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「正しさ」を使うところ
「正しい」こたえってない。
「正しさ」でさえも相対的なものだ。
その人が信じることが正しい、って、ここでも何回か書いてきた。
つまり、我々が、常日頃想定している「正しさ」とは、「エゴ」のことだ。
議論をするときも、
ポジションの取り合いの議論をするときも、
本当に自分の言い分が正しいという渦中にいたら
それは、正しくないのかもしれない。
誰々を何々を救うために!という正義をかざした
正しさのポジションどりも
結局「エゴ」のポジションどり。
支持してもらえる人気を得られるか、か、
せいぜい、結論を導き出すのに、確率が高い、くらい。
(「エゴ」が悪いということではない。
ただ、正しさをかざすときに、
「エゴ」に振り回されていないか、
という視点があるとよりフェアになれる。)
でも、
「正しさ」を使うと間違いない場面がある。
(この「間違いない」を使うことで、どっかに「正しさ」があることを認めなければならない、そこに違和感を感じるものの)
その筆頭に出てきたのが、
「誠実さ」
誠実である、に対しては、正しくいたい。
誠実さの軸も、
結局自分の信念(思考・マインド)に
由来するんだろうなって思うけど。
誰に一番誠実でありたい?
自分に誠実であれば、家族にも誠実でいれる?
家族に誠実であれば、他人に誠実でいれる?
自分・家族・他人っていう枠組みがあるけど、
「誠実さ」って、何に対してもだと思う。
それは結局、「自分に対して誠実」ってことなのかもしれない。
分け隔てなく、常に誠実であるか、
それが尊いチャレンジ。
って、
誠実でいることってチャレンジいらないかも。
ただ誠実でいればいいだけから。
貴方の愛のエナジーを有難う💖