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「嘘つきたちの幸福」第3幕(前編)

初めから読む→「嘘つきたちの幸福」第1幕|青野晶 (note.com)
前回の話→「嘘つきたちの幸福」第2幕|青野晶 (note.com)

■第3幕 第1場
スファン宮殿に戻ったファイザは日に一度の夕食を両頬に詰め込んでいた。向かいに座るのはムアである。二人は床に敷かれた絨毯の上に座っていた。シルクで手織りされた絨毯は赤を基調とした繊細な幾何学模様の柄である。絨毯の上には大きな木の板が置かれ、板からはみ出るほどの数の皿が並べられていた。四角いものから丸いものまであったが、どれも白い陶磁器製だ。
「やっぱりアビー王子は見つからなかったわ」
 ファイザはダイス状にカットされたキュウリ・トマト・ハーブのサラダをスプーンですくい、炭火で焼かれた羊肉にかぶりついた。
「婚礼はやはりアビー王子を殺したあとでないとだめか?」
「当たり前よ」
 ファイザは再び砂漠を越えてバース王国のスファン王宮に帰ったのだ。砂漠には小さなオアシスが点在しているから、休憩を取りながら旅できる。とはいっても、体力は消耗するものだ。ムアは久しぶりに返ってきたファイザのために、スファン王宮のシェフにあらゆるバース料理を作るよう命じていた。
例えば、ほうれん草とプルーンと仔羊を煮込んだシチュー。ハーブや豆を煮込んだ麺入りのスープ。湖でとれた白身魚の丸焼き。ソラマメの炊き込みご飯(細長いぱらぱらした米)。飲み物はバラ水、それから紅茶。サフラン入りの砂糖のバットをつけるのも忘れない。デザートにはブドウ・メロン・スイカ・アンズ。細麺状にした半冷凍の甘いコーンスターチまである。
「ファイザ、すぐにでも自由民になりたくないのか?」
「なりたいわ。けど、アビー王子に殺されるかもしれない。それだけが」
「アビー王子が攻めてきた時には俺が殺すから大丈夫だ」
「ベリアの兵を率いてくるのよ? きっと。それが何万もの兵だったらどうするの? ムア、確かにあなたは強いわ。でも一人で何万もの兵を倒すことはできないじゃない?」
「軍隊ならこちらにもある」
「その規模をアビー王子だって知っているはずでしょ。だってアビー王子はもともとバース王国の王子だったんだから。自分の国の戦力を知らない王子がいるとは思えないわ。当然、こちらの戦力を上回るように軍隊を組織してくるはず。そうなる前にアビー王子を殺さなくちゃ」
 ふむ、なかなか賢い、とムアはあごひげを撫でた。
「それもそうだ。しかしファイザ、今夜くらいは……」
「こうしちゃいられない。アビー王子を探しに行くわ」
 ファイザはバラ水を飲んでテーブルに置いた。ムアは目を細める。
「では私も行こう」
「ムア様」
呼び止めたのはムアの背後に控えていた従者だった。膝丈まであるネイビーのジャケットは腰前までしかボタンがない。ボタンとその周りに施されたチューリップの刺繍は金色に煌めいていた。
ファイザは従者の訴えを代弁する。
「ムア、あなたが今玉座を離れたらみんなが困るわ。今この時にも、アビー王子が軍勢を率いてスファン王宮に向かっているところかもしれないんだから」
それはムアにとっても同意見だった。ファイザと行動をともにできないのは、アビー王子が砂漠を超えてベリア王国に入り、ベリア王家に交渉して兵力をわけてもらった後、このスファン王宮を襲撃する可能性が高いからだ。ムアはバース王家から奪い取ったこの王宮を守り、ファイザはアビー王子を探して殺す。二人がベストだと考えた役割分担はこれだった。ファイザの提案に、当初ムアは「従者を何人か護衛につけよう」と言った。ところがファイザがそれを断ったために、ファイザは未だに一人で行動している。理由は二つあった。ひとつは、女ひとりであればアビー王子もその仲間も油断するだろうということ。ひっそり近付けるし、警戒もされにくい。もうひとつは、ムアという婚約者がありながら、他の男たちと何日も夜を共に過ごすわけにはいかないというものだった。ファイザの言い分にムアも納得した。そういうわけで、ファイザだけはムアの従者たちとは別行動でアビー王子を探している。
「一刻も早く私たちが婚礼をあげられるように、アビー王子を殺すわ」
「しょうがない。たのむぞ」
 ファイザが部屋を出ていくと、ムアは先ほどムアを呼び止めた従者に手招きした。ムアは人差し指を立てて髭に埋もれた唇に当てる。静かに。潜めた声は冷たく、よく通った。
「私の代わりにファイザについていけ」
「えっ? ああ、いえ、しかし……」
「ファイザに気付かれないようにな。最近どうも様子がおかしい。あんな高貴な喋り方をする女ではなかったはずだ」
 従者は静かに一礼すると、音もたてずに部屋を出ていった。

■第3幕 第2場
 カルロ王子は矢筒を背負い、弓矢を握ってアビー王子の部屋の扉をノックした。
 カルロ王子がベリア王国の首都コルーを出て、バース王国との国境に位置するシャワル城に来てから、どれくらいの日が過ぎただろう。カルロ王子はいい加減、城に籠ることに飽き飽きしていた。
そうだ。どうしてこれをもっと早くに思いつかなかったんだろう!
 カルロ王子のノックの音は回数が重なるごとに弾んでいく。カルロ王子はアビー王子を狩猟に誘うことにしたのだった。
 カルロ王子の特技は狩猟だ。これはベリア宮廷では珍しくない趣味で、カルロ王子は定期的に狩猟祭を開いていた。このことはコルーから呼びつけた軍隊の兵隊長だって知っている。狩猟祭で猛獣を深追いしないよう、カルロ王子の監視役を務めるのが兵隊長の仕事のひとつだった。
カルロ王子がアビー王子を狩猟に誘うことは、すでに兵隊長が了承済だ。つい数分前、カルロ王子は兵隊長に護衛の約束を取り付けた。
「アビー王子とささやかな狩猟祭を開くことにする。我々ふたりでな。これはベリア王国とバース王国にとって誠に重要な国際交流である。わかるだろう? 兵隊長どの?」
 「しかし……」と兵隊長が口を開きかけるたびに、カルロ王子は国際交流の重要性について畳みかけた。
兵隊長もわかっている。カルロ王子はただ城の外で羽を伸ばしたいだけだ。
仕方がない……。そう兵隊長は折れて、自身が護衛をするという条件で狩猟祭の開催を承知した。
さあ、あとはアビーを部屋から連れ出すだけだ。
カルロ王子はより一層強くリズミカルに、アビー王子の部屋のドアを叩いた。
「狩猟? いや、僕はあまり得意ではなくて……」
 ドアの隙間からアビー王子はそう答えたけれど、カルロ王子は気にしなかった。
「謙遜をするなよ。バースの王族は獅子を狩ると聞いたぞ」
「それは……」
 確かに、バース王国では獅子を狩ってこそ一人前の王族とされる慣習があった。「獅子の狩人」の称号は民衆に対する権力誇示にも有用である。ところがこのアビー王子、狩猟祭ではウサギを狩ることさえ可哀そうで弓を持つ手が震えてしまい、獅子を狩るなどとんでもなかった。
「僕以外の王族が狩りすぎたせいで、バース王国内の獅子絶滅してしまったんだ」
「なにっ?」
 カルロ王子は眉を吊り上げた。
 獅子の絶滅が危惧され、狩猟禁止令が出たことは嘘ではない。これはアビー王子にとって幸運だった。しかしアビー王子に「獅子の狩人」の称号がないことは、革命勃発と無関係ではないのかもしれない。時々アビー王子はそう悩んでしまうことがある。
「じゃあ、そうだ。代わりに『熊の狩人』の称号をとりに行こう」
「『熊の狩人』?」
「ああ。ベリア王国には獅子はいないが熊ならいる。絶滅の心配もない数だ。そうと決まったらさっそく行こう!」
 カルロ王子は上機嫌に叫ぶと、アビー王子の肩を抱いて廊下を歩きだした。アビー王子はうながされるままカルロ王子の隣を歩く。そしてカルロ王子の強引さがなんだかおかしくなって笑った。カルロ王子と一緒なら何もかも上手くいく気がする。二人の王子は本物の兄弟のように足並みをそろえて、シャワル城を出て行った。
 ベリア兵隊長はどうなることやらと不安げに顔をしかめ、額の汗を拭い、そっと二人の後を追いかけていく。偶然、あなたと目が合った。舞台下手(しもて)へと歩みを進める兵隊長はお客様と目が合ってしまったことに少し照れたのか、肩をすくめるアドリブを見せた。

■第3幕 第3場
「単刀直入にいうとだな、アビー。イーシャを俺に譲ってほしい」
「え?」
 カルロ王子の射放った矢が空を切る。
キャラクテールのおおさわぎ。ブタ、ヤマネコ、マーモット、野ウサギ、オオカミ、イヌワシ。着ぐるみたちがカルロ王子の矢から逃れようとにぎやかに踊り出す。
「イーシャを譲る?」
 アビー王子はきょとんとした。
「つまり、俺の結婚相手に」
「え? いや……」
 アビー王子はとっさにそう答えた。
イーシャをカルロに渡す? そんなことは考えたこともなかった。
「どうしてだ?」
 即座に拒否されたので、カルロ王子は傷ついた様子でアビー王子を見た。
いや、いや、いや、とアビー王子は曖昧に繰り返すだけで続く言葉が出てこない。
「え? あ、いや、いや……」
 アビー王子の混乱をよそにカルロ王子は遠くを眺める。
「初めて出会った時から俺には見えた。イーシャが俺の妃としてコルー王宮にいる姿が……」
 目を細めて幻想の世界に入り浸り始めたカルロを眺めて、アビー王子はようやく考え始めた。イーシャはバースから連れてきた唯一の従者だ。失うのには心細すぎる。
「ううん。僕がいいと言っても、イーシャがなんと言うか……」
「そこをなんとかするのがアビー、お前の役目だ。王子から従者への命令として言ってくれ。『バース・ベリア両国の友好のため、ベリア王国のカルロ王子と結婚するように』と」
「そんなことをしたらイーシャに怒られるよ……」
「イーシャはアビーの従者だろう!?」
アビー王子はどうも気が進まない。イーシャがそんなことを望むものとは思えなかった。
「僕はイーシャが宮仕えを始めた頃からイーシャのことを知っているけれど」
 アビー王子は弓を弱々しく引き絞る。視線の先には野ウサギがいた。
「イーシャはたとえ僕の命令でもそれには従わないと思う」
「なんだと!?」
 王子のいうことに従わない従者などいるものだろうか? そんな従者は殺されてもおかしくない。ところがアビー王子は当然イーシャを殺すつもりなどないし、そんな優しいアビー王子にイーシャが逆らうとも思えなかった。
 なんだか主従が逆みたいだな……。
 カルロ王子は不思議に思ってアビー王子の横顔を見る。
「きっとイーシャなら言うと思うんだ。『アビー王子。人の心は命令で動くものではございません』って。カルロと結婚してくれと命令したところで、僕もカルロもイーシャに軽蔑されると思う。僕はイーシャをがっかりさせたくないんだ」
 アビー王子は緩やかに弓をおろした。野ウサギは安心したように逃げていく。野ウサギに扮した白いチュチュのバレリーナが軽やかに跳躍し、空中で足先を細かく叩き合わせる。頭にはウサギの白い耳のカチューシャ。
ううむ、とうなってカルロ王子はアビー王子の隣で弓を絞り、強い弓勢で矢を放った。
野ウサギはもうだいぶ遠くまで逃げていたが、カルロ王子の放った矢は見事に命中した。ウサギに扮していたバレリーナが重力をなくしたようにはらりと舞台に横たわると、照明は暗転する。

■第3幕 第4場
夜、ファイザはオアシスの地下にあるパルミル王宮遺跡に潜り込んだ。
オアシスで彼を待つ間は、パルミル王宮遺跡の一室を選んで寝床にしている。しかし毎晩簡単には寝つけない。パルミル王宮遺跡を構成する夜光石の眩しさだけが不眠の原因ではないと、ファイザはとっくに気付いていた。
「カルロ……」
 彼の本当の名が「アビー」であることは、ファイザが知る由もない。
どうしても眠れない夜だから、ファイザは外に出てきて、アビーローズの茂みに座り込む。咲きこぼれるアビーローズの赤い花弁に触れて砂漠に架かる月を見上げるのだった。半月はふくらみ始めている。
自由民になりたい。
ファイザは強くそう願った。
わかっている。貧しい泥棒のカルロを愛してしまっても、私は自由民にはなれない!
ファイザは肩を落として座りこみ、アビーローズに触れた。柔らかな花びらを指先で撫でる。
「満月まで、あと何日かしら……」
 ファイザは誰にともなしに問う。アビーローズを見つめ、月を見上げ、それだけで夜が過ぎていく。出し抜けに「私と世界の果てまで逃げて」と言ったら、カルロはなんと言うだろう。ファイザはそんなことを考えてみる。「ムアの手の届かないところまで逃げて、私を愛して」だなんて。そんなことを。
 アビーローズの茂みの向こう側には、人影が揺れていた。ムアの従者の男だ。ムアにファイザに尾行するように言われてこっそり後をつけてきた彼は、アビーローズの影からじっとファイザの様子をうかがっている。ムアの従者は口を押さえ、息が漏れないように細心の注意を払っていた。ファイザは愛しい彼のことで胸がいっぱいで気付かない。
月下野薔薇のヴァリアシオン。月下でファイザはひとり踊る。眠れない夜に胸を焼く彼を想って。悲痛な表情とは対照的にバラの花弁の舞うような繊細な舞を魅せる。ゆったりとした柔らかな動きを支えるのは奴隷として生きるファイザの鍛え上げられた肢体だ。音楽はドビュッシーの「月の光」のようにしっとりとみずみずしい。太陽の下では弾けるように元気なファイザだが、月下では淑やかに舞い踊る。アダージョ。
 ムアの従者はそれをただ眺めていた。ファイザのささやく「カルロ」の名を耳にしてバースへの帰路を急いだ。
ファイザがどうやら他の男に惚れこんでいる。これは一刻も早く、ムア様に報告しなければならない……。

第3幕 第5場
二律背反の第二ヴァリアシオン
。舞台に立つのはアビー王子ひとり。オーケストラが演奏するのはマックス・ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を思わせる短調だ。
 アビー王子はシャワル城の一室にいる。開放されたバルコニー。暗い部屋の中には白銀の月光が差し込む。冷光が融ける。淡い靄の中で、アビー王子舞い踊り始めた。
カルロはイーシャを愛している。イーシャをカルロに譲る? そう考えた時、僕はどうしてイーシャを失いたくないと思ったのだろう。僕はイーシャを愛しているのか。わからない。イーシャは、イーシャはどう思っているのだろう。おそらくカルロのことはあまり気に入っていない……。しかし、僕のことはどうか。イーシャは、僕を嫌いか。もしイーシャが僕を嫌っていたとしたら。もしそうなら、僕はとても生きていける気がしない。これは愛か? 僕はイーシャを愛しているからそう思うのか。イーシャ、今すぐにでも聞きたい。賢い君ならこの難問の答えを知っているだろう。僕は、君を愛しているのか。どうして君をカルロに譲りたくない。
僕がイーシャを愛していると認めてしまえば、この胸に絡んだ苦しみも解けてなくなると思っていた。イーシャと二人、新しい国で生きていけるとしたら。僕はもう王子なんかじゃなくていいような気がする。イーシャも僕も幸福に生きていけるのなら。……それなのにどうして考えてしまうのだろう。
ファイザ。満月の夜、オアシスでしか会えない彼女のことを。僕は、月が今日満ちやしないかと願っている。この瞬間も。君はムアのものだ。ファイザ。どうして僕はムアの妻になる君のことをこんなにも考えてしまうのだろう。願ったって届かないことはわかっているはずなのに。君の幸福はムアとともにあるというのに!
たまらずバルコニーへと駆け出すアビー王子。しかし月光は弱い。満月の夜が来るまでまだ何度も夜を越えなければならない。アビー王子はふらつきながら部屋の中へと戻ってくる。しかし目に宿る光は強い。再び独舞が始まる。
考えてしまった。ファイザにアビー王子を一緒に探してくれないかと頼まれた時。カルロを差し出せばいいんじゃないかって。ファイザは僕をカルロだと信じているのだから。カルロこそ本物のアビー王子だと言えば、ファイザは僕の言うことを信じてくれるはずだ。カルロを僕の代わりに引き渡せばいい。「君の憎むアビー王子は僕が探し出してやった」と言って、ファイザにカルロを突き出すことができたら。そうすればきっと、ファイザはムアではなく僕を……。
曲は転調をむかえる。アビー王子は激しい頭痛に悩まされるかのように打ちひしがれた。
できるわけがない!
アビー王子の叫びは言葉にならず、舞台上で渦巻く。
ファイザは革命家だ。僕からすべてを奪った! イーシャ以外のすべてを。そんな者のためにカルロを引き渡す? 僕は何を考えているんだ。
どうしたらいい。イーシャ。僕はイーシャすら失うかもしれない! 何もない。何もなくなってしまう。憎い。僕からすべてを奪ったファイザが憎い! 殺してやる。殺さなければならない。わかっている。しかしどうしてこの心を止められない。ファイザ、僕はこの夜も君に会いたい!
アビー王子は引き出しから短剣を出して月光に晒し、苦しい表情で光る刃を胸に抱きしめた。照明はアビー王子の顔と白刃にしぼられていく。やがて暗転。

■第3幕 第6場
「イーシャ! イーシャ、どこだ!」
 カルロ王子はイーシャを繰り返し呼びながらアビー王子に言われたことを思い出していた。イーシャは命令では手に入らない。それならば、なんとかしてイーシャの心を自分の力でものにしなければ。カルロ王子はそう決めて、これまで以上にイーシャに構うことに決めた。
「イーシャ、君はいつもどんな仕事をしている?」
 カルロ王子はいつまで経ってもコルーの王宮に帰らず、かといって軍隊が到着してもスファン王宮に出撃せず、理由をつけてシャワル城にしがみついていた。もちろん、イーシャがシャワル城にいるからだ。
「カルロ王子、私は忙しいゆえ」
「そんなことを言わないで。教えてくれ。今、君はどこに行くつもりなんだ?」
「オアシスの井戸に水を汲みに行きます」
「よし、水瓶は俺が持とう。重いからな」
「カルロ王子はシャワル城を出てはなりません」
「ではそんな不自由で可哀想な王子のために、今日こそ共にタスチェを」
「お断りいたします」
 こうしてイーシャはカルロをまいた。オアシスに向かって歩き出した後、イーシャは一度だけシャワル城を振り返った。
城門にはベリア兵に「カルロ王子! いけません! お戻りください!」と止められ、半泣きで手を振るカルロ王子がいる。
イーシャは苦笑いして、再びオアシスに向けて歩き出した。

■第3幕 第7場
イーシャがオアシスの井戸で水をくんでいると、突然背後でどさっと大きな音が聞こえた。
なんだろう。イーシャは不審に思い、湖のほとりに水瓶を置いて音のした方へ歩いて行く。オアシスに茂るスモモの木の葉の青が眩しい。あまり深入りするつもりはなかったのだ。スモモの木のずっと向こうに、アビーローズの赤い花びらが舞うのを見るまでは。
「あっ!」
 イーシャは駆け出した。
 アビーローズ! どうしてこんなところに!
 イーシャの胸はたちまち幸福に沸き立った。そうだ、アビーローズはアビー王子が生まれた日に、バース王国の植物学者がオアシスで発見したバラだった。
まさかこんなところで出会えるとは!
 イーシャは笑顔になる。さっそく何輪か摘んで帰ろう。シャワル城の片隅に植えて、アビー王子に見てもらおう。きっと喜んでくれるはずだ。イーシャはアビー王子の喜ぶ顔を思い描いて浮足立った。
イーシャはアビーローズの茂みに近付いていく。そこで倒れている女を見つけた。ファイザだ。当然イーシャにはこの女が数ヶ月前にシャワル城を騒がせた革命家の女であることなど知るわけがない。
夜通し踊り続けたファイザは、傷ついた脚を投げ出して、アビーローズの茂みの近くに倒れていた。さっきイーシャが聞いたどさっというあの大きな音は、ファイザが倒れた音だったらしい。
「大変!」
イーシャは思わず叫んだ。来た道を戻り、スモモの木に手を伸ばす。果実をひとつもぎ取り、イーシャは女の元に戻った。
「大丈夫ですか?」
 駆け寄ったイーシャは女の肩のあたりを何度か叩いた。意識はある。イーシャは女の乾いた唇にスモモを押し付けた。
ファイザはアビー王子に恋焦がれるあまりに飲み食いを忘れていたらしい。イーシャが通りかからなければどうなっていたことやら。
「ああ、親切なお方。どうもありがとう」
 ファイザは元気を取り戻すと恥じ入ってイーシャに深く礼をした。
「びっくりしたわ。こんなところに人が倒れているんだもの」
「ごめんなさい」
 イーシャは女をまじまじと見つめた。商人だろうか? いや、ラクダの一頭も伴わずに?
「ここで何をしているんですか?」
「人を待っているのよ」
「人を?」
「そうよ」
 突然、女は「あっ」と大きな声をだした。
「ねえ、私、どれくらい気を失っていたのかしら?」
 女が慌てた様子で四方を見回すので、イーシャはなだめた。
「落ち着いてください。どさっと大きな音がして、私、さっきここに駆けつけたばかりです。そう長い時間ではありません」
「じゃ、じゃあ、一日二日は経っていないってことね。よかったわ。そうだ、賢そうなお嬢さん。次の満月はいつか、わかる? もうすぐだと思うんだけれど」
「満月?」
 イーシャは虚を突かれた。この質問、以前に……。
「今日ですわ」
「今日! ああ、やっと今夜会えるのね!」
 ファイザは幸福のあまりにめまいがした。倒れそうになったファイザをイーシャは再び支える。ファイザはすまなそうにしてイーシャから離れた。さっきまで血の気のなかったファイザの唇も頬も今はスモモ色に染まっている。
「ねえ、もしかして、満月の夜に会う約束をしている人がいるの?」
 イーシャはしばらく前、アビー王子に「満月まであと何日か」と聞かれたことを思い出した。なぜそんなことを気にするのかと聞いたら、アビー王子はこう答えた。「カルロにそう聞かれたから」。まさか。イーシャは思考がつながっていくことに興奮を覚えた。続けざまにファイザに問う。
「その恋人って、どんな人?」
「恋人だなんて、そんな、違うわ。彼は私のこと、そんなふうには……」
「だって、満月の夜のたびに会う約束をするんでしょう。恋人よ。ねえ、それってどんな人?」
「どんな人かって……ええと、ちょっと頼りないけど、ほうっておけない、というか」
 やっぱり! カルロ王子には満月の日にオアシスで会う恋人がいたんだわ!
 イーシャはほとんど確信した。これはきっと重大な秘密に違いない。カルロ王子はベリアの王子だけれど、目の前の女は王族には見えなかった。イーシャは一人で納得した。カルロ王子の結婚相手にお姫様は似合わないと思っていたのだ。それよりももっと庶民的な娘の方を、カルロ王子は好むのだろう。しかし王子が庶民の娘と堂々と恋人になれるはずがない。カルロ王子はきっと、この恋人とオアシスで会う約束をしているのだ。
「その恋人の名前はなんというの?」
 イーシャは目の前の女から早くカルロ王子の名前を聞きたくてたまらなくなった。
なんてロマンチックな話!
宮廷につかえる才女とはいえ、イーシャも普通の娘らしく、恋の物語が大好きなのだ。
「そ、それは」
「あてるわ。彼の名前は、もしかして……」
 イーシャはたっぷりもったいぶった。
「カルロ、じゃない?」
「カルロ!? どうしてあなたがカルロのことを!?」
 女は大きな目をさらに大きく見開いて驚いた。信じられない、と言いたげに両手で口を覆う。
「ああ、やっぱり! やっぱりそうなのね!」
 イーシャの中で全てがつながった。カルロ王子には満月の日にだけ、オアシスで会う恋人がいるのだ。
二人は身分差のある秘密の愛を育んでいるんだわ! だからアビー王子に会うたびに、カルロ王子は「次の満月は何日後だろう?」と聞くわけね! 砂漠の真ん中、満月の夜にだけ会うだなんて、カルロ王子にもロマンチックなところがあるじゃない!
「なぁんだ、カルロ王子にはこんな素敵な恋人がいたのね」
 イーシャはふうっと息をついて言う。正直、少しカルロ王子を見直した。砂漠の上空に架る青白い満月がオアシスの恋人を照らす光景は、この世の何よりも美しいに違いない。人目を避けなければならない恋とはいえ、その恋人の美しい姿だけは見逃したくないという気持ちが、イーシャにはわかる気がした。しかし、それと同時に。
そんな恋人がいながら私ににちょっかいを出しているなんて、まったく呆れるわ!
姿こそアビー王子にそっくりだから、危うく心が揺らぐところだった。やっぱりアビー王子はカルロ王子とは全然違う。
私が心を捧げるのはアビー王子ただひとり。
イーシャは改めてそう思い、誓うようにうなずいた。
「王子? 今、カルロ王子って言った?」
 ファイザはぽかんと大きく口を開いた。
「王子だなんてとんでもない。カルロは、泥棒……は、ちょっと言い過ぎかもしれないけど、とにかく身分の低い人間にしか見えないような人よ」
「なおさらカルロ王子に違いありませんわ! あの方、まったく王子には見えないんですもの。あなたの恋人は、ベリア王国のカルロ王子です」
 でも、そうするとカルロ王子はどうやってお城を抜け出しているのかしら?
イーシャは不思議に思った。カルロ王子がひとりでシャワル城から出ないよう、常日頃ベリア兵たちは細心の注意を払っている。さっきだって城門で兵たちにつかまっていた。いったいベリア兵たちの目をどう掻い潜っているのだろう?
「王子? そ、そんな……そんなことって……」
 ファイザは青くなった。
「カルロ王子はご身分を隠してらっしゃるんですわ。間違いありません。だって、カルロ王子でしょ。ベリア王国の王子さまで間違いないわ。漆黒の巻き毛に、ヘーゼル色の大きな瞳……」
「嘘でしょう……?」
 ファイザは叫び出しそうになって両手で口を覆った。
 カルロが王子さま!? じゃあどうして、あんなにみすぼらしい恰好をしているんだろう?
ファイザは混乱していた。
「あの人が王子だなんて、そんなはずは、そんなはずはないわ。だって初めて会った時から、ボロの服を着ているんだもの」
そうだわ。初めて会った時だって、カルロはボロのマントを羽織って、底の擦り切れた靴を履いてた。どうして王子さまがあんな恰好をしていたんだろう? カルロがベリアの王子さま? いいえ、やっぱりそんなはずないわ。ないと思うけど……。でも、もし本当に、本当にカルロが王子さまだとしたら。ああ、私は、いったいどうすればいいのかしら!
 ファイザの気持ちなど知らないまま、イーシャは大きな瞳をくりくり輝かせた。
「カルロ王子に一刻も早くここに来るようにって伝えます」
「伝えるって、あなた、カルロといったいどんな関係なの?」
 ファイザは訝るようにイーシャを見た。
 イーシャは慌てて答える。カルロ王子がイーシャにちょっかいをかけているのを見破られたかもしれないと思った。
とんでもない!
イーシャはそう言いたくなって首を激しく横に振る。私はぜんっぜん、カルロ王子に興味などありませんから!
……とは、さすがに恋人の前で言うのは失礼だろう。イーシャはこほん、と小さく咳払いして嘘をついた。
「ええ、ええと……私、カルロ王子につかえていますの。カルロ王子の従者ですわ」
 まさかベリアの旧王家に仕えていて、アビー王子の亡命を助けているなどと、本当のことを言いわけにはいかない。アビー王子は今、革命家に命を狙われているのだ。
「ですから、オアシスで恋人が待ちくたびれてるってお伝えしますよ。カルロ王子に」
「そんな、やめてちょうだい。私もうカルロのことは好きでいられないわ」
「ええっ、どうしてそんなことをおっしゃるの?」
「私は」
バース王国にいる革命家ムアの婚約者なのよ。などと言えるはずもない……。
ああ、なんてこと! 隣国の王子さまを好きになってしまうなんて!
ファイザは考えてしまう。
きっと彼が住む王宮にはきっと美しいお姫さまが何人も訪ねて来るはずだ。毎晩、彼はファイザよりずっと魅力的な踊り子たちを見ているはずで……。それなのに彼はファイザの踊りを「上手だ」なんて言っていたのだ。
あの人ったら嘘ばかり!
何から話せばいいのかわからなくて、ファイザはただうなだれた。
しかし何か、もっともらしいことを言わなければと思う。
「見ての通り、私はお姫さまじゃないでしょ。カルロとは釣り合わない。叶わないのに想い続けるなんて苦しいだけよ」
「でも、満月のたびに会う約束をするのでしょう。お二人の心に、身分の差など関係あるのでしょうか?」
イーシャはまっすぐな瞳でファイザを見つめ、両手を握って励ました。
「いいわ! きっとカルロ王子とご結婚なさるのがいいわ! 私、協力します!」
「結婚!?」
ファイザの脳裏にムアがよぎる。
そんなことをしたら殺される! 今すぐにバースに帰らなくては。カルロの顔を見る前に……。
しかしそう思ってすぐ、ファイザは考えを転じた。この一ヶ月、満月はまだかと耐えて耐えて、ようやく今日を迎えたのだ。あと数時間でカルロに会える。今夜ようやく、カルロに会える。きっと今帰ってしまったら、二度とカルロには会えない。会いたい。カルロに最後、一目会いたい。たとえ叶わない恋だとしても、望んではいけない恋だとしても、カルロに一言別れを伝えたい。
「じゃあ私、シャワル城に帰ります。きっとカルロ王子に伝えますわ。今夜は早めにオアシスに向かってくださいって。だからもう少しだけ、もう少しだけ待っていてくださいね!」
 イーシャはそう言うと水瓶を抱えてファイザに手を振った。シャワル城の方角へ歩き出す。乾いた日差しが熱く眩しい。
 イーシャはカルロ王子に「カルロ王子に恋人がいるということは知っています。私にちょっかいを出さないでください」と言うつもりだ。
カルロ王子には身を落ち着けていただいて、私のことはすっぱり諦めてもらいましょう。
そうすれば話は単純になる。イーシャの心にはアビー王子しかいない。進む足取りは軽かった。
シャワル城まで走って帰ろうとした時、イーシャは大事なことに気付いた。
「そうだ、これを持って帰らなくちゃ」
 イーシャは小さくつぶやくと、足元のアビーローズを一輪摘んで、水瓶にさした。
すぐにでもアビー王子に、これを届けなくちゃ!
 イーシャは自分の頬がバラ色に燃えるのを感じた。

■第3幕 第8場
 スファン王宮の王の間には、深緑色をした大きなソファがあった。ムアはこのソファに横たわり、ソファの前に置かれた寄木細工の八角形のテーブルの上を見つめていた。テーブルの上には水たばこ用のガラス壺がある。部の壁、天井、カーテンはくすんだ白を基調としていたが、そのくすみの原因は、ムアが吐き出す水たばこの煙にあるのかもしれない。
ムアは水たばこを肺の奥深くに吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら従者の報告に耳を傾けていた。
「なんだと?」
王の間に緊張が走る。
ムアはマブサムの先端を加えると深く息を吸い込み、吐きだした。火皿にはたばこ葉に香料と糖蜜を加えて半ペースト状にしたものが載っている。ムアが呼吸するほど、舞台には怪しげな煙が立ち込めていく。ゆっくりと広がる煙は甘い果実の香りがした。マブサムから繋がるホースはガラス壺に刺さっている。壺の中では水が不穏な泡を立て続けた。
ムアの吐く煙に、天井のシャンデリアが揺れて見えた。シャンデリアには四十本のロウソクがすべて火を灯していた。ロウソク一本につき一つの燭台がついている。この燭台は黄金で、蛇のような鱗が彫られていた。うねる蛇の頭がすべて燭台に変わり、ロウソクが置かれ、火をつけてある。メドゥーサの頭を加工して作ったようなデザインだ。
ムアに向かってひざまずいているのは、ファイザを尾行していた従者だ。従者の男は恐縮した様子で顔を上げる。乾燥した唇は小刻みに震えていた。
「ファイザに浮気相手がいる、だと?」
 ムアは従者の報告を復唱した。声の抑揚はすでに知っていたことを確認するようなものだった。従者は言い出しにくい報告に目を泳がせていた。
「はい。そのようです……」
 報告を聞いたムアは激しく怒り出すに違いないと思っていたので、意外に冷静な様子を見て従者はほっとした。
「ファイザはアビー王子を探しているのではありません。バース・ベリアの国境にあるオアシスで浮気相手と会っているようでした。その浮気相手の男は、満月の夜にしかオアシスにやって来ないそうです。恋人の名前は、」
 従者の男は夜のオアシスでアビーローズに触れるファイザが繰り返し呟いた男の名前を口にした。
「カルロです」
「それは確かか?」
「はい。ファイザは相当そのカルロという男に惚れこんでいる様子でございます。バラの花びらをちぎり、月下に舞い踊りながら、カルロ、と歌うように囁いておられました」
「カルロ……カルロとはどこかで聞いたような……。まさか、ベリアの王子ではあるまいな?」
 ムアは顎髭を撫でる。
ベリアの王族は首都コルーの王宮にいるはずだ。国境よりずっと西に位置している。バース・ベリア国境にまでベリアのカルロ王子が来るものだろうか? いや、この際カルロ王子であろうとカルロ王子でなかろうとどうでもいい。事実だということにしてしまえばいいのだ。「カルロ王子がファイザをたらしこんだ」というのは、ベリアに軍を進める理由として申しぶんない。事実ではなかったとしても、戦場で弁明などできないだろう。そんな隙は与えない。ベリア軍が「カルロ王子がベリアの奴隷娘を寵愛するはずがないだろう!勘違いだ!」と叫ぶ間に斬り殺してしまえばいい。
「全兵、剣を持て! 今すぐに出撃だ!」
 ムアは勢いよく腰帯に下がっていた彎刀を抜いた。
従者の男は突然ムアの輝く双眼が殺気にみなぎったことに腰を抜かし、転がるように王の間を出ていった。
「ベリア王国に出撃の準備!」 
スファン王宮に伝令が急速に回っていく。
出撃のヴァリアシオン。ファイザの裏切りに心を燃やしたムアは彎刀を振り回し踊る。獅子の毛皮を放り投げたムアは彎刀を握ったまま力強い跳躍と回転で王の間を暴れまわる。粗野な振る舞いに見えて舞踏は技巧的だ。伴奏がショパンの「エチュード」的に技巧的だからかもしれない。ムアは伴奏者と技巧を競うように連続して技を見せる。ムアは水たばこの煙を霧散させる激しい回旋を繰り返した。従者たちがムアを落ち着けようと集まってくるがまるで手をつけられない。照明の色合いが赤黒く変わる。婚約者を取られたムアの怒りと嫉妬は暴発し、あらゆるものを破壊していく。
ムアは獣のように咆哮し、水たばこを彎刀でなぎ倒した。粉々に割れたガラスがけたたましく床に散らばる。ムアはテーブルの上に踊り上がった。
「殺してやる! アビー王子もカルロ王子もファイザも全員、俺がこの手で殺してやる!」


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「嘘つきたちの幸福」第3幕(中編)|青野晶 (note.com)

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