栗の武装、人間の欲
つい先日、商店街のナイスガイから栗をひと盛り買いました。
小さな果物屋の店頭に、300円と書かれた手書きの値札と赤茶色に光る大粒の栗が、青いプラスチックのざるに気前良く盛られていて、おやっ安そうだぞと思って近寄ったところ、店主と思われる男性が「この栗ね!旬!ほんま今が旬!お買い得!栗ごはんにピッタリ!!」と通販番組ばりの勢いでおっしゃるもんだから、あらそうじゃあ買おうかしらと思わず即決してしまいました。
栗が旬?小栗旬?つってね、言ってないですけどね。
じゃあ今日は栗ごはんと味噌汁、実家からもらったガボチャでサラダを作り、そして大好物の柿がそろそろお店に並び始めたのでデザートは柿にしよう、と考えながら商店街を闊歩しました。
「それなぁ、ちくわ入れたらええねんで!」
「うちは今日子供がたこ焼きがええゆーてなー」
「ほんであんた、このキュウリはどうなん」
すれ違う人々の会話から伝わってくる、圧倒的な日常。
その日常の尊さと儚さは、まるでハナレグミが歌う『家族の風景』を聞いている時のような、夕焼けを眺めながら歩いている時のような、胸がキュッとしめつけられる感傷を呼び起こします。
それはこれまでも多くの人々が物語の一幕として語ってきた情景ではありますが、「ほんであんた、このキュウリはどうなん」と、一緒にいる友達らしき人に聞いていた女性の手に握られていたのは、どこからどう見たってズッキーニだったというのは珍事。
これは珍しいよ、日常の風景じゃあない。
小栗旬ならなお良かったけどまぁ旬の大栗でもそこそこ良い。
私は家に栗を持ち帰り、思い起こせば自分で買って調理をした事などこれまで一度もなかったな、と考えながらネットで栗ごはんのレシピを検索しました。
幼い頃は田舎ゆえに、秋になると近所のあちこちからお裾分けとして届けられる大量の栗を、祖母や母親が料理してくれたっけ。
「栗は大変やわ」と苦笑いしながら渋皮をむく祖母の姿が、ぼんやりと思い出されます。
私は栗を2時間ほど冷水につけたあと、その大変な皮を剥く作業に挑みました。
ザク。
栗の鬼皮に思い切って包丁を入れ、底の部分から尖った上部に向かって皮を剥がしていきます。
1つ目を剥いた時点で既に、これはなかなか大変な作業になりそうだと予感し、2つ目の栗にザクっと包丁を入れた瞬間、様子がおかしいことに気がつきました。
栗、お留守。
鬼皮はとても立派に見えたのに、中身がほぼ空だという衝撃。目利きができる方なら、購入時点で見分けがついたのかもしれませんが、私には全くわかりませんでした。
あのナイスガイめ!!と鬼の形相で鬼皮と格闘する事30分、おおよそ半数がお留守でした。何だかもう疲れも相まって、このまま炊飯器に放り込んだろかという気持ちでいっぱいですが、そうはいきません。
ここから渋皮との戦いが待っています。
私はしぶしぶ、渋皮を剥き始めました。
駄洒落は少ししつこいぐらいが丁度いいかと思っています。
食べられる部分が思っていた以上に少なくなってしまった栗。これ以上減らさないよう、極力ギリギリのラインを狙って、包丁で渋皮を削ぎ取りました。
そして米をとぎ、水、栗、塩を入れて炊く。
数年ぶりに食べた栗ごはんは、ほんのりとした塩味と、栗と米の甘味が丁度いいバランス。幼い頃の体験によって身体に染みついている、とても懐かしい味がしました。
なお、栗とは、あのイガの部分が皮で、分厚い鬼皮が果肉、渋皮と果肉っぽい部分が種だという事実をここにお伝えしておきます。ご存知でしたか。
それにしても栗を食べるという行為は、何という労力を必要とするものでしょうか。
木から落ちたあの危険なイガから怪我をしないように中身を取り出し、鬼皮を、指を切るかもしれないというリスクを背負いながら剥ぎとり、ややこしい渋皮を剥いたり煮たりして、様々な調理過程を経てようやく口に運ぶことができる。
食べられてなるものかと完全武装した栗を、粉骨砕身の覚悟で攻めていくその欲心たるや、と考えながら、ふと、その日すれ違った人々から聞こえてきた、ちくわや、たこ焼きや、キュウリの会話を思い出しました。
どんな生きづらい日常でも、みんなも私も、今日、今今、食べることに夢中。
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