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短編小説 | 蟻地獄 |カバー小説


今、彼女はなんと言ったんだ。
青白い顔をして、まるで冗談のようなことを言う。
目の前にいる若い娘は、感情を殺しているというよりは、そもそもそんなものは初めから持ち合わせていないように見えた。

「私を、買わない?」
娘は、もう一度同じことばを口にした。
私は、娘の口の端に、わずかに空いている隙間を眺めながら「やめておく」と言った。

「……安くてもいいけど」
私の答えが、予想していたものと違ったからだろうか、娘は、いくらか目を開いて、意外にも戸惑った様子を見せた。
なぜこの娘が私のような初老に声をかけるのかわからない。もしかすると、以前、若い男から、なにかひどい目に合わされたのかもしれない。

「なにか、食べるか」
このとき私が娘にかけた言葉の真意は、自分でもよくわからないが、私自身、ここで娘を放って立ち去る気分でもなかった。
娘は、私の目の奥を見つめて、わずかに頷いた。

娘と連れ立って、雑多な店が並ぶ通りを歩く。きっと他人が見れば、孫娘と歩いているように見えるだろう。
隣に張り付くように歩く娘をちらと見やる。正面から見ていたときには気が付かなかったが、娘は小柄な割に、肉感的な体つきをしていた。身長が低いことで、奇妙にアンバランスさを感じるものの、裸の彼女を想像することは容易だった。
豊満な体を、惜しげも無く晒して男に抱かれる娘が脳裏に浮かぶ。月明かりに照らされたその顔は、今よりもずっと表情がなかった。
「なに、食べるの」
男に抱かれていた娘が口を開いた。

「牛丼でもいいか」
「いい」

安価な牛丼店が放つ、眩しい光の中に入っていく。この明るさに娘が耐えられるのだろうかと興味が湧いてしまうほど、この娘には馴染まない場所に思えた。
ふと店の奥を見ると、子供を連れた客があった。ただ腹を満たすことが目的の店の、安価な外食で食事を済ませる親と子ども。
日本はいつからか貧しくなった。
家庭の食事風景を思いだせない自分でさえ、嘆きたくなる。

高度成長期が誕生させた「鍵っ子」のせいか。家庭のあたたかさや安心感を知らずに育った大人が、この不安定な社会で子どもを持ちたいなどと、はたして思うだろうか。もちろん自分も、生涯、家庭も子どもも持たないという者の一人だ。

「ね、どこでする?」
無言で腹を満たしたあと、いくらか体が温まったのか、上気した顔で娘は言った。娘は、まだ諦めていなかったのだ。
娘の声が店内に響いたような気がして、一度周りを見渡した。私に、どこか後ろめたい気持ちがあったからなのだろう、慌てて娘とともに外に出た。

「家に行こう」
一先ず家へ向かうことにして歩きながら、娘の目的がなんであるのか、考えを巡らせた。美人局だろうか。
考えたところで不安を消すことはできない。それどころか、膨れ上がる娘への興味を抑えることが出来なかった。

鉄さびだらけのぼろアパートが見えてきた。辺りを警戒しながら、急いでドアを開ける。やはり、誰かに見られるのはまずい。
半ば強引に娘を部屋の中に上がらせた。

「一万しかだせない」
娘に期待をもたせる前にと、部屋に入るなり額を提示した。これでだめと言うのなら、それはそれで気が楽だった。

娘は何も言わず微笑んで、「お風呂、いい?」と訊いてきた。
私はシャワーだけを使用するように言って、奥の風呂場を示した。
娘は私が指差す方を見ながら、何を思ったか、次には私の目の前で衣服を脱ぎ始めた。私は少しずつ顕になる娘の立体的な体の線を視線でなぞりながら、しばらくその場に立ち尽くした。しかし、娘が薄ピンク色のレースをあしらったブラジャーのホックを外したタイミングで、慌ててカーテンレールに吊るしておいた洗濯物の中からバスタオルを取ると、娘に向けて放った。
娘に背を向けて椅子に腰掛け、煙草を取り出した。煙草を挟む指が少し震えて、テーブルに灰を落とす。落ちた灰を見つめながら、最後に女を抱いたのはいつだったか、思い出そうにも思い出せないことに気づいた。

シャワーから戻った娘は、「お布団、ある?」と言って、私の隣に腰掛けた。雑に巻かれたタオルから、今にも零れでてしまいそうな胸に目がいく。
「いま敷くよ」
私の手はいよいよ止められないほどに震えていた。
布団を敷くと、娘は巻いていたバスタオルを椅子の背に掛けて、裸で布団の中に入った。娘は仰向けになり、手で顔を隠し「眩しい」と言った。
私は電気を消し、服を脱いだ。
体は既に反応しているのに、娘に近づくには、少しばかりの勇気が必要だった。
布団をめくり、ゆっくりと体を滑りこませた。狭い一人用の布団から、娘がはみ出してしまわないように抱き寄せた。娘の肌はしっとりとして、吸い付くように私に密着した。私はふと思い立ち、すぐ近くの窓のカーテンを開けた。月明かりが、娘の白く幼い肌を照らす。
何歳なのだろうか。考えたくはなかったが、あまりに幼く見える娘の顔を見ながら、そんなことを思った。

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「今日はなに、食べる?」
初めの日に一万円を払ってからは、その後は、会っても食事をさせるのみで、金のやり取りなしに私は娘を抱き、娘も私に抱かれようとした。
一緒に食事をする私たちは、恋人に見えるはずもなく、私自身も、娘を恋愛対象として見たことはなかった。

私はいつも駅前に座って彼女を待った。
夕暮れには、駅からぞろぞろとサラリーマンやOLが出てくる。蟻の群れのように、彼らは巣に戻るのだろう。大事な大事な彼らの巣には、あの娘のような子どもが待っているのだろうか。

いつの間にか横には娘がいた。
「何見てるの」と娘は訊く。
「なんだか、蟻みたいでね」
娘は、私が見ている先を見つめながら
「蟻とか、見たことない」と言った。

コンクリだらけの都会で、人の流れの激しい都会で、人々は地面なんて見ないのだろう。私は彼女を近くの神社に連れていき、乾いた軒下を見せた。

「ここに蟻がいるの?」
「蟻地獄がいる」
「地獄?」

砂がすり鉢状に凹んでいる巣に、つかまえた蟻を落として見せた。彼女がじっと見つめる先で、蟻はひどくもがいていた。どんなにもがいても這い上がれない蟻が、再びすり鉢の下に落ちると、砂の中から黒い顎が現れて、蟻を捕まえ、また砂の中に潜っていった。

「食べるの?」
「血を吸うんだよ」

私と娘は、無言でアパートへ向かった。
まるで蟻地獄だ。私は、娘が部屋に入り、当然のように服を脱ぎ始めるのを眺めながら、そんなことを思った。狭い部屋で、若い娘の体を貪る私は、なんとも醜い蟻地獄。

今日も月明かりに照らされた娘の肌は白く、幼い。悶える様子はあっても、娘の表情はないに等しい。泣いているような、なにかに耐えるような声を漏らす娘の柔肌に触れていると、時々、噛みついてみたい衝動に襲われた。そのたびに、私は醜い蟻地獄になっていくようだった。

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そんな日々も、やがて娘が駅に現れなくなったことで終わりを迎えた。私は娘を探す気はなかった。
また一人になった私は、日銭を稼いでは、たまに駅前に腰掛け、ただぼんやりと過ごした。

あるとき、娘と会わなくなって数ヶ月が経ち、顔も忘れかけたころ、赤ん坊を抱いた、懐かしい彼女が現れた。

「生まれたよ」

私は呆然とことばも無く、彼女の抱いた赤ん坊を見ていた。
もしかすると、私の子どもなのだろうか。そう思い至り、こころが温かくなった。
今までになかった気持ちが芽生え、まるで自分が別の生き物にでもなったかのような錯覚をした。

「たまに見せにくるね」
彼女はそう言うと、離れたところに立っていた、彼女と同年代の男と去っていった。母親になった彼女は、眩しい光の中にいるように見えた。とても現実離れしたその光景は、まるで透明な美しいカゲロウに見える。

彼女は、幸せな家庭を築くだろう。そして子どもを育て、またその子どもがいつか子どもを生む。
「俺は、蟻地獄のままだ」
ただ一人残された我が身を思い、言いしれぬ寂しさに襲われた。
既に見えなくなった彼女を、記憶の中で追いながら、震える手で煙草をくわえた。




[完]


#カバー小説


wsd983320987さんの作品「蟻地獄」をカバーさせていただきました。
個性的な雰囲気と「暗さ」があり、魅力的な作品です。
不気味に描かれる、どこかリアルなストーリーに惹き込まれました。
男の心情を表す、「煙草を吸うシーン」が特に好きです。
カバーさせていただいたことで、wsd986330987さんの文章のリズムを、より深く感じることが出来て、とても勉強になりました。
wsd983320987さん、ありがとうございました!

ぜひ、原作をお読みいただきたいと思います。


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