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【三国志正史】05曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 195年豫州侵攻~196年献帝奉戴


曹操の豫州侵攻(195年冬)

曹操張邈の反乱を鎮圧し、兗州を再び支配下においた。

張邈の反乱以前、曹操は徐州を攻略目標にしていた。
徐州牧の陶謙袁術公孫瓚寄りで、曹操とは敵対関係にあった。
しかし徐州牧が陶謙から劉備に移ると、劉備は袁術と敵対するようになった。
曹操は袁術との戦いを優先し、徐州攻略は中止したようだ。

張超の籠っていた雍丘が陥落すると、曹操はその月のうちに南進を始めて豫州陳国に侵入した。
攻撃の目標は、袁術が任命した陳国相袁嗣だった。

陳国には、陳王劉寵・陳国相駱俊がいたはずだが、このときの動向は分からない。

翌196年正月、曹操は武平を攻略し、袁嗣は降伏した。
こののち曹操は武平亭候となるから、武平はこのまま曹操の勢力圏に入ったと見て良いだろう。

献帝の安邑行幸(195年)

この前年・195年、献帝は長安を脱出して弘農に行幸していた。長安脱出の実現には鍾繇が策略をめぐらして尽力した。
献帝には董承楊奉が同行していた。楊奉の配下には徐晃がいて、騎都尉に任じられていた。

長安で政権を握っていた李傕郭汜は、一時は行幸を許可したものの、やがて後悔して連れ戻すことにした。
しかし董承らがこれを拒否したため、李傕たちは兵を出して追跡を始めた。
献帝・朝廷の百官・董承・楊奉らの一行と、李傕・郭汜らの間で戦争状態となった。

献帝一行は李傕らの攻撃を受けながら逃走を続け、河東郡の韓暹に協力を依頼した。朝廷の高官に多数の死者を出しながらも黄河を渡り、河東郡の安邑までたどり着き、ここを都とした。

河内太守張楊が安邑に馳せ参じた。張楊配下の董昭も献帝の元に出向いて議郎に任じられた。
河東太守王邑は、献帝に物資を献上した。

安邑では、董承・楊奉・韓暹・張楊らが献帝を守る体制になったが、すぐに反目しあうようになっていった。
張楊は献帝を洛陽に戻したいと提案したが、諸将に拒否された。張楊は安邑を離れて河内郡に戻った。

献帝が安邑に逃れてきたことを知った曹操陣営では、献帝を迎え入れるべきかどうかの議論が起きた。袁紹陣営でも同様に議論が起きたが、袁紹は結局献帝を迎え入れなかった。
曹操陣営では、荀彧程昱が献帝擁立を勧めたので、曹操は献帝を迎え入れることにした。

196年正月の陳国攻略後、曹洪が兵を率いて河東郡に向かった。
一方、董承は袁術に救援を求めており、曹洪よりも先に袁術軍と合流していた。董承と袁術軍が要害に拠って抵抗したため、曹洪は献帝を迎えることが出来なかった。

潁川・汝南侵攻(196年春)

潁川郡と汝南郡には、劉辟何儀黄邵何曼らが勢力を張っていた。
196年2月、曹操軍は南進して、潁川・汝南郡に侵攻した。

黄邵は曹操の陣営に夜襲をかけたが、于禁がこれを撃退して黄邵を斬った。
武帝紀には劉辟も斬られたとあるが、劉辟はこの後も活動の記録がある。
何儀は降伏した。何曼がどうしたかは記録がない。
劉辟・何儀・黄邵・何曼らの軍勢は曹操軍が吸収した。この戦いでは曹仁が手柄を立てた。

この戦いで、曹操は潁川郡の許を制圧した。
曹操はそのまま許を拠点としたようだ。
許を制圧することで、曹操は豊富な物資を得た。兗州に比べると荒廃の度合いが小さかったようだ。
許はこののち許都となり、その後許昌となる。

許褚は淮・汝のあたりに独立した勢力を築いていたが、曹操が侵攻してくると軍勢を率いて帰順した。
曹操はその日のうちに許褚を都尉に任じ、宿直・護衛を任せることにした。許褚に従っていたものたちは、みな虎士に任じられた。

李通も汝南のあたりに独立勢力を築いていた。李通は許に赴いて曹操に降伏し、振威中郎将に任じられた。李通は汝南西部に駐屯するよう命じられた。

王忠は三輔から南下し、荊州で婁圭と戦い、これを打ち破ったのちに曹操に帰順した。王忠は中郎将に任じられた。

曹操は戦果を天子に報告し、建徳将軍に任命された。

曹操の献帝奉戴

楊奉韓暹らは、献帝を洛陽に帰還させることにした。
河内太守張楊はもともと洛陽帰還を推していたので、ふたたび楊奉・韓暹に協力するようになった。張楊は数千食の糧食を手配し、洛陽の宮殿を修繕した。
洛陽に献帝を連れ戻す準備が出来ると、張楊はやがて河内郡に戻っていった。

董昭はもともと張楊配下だったが、張楊の元を離れて献帝に仕えるようになっていたようだ。その董昭が曹操に通じて行動を起こした。
洛陽の中では、楊奉は兵数こそ少ないがもっとも精強な軍勢を率いていた。しかし楊奉は諸将の中で孤立気味だった。
董昭は楊奉に手紙を出し、曹操を味方につけるよう説得した。楊奉配下の徐晃も曹操に味方することを勧めた。
楊奉は董承・韓暹ら諸将を説得して、曹操を鎮東将軍に任じ、費亭侯に封じた。費亭侯は、曹操の亡父・曹嵩の爵位だった。
こうして董昭は、楊奉を通じて朝廷に曹操の影響力をもたらそうとした。

しかし楊奉は朝廷内での孤立を解消できず、洛陽を脱出することになった。楊奉は曹操の支配する領域を通過して東進し、梁国に駐屯した。

曹操は軍を率いて洛陽を目指した。
この時のことか、曹操軍が中牟郡に入ったところで、任峻が郡をあげて帰順してきた。任峻は一族や食客も率いて曹操軍に加わった。
曹操は任峻を騎都尉に任じ、従妹をめあわせた。

曹操が洛陽に入ると韓暹は逃走した。韓暹はふたたび楊奉と合流した。
董承は曹操を迎え入れて、協力体制を取った。

こうして、曹操は献帝を奉戴することとなった。
曹操は仮節・録尚書事を加えられた。さらに司隸校尉も名乗った。
このため、曹操は仮節・録尚書事・鎮東将軍・兗州牧・司隸校尉となった。

許への遷都(196年9月)

196年9月、曹操献帝を許に移した。
許への遷都は、董昭の献策によるものである。この時期、董昭の存在感が非常に大きい。

曹操は、梁国に駐屯する楊奉が反対するのではないかと心配した。
そこで董昭は一計を案じ、楊奉には「魯陽に遷都する」と偽りの報告をした。
魯陽は洛陽の南方にある。洛陽に比べて許に近いので、献帝への支援が簡単になると楊奉には説明した。

楊奉がこの説明を信じると、洛陽からの遷都を実施に移し、そのまま許に迎え入れた。
騙されたことに気が付いた楊奉は、潁川郡の定陵に進軍してきた。許への遷都を遮ろうとしたが間に合わなかった。
曹操は定陵を放置して梁国へ進軍し、楊奉の本拠地を攻め落とした。
楊奉と韓暹袁術を頼って落ち延びていった。楊奉配下の徐晃は曹操に降伏した。

曹操は大将軍・武平侯に任じられた。
袁紹を太尉に任命したが拒否されたので、大将軍は袁紹に譲った。曹操は改めて司空・行車騎将軍となった。

曹操は献帝を迎え入れ、同時に朝廷の百官と董承も許都に加わった。

劉備の加入

呂布陳宮は、曹操に敗れたのち徐州の劉備を頼っていた。

徐州では、劉備が揚州から侵攻してきた袁術軍を迎撃していた。
曹操は袁術と敵対していたので、劉備を鎮東将軍に任命した。

劉備の鎮東将軍任命は、許への遷都があった196年内の出来事だった。
9月の遷都後に曹操自身が鎮東将軍から大将軍へと移っているので、それよりもあとのことである。

しかしその後、劉備が袁術と向かい合っている隙に、徐州は呂布に乗っ取られた。劉備は徐州から逃れ、許の曹操に身を寄せた。
程昱は劉備を危険視し殺害するよう進言したが、曹操は人心を得る必要がある時期だとして、劉備を迎え入れることにした。
曹操は劉備を豫州刺史に任じた。

呂布との和議

曹操呂布に敗れた劉備を受け入れたが、その一方で呂布とは講和を結ぶことにした。

もともと献帝は、呂布に手紙を出して援軍を求めていた。安邑にいた頃のことである。献帝は呂布を平東将軍に任命したが、その印綬は山陽郡に留まり呂布の元には届かなかった。曹操が妨害したものと思われる。

曹操は献帝を奉戴すると呂布に連絡を取り、平東将軍の印綬を届けて正式に任命した。また呂布を左将軍に昇進させた。

当時、呂布は袁術と同盟を結ぼうとしていたが、陳珪陳登の説得(妨害)により実現はしていなかった。
袁術は李傕から左将軍に任じられていた。曹操が呂布を左将軍に任じたのは、袁術と同じ官位を与えて確執を生むためだったと思われる。

呂布自身は、徐州牧に任命されることを望んだが叶わなかった。

遷都に伴って加わった人員、異動

許への遷都がなると、荀彧は侍中・尚書令に任命された。
荀彧はこの後も曹操の重要な相談相手であり続けるが、曹操の属官を離れて朝廷の中枢に関わるようになった。侍中なので献帝の側に仕えた。

そこで曹操は、参謀となる人材を推挙するよう荀彧に求めた。荀彧は鍾繇荀攸郭嘉らを曹操に紹介した。
はじめに加わったのは鍾繇で、長安から献帝に仕えていた。鍾繇は御史中丞を経て、侍中・尚書僕射となった。
荀攸は汝南太守となった。曹操は、荀彧と鍾繇に荀攸を得た喜びを伝えた。

郭嘉戯志才の死去に伴う代役として推挙された。軍師祭酒が設置されるまでの官職は不明。
郭嘉は曹操陣営に加わってから11年後に死去してしまう。207年、烏丸遠征から帰還後に死去したことが分かっているので、196年に加入したと見ておおよそ間違いはない。

程昱は尚書となった。
尚書令荀彧、尚書僕射鍾繇、尚書程昱に符節令の董昭を加えた四人が、この時期曹操のブレーンという印象が強い。
曹操は録尚書事となって尚書を束ねる立場にあった。朝廷を迎え入れた当初は、尚書台が曹操直属の部署だったようだ。

楊奉の配下から加わった徐晃は、兵を与えられて河南尹の巻・原武を制圧するよう命じられた。徐晃はこの任務に成功して裨將軍に任じられた。

夏侯惇は建武将軍、曹洪は諫議大夫に昇進した。
曹仁は広陵太守となったが現地へは赴任せず、議郎として騎兵の指揮官を続けることになった。広陵郡は徐州南部にある。

于禁は校尉に昇進した。
楽進典韋も同じく校尉に昇進するが、楽進はもう少しあとになって昇進したようにも見え、また典韋は昇進した時期が分からない。ここでは于禁・楽進・典韋がともに昇進したものと見ておく。

史渙韓浩はながく中軍の指揮官を務め、領軍と護軍となる。二人がその地位に就いたのがいつなのか不明だが、他にきっかけも見当たらないため、曹操の司空就任を契機と見ておく

毛玠は司空東曹掾となって人事を司った。
丁斐は好んで賄賂を取るのでしばしば毛玠に告発されたが、そのたびに曹操には許された。曹操は丁斐の事を「鼠から家財を守る泥棒犬」と評した。
盗みを働くので少し損はするが、曹操の財産は必ず守ってくれるということらしい。

満寵は、曹操が大将軍となったときに西曹属となった。東曹掾とともに人事を司る役職である。曹操が司空に移ったあとも同様だっただろう。
満寵はまた許の県令も兼ねた。首都の県令なので、取り締まり対象には高官も多かった。曹洪の食客を法令違反で取り締まったほか、元太尉の楊彪も逮捕して尋問した。

この頃、司馬朗趙儼梁習らも司空府に招かれ、各地の県令に任命された。

劉岱は司空長史を務め、征伐に付き従った。
王必は主簿となった。

青州刺史の孔融は、袁譚に圧迫されて許に逃亡してきた。許に辿り着いた孔融は将作大匠に任じられた。
李整が青州刺史に任じられたのは孔融の後任としてということだろう。
袁紹とはっきり対立する人事なので、李整の青州刺史就任はもう少しあとのことなのかもしれない。

曹昂曹安民はこの翌年に戦死してしまうが、それ以外の事績が見えない。この頃には曹操の軍事に加わるようになっていただろう。

曹操配下一覧表(196年冬ごろ)

録尚書事・司空・行車騎将軍・兗州牧・司隸校尉 曹操  
鎮東将軍・豫州刺史 劉備 新加入
建武将軍・済陰太守 夏侯惇
諫議大夫 曹洪 前職:揚武中郎将
議郎・広陽太守 曹仁 前職:行厲鋒校尉
青州刺史 李整
泰山太守 薛悌
陳留太守 夏侯淵
汝南太守 荀攸 新加入
領軍 史渙 前職:中軍校尉(時期不詳)
護軍 韓浩
騎都尉 任峻 新加入(曹操軍が中牟に入ったとき)
裨将軍 徐晃 新加入
平虜校尉 于禁 前職:陥陣都尉
討寇校尉 楽進 前職:陥陣都尉
校尉 典韋 前職:都尉
振威中郎将 李通 新加入
中郎将 王忠 新加入
都尉 許褚 新加入
黄門侍郎 曹純
羽林監 棗祗 前職:県令(時期不詳)
司空長史 劉岱 新加入(時期不詳)
司空主簿 王必
司空東曹掾 毛玠
司空西曹属・許令 満寵
県令・県長 呂虔、司馬朗、趙儼、梁習
その他の配下 丁斐、朱霊、郭嘉、曹昂、曹安民

侍中・尚書令 荀彧 前職:奮武将軍司馬
侍中・尚書僕射 鍾繇 新加入
尚書 程昱 前職:東平国相
符節令 董昭 新加入

朝廷の高官

太尉?       楊彪?
衛将軍       董承
輔国将軍      伏完
将作大匠      孔融
謁者僕射      裴茂

曹操は別に勢力を築いている群雄

大将軍・冀州牧    袁紹
大司馬        張楊
左将軍        呂布
(左将軍)      袁術
鎮南将軍・荊州牧   劉表
益州牧        劉章
武威将軍・遼東太守  公孫度
鎮民中郎将・漢寧太守 張魯
建忠将軍       張繍
李傕・郭汜


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