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「コラムの手前のざっとした文」或いは「小説未満」

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「私」を題材とした創作です。
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2021年4月の記事一覧

さよなら名前のない私

さよなら名前のない私

ルル、ルル、と、喉を鳴らす声がする。

その声は、きっと林の方から、浅い夜の僅かな明るみに混ざり、私の耳に届く。ふと顔を上げ、一体いつから鳴いていたのだろうと思う。

書き物をしていた手を止め、湯呑に残った冷えた茶を飲む。ふいに、台所の冷蔵庫の音が止まる。ずっと鳴っていたのだと気づくのは、暫く経ってからだ。しだいに雨の音が聞こえてきて、ああ、ずっと降っていたのだと思う。降り注ぐ雨の音は、私を家ごと

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うしみつに眠る

うしみつに眠る

鉢植えの根元についている子株を外したら、思いの外小さかった。植え替えるにも、家にある素焼鉢では少し大きい。小さな鉢が欲しくなった。

食料品の買い物のついでに小さな素焼鉢を見つけた。二つ重ねたものが硬いビニールで包装され、下の棚の奥で影になっている。二つ買い物籠に入れ、食料品と一緒に精算し持ち帰る。対になった素焼き鉢の包装をとき、裏返してみると、安価なせいか、どれも底穴が随分小さい。これでは流石に

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かぶの菜飯

かぶの菜飯

スーパーに行くと蕪がない。蕪のあったその辺りには半分に切られた大根がポツンポツンと申し訳なさそうに立っている。
ああ、無い、と声に出して、先週まで蕪のあったその辺りをぐるりと周り、無い、と今度は声に出さず思った。今年は終わってしまったのだ。

菜飯の正式な作り方は知らない。
米を炊いているうちに、沸騰した湯に蕪の葉をざぶりと入れたら、すぐザルに上げて、水にさらす。軽く茹でた蕪の葉は鮮やかな緑になる

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空飛ぶ言葉たち

空飛ぶ言葉たち

その言葉は、奥行きも質量も無く、現れた側から、ふわりと宙に浮く。それは捉えているようで事の表面を撫でることさえもできない。それは、空間を漂い、さらに広い場所を求め飛んでいくが、誰にも届かずに消えていく。幾つもの漢字や平仮名が、即座にバラバラになり、ゆるゆると天高く昇っていく。私はその空飛ぶ言葉たちを眺めて、なんとなく手を合わせる。正式な祈り方を知らないので、半端な格好で首から上だけで頭を下げる。

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いつも歩く道を反対から歩いたら曲がり角が分からなくなった

いつも歩く道を反対から歩いたら曲がり角が分からなくなった

多分此処だろうと、左に曲がると、見慣れない民家の木塀がある。方向は合っているのだからと坂をのぼっていく。坂は左に傾きながら、着実に頂上へ運んでくれる。此処が一番上だと思い、強く足を踏み着地する。息を吐き出す。
左向こうに新緑が広がっている。あちら側から来たときは無かったのに。いつも選んで眺めているのだ。
鶯が鳴いている。あの鶯が昨日から上手く鳴くことができるようになったのを知っている。今日は明け方

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