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rem・レム

人の眠りにはレム睡眠とノンレム睡眠がある。レム睡眠、アルファベットではREMと書くこれは、Rapid Eye Movement(急速眼球運動)の略である。人はこのレム睡眠のときに夢を見るのだという。
枕の下に好きな絵や写真を入れて眠るとその夢を見れる、なんて話がある。真偽の程は確かではないが、夢は睡眠に入る直前の思考に影響を受けるとも聞く。あながち迷信でもないのかもしれない。

不思議なことに友人たちが僕に話す夢のパターンは大抵2つだ。突拍子もないSF作品のような無茶苦茶な出来事の夢、そして可愛かったり美人の女の子に出逢った夢だ。前者の話は本当に無茶苦茶であらゆる映画のシーンをコラージュしたような訳の分からないもので面白いのだが、後者の話も中々興味深い。少し残念そうに「あとちょっとで顔が見えた!」「あとちょっとで手を繋いでた。」「あとちょっとでキスをしていたのに。」と友人たちは僕に語る。そう、「あとちょっと」なのである。大概が焦らされて生殺しにされているようなものばかりである。まぁ偶然なのだが、もしもその子とずっと一緒にいる事を望んで願って、夢の中に消えていってしまったらそれは幸せなのかなぁ…なんて変な事を考えてしまった。

「rem」という詩を書いた。
由来は先述のレム睡眠からとったものだ。

眠るときはいつだって静かに、気づかないうちに眠っている。楽しいことや絵空事を語り合う時間もまた、なんだかまるで夢の中のような錯覚に陥る。その時間が幸せなのだ。
この詩は夢で出会う女の子に恋をした男の話だ。
夢の中の時間を現実より幸せだと感じた彼は、夢と現実を逆のものとして捉え始めていた。彼にとっての現実は、彼女と会っている時間だけだったから。だからおはようとおやすみは彼にとって反対の意味を持っていたのだ。
そんな詩である。

中国の思想家である荘子の説話に「胡蝶の夢」というものがある。この詩はこの話からもヒントを得た。「夢が現実なのか、現実が夢なのか、そんなこと考えてないでどっちでも楽しもうぜ。」みたいな話だった気がする。そんな気さくな言い回しではきっとないが。
荘子は自らが蝶に変わってしまった夢の中と、現実の荘子という人間の姿とを話していたのだろうが、同じ人間として夢に居た場合、僕たちはどちらかを捨てるのだろうか。

「rem」の絵は、女の子が抱えるテレビの映像(夢や幻想)に男が映っている。この子も男のことを想って夢の中で過ごしていたのだろうか。夢か現か、どちらの世界でも自分のことを想ってくれる人がいるなら、それだけで何か幸せなものがあるのだと僕は思いたい。

という話を「俺の彼女一個下なんだよ〜。次元が。」と言っていた僕の友人に話すかどうか、一眠りしてから考えよう。

rem


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