シトラスの香りだった。
「本日担当します、秋谷です」
鏡越しに目が合うと、その人は言った。
「あっ...えっと、今日は少しだけ軽くしたいです。長さは変えずに…」
「わかりました。ではシャンプー台へどうぞ」
✧✧✧
彼の髪から、シトラスの香りがする。
皆で寄り集まって話をするとき、彼が動くとふわっと香った。
「いい香りがする男子って良くない?」
放課後のファストフード店では、課題を広げながら、大抵は気になる子の話をしている。
私は意中の彼の名前を告げずに二人の親友の反応を待った。
「あー、香水?いやー、自然がいいわ」
「うーん、気にならない程度の匂いなら良いかもね。整髪料の香りとか」
二人とも、高校生男子の纏う香りには興味がないようだ。
「彼の香り、あれはきっとシャンプーなんだよなぁ。シトラスの香りの」
✧✧✧
「椅子起こしますね」
私は昔からシャンプー台が苦手だ。
仰向けになっていると感じる、シャンプーをしてくれる人の生々しい息遣い。今日は特に体に力が入りすぎてしまった。
「肩凝ってますね。お仕事お忙しいんですか」
肩を揉まれると毎回言われてしまう。ストレスフルな生活が露呈したようで恥ずかしい。
「いえ、そんなに忙しい方ではないんですけどね」
愛想笑いをしたつもりが、苦笑いになっていた。
✧✧✧
私は自分に自信がないから、いつも猫背気味だった。
だから、高校に入学するとともに自分を変えようと思った。
自信のない私には好都合の「マスク時代」の到来。
目元だけには気合いを入れて化粧をする。口元はマスクを付けて、笑っていなくとも目だけ垂れさせれば、いかにも感じのいい子になった。
次第に胸を張って過ごせるようになった。
それでも私の頑固な肩こりは急激には良くならなかったけれど。
体育祭のどさくさで、シトラスの香りの彼の隣で円陣を組んだ。
活発な彼はいつもクラスの中心にいた。
彼の掛け声で体を屈める。
彼の腕が私の肩に触れる。
体の小さい私を気遣い、腕の重みをかけずに肩を寄せてくれる彼の優しさに胸がときめいた。
それと同時に、彼のことをとても遠い存在に感じた。
✧✧✧
「いつもロングヘアですか?」
その人に言われ、鏡の中の自分を見る。
今の髪の長さは私にしては最長だ。
「近々、結婚式をあげるので…」
「そうなんですね。おめでとうございます。」笑顔でそう言われた。
「僕の妻も式の前は伸ばしていました」
目を上げてその人を見た。私の髪を切る作業の手を止めないその人の表情を伺いながら聞いた。
「奥様の髪、当日もアレンジして差し上げたんですか?」
その人はなお、作業を続けながら言う。
「髪型の相談にはのりました。でも当日は、妻の花嫁姿を楽しみにしたかったので、他の方におまかせしました」
優しい笑顔と目があった。そうですよね、と言いながら私は自分の手元に視線を落とした。
✧✧✧
「私、ボブにするね」
親友に宣言した。
えー、と言われた。言われると思った。
身長の低い私がボブカットにしたら、きっと子供っぽさが増してしまうだろう。だけど、聞いてしまったから。
彼は、ボブヘアが好みなんだ。
高校一年の学期末、ボブヘアにした私に彼は言った。
「佐伯さん、かわいいじゃん」
軽いなー、と親友二人は言ったけど、私は天にも昇る気持ちだった。
単純な私は、三年間ボブヘアで過ごした。その間、彼がロングヘアの女の子と付き合っている噂を耳にしても。
✧✧✧
「花の香りはお好きですか」
最後の仕上げにつけるオイルの香りを説明された。
私は「シトラスの香りが好き」と言いかけて、やめた。
会計を済ませて、ドアを開けてくれたその人は言う。
「ありがとうございました。ぜひまたお越しください」
私は会釈をして、すぐに彼に背を向けた。
その後すぐ、背中で彼の声がした。
「佐伯さん、結婚おめでとう!」
私は振り向いて、言った。
「ありがとう、秋谷くん。また来ます」
〔完〕
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