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「千歳橋」の菓子について

「老舗「千歳橋」の和菓子を持って初老コンシェルジュに御礼に伺うと、わたくしはお気持ちだけで結構なのです、と目を見てはっきりと言われ、お礼に物を持っていった自分をひどく恥ずかしく思う」

という夢を見た。

「千歳橋」などという菓子屋などこの世に無い。
初老も知らぬ人であるし、よくよく考えれば「コンシェルジュ」という職業自体に馴染みがなくよく分かっていない。当然ながらそのような職種の人にお世話になった事もない。
夢ながら、かなり背伸びしているなと思う。

私がこの件で一番悔やまれるのはこの世に存在しない夢の中の菓子を食わずに目覚めてしまったことである。
「千歳橋」は何やら有名な老舗らしいのだが、干菓子なのか生菓子なのかの判別もつかないこれまで見たことのない菓子であった。
化粧箱に詰めたそれは月餅10個入りなのかと思うほどの只事でない重さだった。
食えばさぞかし腹が膨れるであろう。重い菓子が良いものという印象はないのだが私の田舎臭い発想がそうさせるのだろう。

眠りが浅いせいか夢をよく見る。

無意識は自分を輝かせるような気がして、昔は夢日記を付けたり寝起きに簡単な絵を描いたりしていた。
しかし習慣的に記録をつけると徐々に傾向ができてつまらなくなる。夢は見っぱなしにするほど枝葉に分かれて種類ができるが結局幹は一つでやはり自分のパターンがあると思う。私の場合は現実に起きたことがすぐ夢に反映するので単純すぎて馬鹿っぽいなと思っている。


前述の「千歳橋の菓子の夢」を見るきっかけとなったと思われる私の現実は以下のようなものであった


先日、これは紹介制で限られた人しか買えない貴重な京都の老舗菓子だと添えられた勿体つけたお歳暮が届いた。
3時のおやつに菓子を食いながら、洒落臭い、いかにも京都の老舗らしいやり方だと思っていたのだが、冷静になれば罪なのは送り主の勿体付けた態度であって、美味い菓子を作るその店に悪態つくのは筋違いである。
そして相変わらず美味いのは間違いない。
相変わらず美味いなぁ、なるほど甘味とは甘を添加することではなく香ばしさを形にしたものなのだ、等々、分かったようなことを思い味わううちに、以前も、別件でその人物が同じような事を言って勿体付けたことを思い出すのだった。
貴重な〇〇の菓子だということを、私がもっと熱心にありがたがればいつも美しく場が収まるのに、食うまで気づかない気の利かない私が悪いのだなと思った。
こんな野暮な私と付き合ってくれるなんて寧ろ心の広い御人である。この菓子は美味い。

それにしても京都ものと関わると最初はぶつくさ文句をいいながらも、最終的には実があるなぁと感心してしまう事が割と多い。
形の悪い壺やら品のない字の札ならばご利益があろうとなかろうと騙されたと言えるのに、気に入らないのに物が良かった時はどうあろうと認めざるを得ず、なんだか癪にさわるが仕方ない。
結局は私が田舎者だからであろう。
赤子の手をひねるが如く、あちらからすれば田舎者が物知らずにつく悪態などは微風ほどにもならないし、赤子どころか裏山で木の葉が一枚落ちたかどうかくらいの無関心さである。
私はそれを知った上で田舎者らしく悪態をついているのだ、これも折り込み済みのやりとりなのだ、そう、寧ろ私はあれもこれも起きることが分かっているのだ、と神経衰弱ギリギリのところで自問自答しているうちに、気づけば彼らの手解きを受けさせて頂いている。
なるほど先生これが甘味というものなのですね。
したり顔で思う己に往復ビンタを食らわしたいが、京じこみの甘味の真髄を伝承した私にはそんなものは効かないのだ。

このような現実が、私に架空の老舗菓子屋「千歳橋」を作らせたのだと思う。

人生で一度も接したことのない初老コンシェルジュの存在、なぜ菓子を受け取ってもらえなかったのか、それに対する恥ずかしいという感情、思うところは色々あり、何層ものコンプレックスの匂いがする。
結局己の夢を分析しても知り尽くした現実が露わになるだけで、ただ色気のない堂々巡りが繰り返されるだけである。
臆病風がふいたのでこの辺りでおしまいとする。





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