪図巻』など江戸時代の妖怪絵巻に登場する、体の黒い仏の妖怪です。
 その風体は、目玉が飛び出ていて、仏壇から突如現れ人を脅かすそうで、つまり仏の妖怪は大体ぶよぶよしてるようですが、例えば奈良の大仏が動いたらぶよぶよしてそうな感じの連想だったのかな、と勝手に空想しています。
 ふみちゃんの家族の登場は、第一巻の「旧機の幻影」以来ですが、あれはお父さんだったので、今回はお母さんにしました。ふみちゃんはお母さんの前だと、ほんとただの女子中学生になる、みたいな感じを書きました。
 また、第五巻の冒頭作ですが、葛城アトリさんに和室に佇むびろーんの挿絵をいただいたとき、「ふみちゃんがいないですけど、いいですか?」と確認され、「びろーんがすべてです!」と言い切りました(笑)。きっとびろーん愛好家の方にもご満足いただける作品だと思います。

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