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【三国志正史】07曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 199年河北進軍~200年董承の反乱(三国志 正史)

公孫瓚滅亡(199年)曹操と袁紹は、これまで多少の対立はあったものの、基本的には協調関係にあった。 しかしこの年、曹操と袁紹の衝突が不可避となる大きな転機が起こる。 公孫瓚の滅亡である。 袁紹は長いこと北方の公孫瓚と戦い続けていた。 だからこそ南方の曹操とは協力してきたわけだが、この年、ついに易京を攻略して公孫瓚を滅ぼした。 北方を平定した袁紹が南下するのは確実となった。 袁紹は、曹操のもとに公孫瓚の首を送った(公孫瓚伝注『魏略』)。 鮮于輔の帰順 幽州では、公孫

    • 【三国志正史】06曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 197年張繍との戦い~198年呂布討伐

      最初から読む場合はこちら↓からどうぞ! 張繍の降伏と裏切り(197年)董卓死後の勢力を引きついだ一人に張済がいる。 張済は弘農に駐屯していたが、196年に穣を攻撃したさいに戦死した。 どうやら婁圭に敗れたようだ。 張済の勢力は張繍が引き継ぎ、宛に駐屯した。 張繍は賈詡を配下に迎え入れ、その進言に従って、劉表と同盟を結んだ。 その翌年、197年(建安二年)正月、曹操は宛に進軍した。 張繍は降伏した。 婁圭も曹操に帰順したようだ。 婁圭はこの後の官職が残らないが、曹操の

      • 【三国志正史】05曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 195年豫州侵攻~196年献帝奉戴

        曹操の豫州侵攻(195年冬)曹操は張邈の反乱を鎮圧し、兗州を再び支配下においた。 張邈の反乱以前、曹操は徐州を攻略目標にしていた。 徐州牧の陶謙は袁術・公孫瓚寄りで、曹操とは敵対関係にあった。 しかし徐州牧が陶謙から劉備に移ると、劉備は袁術と敵対するようになった。 曹操は袁術との戦いを優先し、徐州攻略は中止したようだ。 張超の籠っていた雍丘が陥落すると、曹操はその月のうちに南進を始めて豫州陳国に侵入した。 攻撃の目標は、袁術が任命した陳国相袁嗣だった。 陳国には、陳王

        • 【三国志正史】04曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 徐州侵攻~張邈・呂布の反乱

          陶謙の兗州侵攻(193年)192年頃、陶謙は公孫瓚の求めに応じて兗州に出兵した(前述)。この時のことは詳しく分からないが、発干まで進出した陶謙軍は袁紹・曹操の軍に敗れた。 下邳で闕宣が挙兵し、天子を自称して数千人の軍勢を集めると、陶謙は闕宣と同盟を結んだ。 翌193年、陶謙は闕宣の軍勢を加えて、再び兗州に侵攻した。曹操軍が袁術との戦いで手薄になったところを狙ったか、あるいは袁術を支援しようとしたのかもしれない。 陶謙軍は泰山郡に攻め入って費・華を奪ったのち、任城国を攻略

        • 【三国志正史】07曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 199年河北進軍~200年董承の反乱(三国志 正史)

        • 【三国志正史】06曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 197年張繍との戦い~198年呂布討伐

        • 【三国志正史】05曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 195年豫州侵攻~196年献帝奉戴

        • 【三国志正史】04曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 徐州侵攻~張邈・呂布の反乱

          【三国志正史】03曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 192年東郡太守~袁術の兗州侵攻

          黒山賊との戦い(192年春)192年(初平二年)春、曹操は東郡太守・行奮武将軍として東武陽に政庁を置いていた。 曹操は兵を率いて出陣し、頓丘に陣を敷いた。 東武陽から黄河沿いに南西へ進んだところで、黄河を挟んで濮陽の北にある。 曹操とすれ違う形で、黒山賊の于毒・眭固は東武陽を攻撃した。 諸将は東武陽を救援するよう提案した。この時点の諸将と言えば、夏侯惇・夏侯淵・曹洪・曹仁・史渙らであろうか。武帝紀を除く伝記には、この時期の記録が残っていない。 曹操は諸将の提案を蹴り、西

          【三国志正史】03曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 192年東郡太守~袁術の兗州侵攻

          【三国志正史】02曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 190年反董卓連合の結成~

          反董卓連合の結成(190年春)190年正月、反董卓連合が結成された。 この年から193年までが初平年間。 連合の結成を呼び掛けたのは、東郡太守の橋瑁。三公による決起の檄文を偽造し、諸侯に挙兵を呼び掛けた。 連合に応じた諸侯は、袁紹を盟主に推したてた。袁紹は車騎将軍を名乗った。 連合の呼びかけ人である東郡太守橋瑁は、兗州の陳留郡酸棗に駐屯した。 酸棗には、陳留太守張邈、山陽太守袁遺、兗州刺史劉岱、行奮武将軍曹操、行破虜将軍鮑信が集まった。 鮑信は、本紀ではこの時点で既に済

          【三国志正史】02曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 190年反董卓連合の結成~

          【三国志正史】01曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 189年霊帝死去~曹操挙兵

          霊帝死去 当時の曹操と周辺西暦189年4月(年は西暦、月は旧暦)、当時後漢の皇帝だった霊帝が死去した。 このとき、曹操は都の洛陽にいて、典軍校尉を務めていた。当時曹操は35歳。 典軍校尉は西園八校尉の一つ。新設された霊帝直属軍の指揮官だった。典軍校尉のほかに中軍校尉袁紹や、佐軍校尉淳于瓊などがいる。 この前後に都にいて、のちに曹操配下となるものには、守宮令荀彧、黄門侍郎荀攸、尚書郎華歆がいた。当時の曹操との関わりは分からない。 曹操の一族曹純も黄門侍郎だった。曹純と荀攸

          【三国志正史】01曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 189年霊帝死去~曹操挙兵

          【三国志正史】00曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 前書き

          はじめにこの回はただの前書きです。 『三国志』は読みにくい。時系列がわからん。 三国志の正史について調べるとき、もっとも基本的な資料は陳寿が書いた『三国志』になる。 3世紀に書かれた歴史書だ。 中国語(漢文)で書かれた歴史書なので、分かりにくいのも仕方ないのだが、ちくま学芸文庫から現代語訳が出ているので、内容が理解できないということはない。 しかし『三国志』は紀伝体。各皇帝の本紀にその時代の出来事が書かれたのち、重要な人物の伝記がつづく。すなわち伝記の集合体である。

          【三国志正史】00曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 前書き

          飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)② 戦国時代

          江馬時経の時代三木氏代替わり直後の戦い(1516) 1516年(永正十三年)、三木氏の当主だった重頼が死去し、直頼が後を継いだ。このとき、三木直頼は弱冠十九歳だった。 三木氏代替わりのタイミングで、飛騨では戦乱が起こった。 例によって戦いの詳細は不明だが、三木氏の隙をつき、江馬氏が勢力拡大を図って戦いを仕掛けたものと考えられている。 戦いは翌1517年まで続き、最終的には江馬氏が敗退した。 この時の江馬氏当主が誰なのかは不明。 14世紀末、相国寺に仏事銭を納めてからは

          飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)② 戦国時代

          飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)① 14~15世紀

          はじめにこの記事では、戦国時代の飛騨国北部「高原郷」を中心に勢力を持っていた江馬氏について調べる。 調べた内容をまとめた記事ではなく、調べながら書いたメモである。 江馬氏については軍記物に描かれていたが、現代では軍記物を読む機会がない。 軍記物に描かれた江馬氏の姿は、『高原郷土史』という本にまとめられていた。 そこで、前回の記事では『高原郷土史』を書き写した。 今回は逆に(?)、史料に残る史実の江馬氏について調べる。 調べると言っても、一般向けの本に書かれていることをま

          飛騨神岡の武士「江馬氏」 史実に残る姿をまとめてみた(メモ)① 14~15世紀

          子供が粉薬を飲んでくれないのでカプセルに詰める(神岡で入手できるものだけを使う)

          息子氏8歳がインフルエンザにかかった。 ちびっ子がインフルにかかると、抗ウイルス薬のタミフルが処方される。 「朝夕二回、処方された全量を飲み切るまでやめてはいけない」と病院で説明を受けた。 「インフルエンザには特効薬があるから苦しいのも今だけだよ。薬があってよかったね」と息子に話しながら、薬局で薬を受け取った。 んで、袋から出てきたのがコイツである。 量が多い。 ただでさえ粉薬には拒否感が強いのに、この量はヤバい。 加えて、風邪症状を抑える薬もある おおムコダインよ

          子供が粉薬を飲んでくれないのでカプセルに詰める(神岡で入手できるものだけを使う)

          『高原郷土史』から江馬氏に関わる記述を抜粋して読みやすくしたもの

          「高原郷土史」より江馬氏に関連する部分を抜粋し、 旧字体を新字体に、送り仮名を現代風、数字をアラビア数字に改めたもの。 分かりにくそうな箇所には※印をつけ、その段落または文の終わりに注釈をつけた。 一部の字はひらがなに置き換えた。 例:其→その。之・是→これ。専ら→もっぱら など。 一部の字を(ほぼ)同義の別字に置き換えた。 例:遁れる→逃れる。嗣ぐ→継ぐ 鬩ぐ→攻める など。 『高原郷土史』 著者 柴田袖水 発行 昭和12年/住伊書店 平成3年に神岡ニュース社より復刻

          『高原郷土史』から江馬氏に関わる記述を抜粋して読みやすくしたもの