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逡巡と変化_博論日記(2023/09/24)

2024年2月1日予定の口頭試問まで、あと127日。

快晴。バイトを終えて外に出たら、真っ青な空が広がっていた。大学まで歩いて約1時間。昨日はくもりだったので快適に歩けた。今日はどうだろうか。一瞬迷ったが、それほど暑さを感じなかったので歩き始めた。2日連続のお散歩。心が浮き立つ。

今日のトップ画は、散歩中に通りがかった消防団の掲示板だ。ディスプレイのかわいらしさにつられ、思わずシャッターを切った。救急隊員・消防隊員のゴム製アヒル2羽が緊急車両をしたがえてキリリと日焼けしており、大変好もしい。

今週は鬱で寝込むことはなかったものの、とてもよく眠った。バイトのある日に関しては大学にも行けたし、行ったら行ったでよく活動した。一方、バイトのない日は大学に行けず、一日の大半を寝て過ごした。ただ、シンプルに睡眠時間を確保するような眠り方だったので、嫌な感じはしていない。言葉がまとまらず、まだ書くことができないが、今週も自分の生き方や研究姿勢に対して考える(悩むではなく)ことが多かったので、睡眠時間を増やすことによって無意識下で整理しようとしていたのかもしれない。

理想を言えばバイトのない日こそ作業を進めたいが、悪い状況ではないという実感があるので、よしとする。6日後には書籍原稿の〆切があり、調子を崩せない。でも、おおかたできているので、きっと大丈夫。バランスに気をつけつつ、やってみよう。

先週に引き続き、現代思想9月号『特集 生活史/エスノグラフィー 多様な〈生〉を記録することの思想』を読んでいる。17本の論考のうち、7本を読み終えたところだ。今日はその内の1本、中村沙絵「フェミニスト・エスノグラフィと「聞き書き」の実践」に関する感想をまとめたい。
文章ばかりになるのは寂しいので、先週と同様、お散歩写真を間に挟んでみる。

町名を記した金属板。藤井大丸の歴史を感じさせる
https://www.fujiidaimaru.co.jp/150th-anniversary/

まず、中村氏の論考からはフェミニスト・エスノグラフィの歴史やそれに伴う用語を学んだ。咀嚼がまだ不十分なので、メモをまとめながら頭の中を整理していきたい。

■民族誌を書くという行為には権力性が潜む
<私の物語>  語り手の語り
⇩<他者>が聞く
<他者>が記録  <他者>が代弁

<私>と<他者>の間にもし部分的に共有できる経験があったとしても、差異や非対称性が幾重にも立ちはだかる。その非対称性がないかのように振る舞うことは不誠実なことである

それを克服するための応答
・応答1:エスノグラフィの「書き方」の実験的探究

・応答2:調査する<私>のポジショナリティや知が産出される具体的な場への省察的態度を研ぎ澄ませることで深化させ、議論の俎上にのせ続ける

!自己を開いて理解を深めていくことが重要
 連帯を可能にするような、複数の視点から世界を見ることを可能にする「客観性」に至るための重要なステップ

中村沙絵「フェミニスト・エスノグラフィと「聞き書き」の実践」pp.155-157 より筆者まとめ

・自分がよく用いている「恵まれている」という語には、「権力性」という語で表現できる部分が含まれていることを自覚した。つまり私は、権力性を明確に自覚していなかったということだ。語り手と聞き手である自分との間にある非対称性に気づいていない場面が、これまでいくつもあったのかもしれない。それは中村氏が指摘しているように、不誠実なことに思える。

・「ポジショナリティ」という語も新たに学んだ。これまで「よそ者としての調査者(私)」という表現で、語り手との距離感(差異、非対称性?)について思いを巡らせてきたが、ポジショナリティという語を知ったことによって、もっと具体的に思考できそうだ。「省察的態度を研ぎ澄ませること」、諦めたままでいたくない。

・「表象=代弁するために、本来は絶えず変わっている存在をピン止めしてしまう危険性には自覚的でいる必要がある」(p.157)と中村氏は書いている。私の研究では日誌データを解析しているのだが、これもひとつの調査協力者の人びとの暮らしを記述しようという試みではある。しかし、その研究にどこか怖さも感じていた。その怖さは、「本来は絶えず変わっている存在をピン止めしてしまう危険性」に対してだったのかもしれない。しかし、日誌の解析だからこそわかることもある。自分の明らかにしたいことに対して、どのような手法でアプローチするのが適切なのか。自覚的でありたい。

ワイン専門店

・中村氏は、ノンフィクション作家として著名な森崎和江が「聞き書き」を続けた様が、「自分の特権的な位置を再検討するかのように、あるいは原罪を向き合いながら生き直すかのよう」(p.158)であったと述べた後、次のように書いている。

もし聞き書きの実践が、世界において「生き直す」、あるいは別様になるため物語りを共同生成することでもあるとするならば、聞き書きにおいてやり取りされる内容は、<私>のアイデンティティ、経験、感情……に限定されてはもったいないだろう。<私>の経験に焦点を絞ることの問題は、生をめぐるさまざまな問いのなかで<私>という強い主体の意識が光を照らす領域に問題を限定してしまう点にある(cf Grosz 2010)。

中村沙絵「フェミニスト・エスノグラフィと「聞き書き」の実践」p.158

別様の人類学に参与する人類学者たちは、(中略)特権的な位置でうまれ育ってきた自分が、いかにフィールドで出会った特定の個人たちと一緒に聞いたり、見たりすることができるのか、あるいはできていないのかを問い続けているように見える。そこには、ただナイーブな憧れや希望に突き動かされた聞き書きの実践があるのではない、見方(見え方)、聞き方(聞こえ方)をめぐる試行錯誤は、これまで人類学に内在してきた植民地的暴力を永続させないために、ありうるものをともに構築するために、誰とともに、何を、どのように見聞きし、書き残すのかを考えることを意味する。

中村沙絵「フェミニスト・エスノグラフィと「聞き書き」の実践」p.160 太字は筆者による

先週のnoteで書いた気づきを思い起こした。聞き書きの実践(生活史の記述にしても、民族誌にしても)が、自分の枠の中で苦心惨憺するにとどまるのではもったいない、と中村氏も考えているように読み取れた。私はまだ、ナイーブな憧れや希望に突き動かされて聞き書き(生活史や民族誌の記述含む)を実践しているのではないか。

10月8日は吉田今宮神社 神幸祭

・「読むこと、翻訳へとひらく」というリードのつけられた最後の節で、中村氏は「何かを感じとるからだを開発しないといけない。正しく読むというよりも(だけでなく)、自分をひらくようにして読めるように」と述べている。それは傷つきやすいところに身を置くようで不安を覚えるが、エネルギー体の中に身を投じることと捉えるといいのかもしれない。傷を受けても、それはエネルギーの中で変化して、別様になるだろう。

また、知識を身に付けることの重要性も感じた。中村氏の論考を読んで言語化が進み、軸が少し定まったところがある。フィールドと座学とを往還しながら、自分の権力性やポジショナリティを自覚し(軸足がどこにあるのかを認識し)、人と人とが出会うことによって生まれるエネルギーの中で、語り手の人びとと変化することを恐れずにいたい。

ヒガンバナ

<To Do>
・分担書籍原稿:第3稿執筆中、今週はじめに提出(30日締め切り)
・システマティック・レビュー:二次チェック作業用開始
・博論本文:執筆(現状:43,175字)
・研究会発表原稿作成:アウトラインに情報を載せていく(本番10月14日)。

・投稿論文:待機

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