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【三国志正史】02曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 190年反董卓連合の結成~


反董卓連合の結成(190年春)

190年正月、反董卓連合が結成された。
この年から193年までが初平年間。

連合の結成を呼び掛けたのは、東郡太守の橋瑁。三公による決起の檄文を偽造し、諸侯に挙兵を呼び掛けた。
連合に応じた諸侯は、袁紹を盟主に推したてた。袁紹は車騎将軍を名乗った。

連合の呼びかけ人である東郡太守橋瑁は、兗州の陳留郡酸棗に駐屯した。
酸棗には、陳留太守張邈、山陽太守袁遺、兗州刺史劉岱、行奮武将軍曹操、行破虜将軍鮑信が集まった。
鮑信は、本紀ではこの時点で既に済北国相だが、ここでは行破虜将軍だったと見る。

冀州では、渤海太守袁紹と冀州牧韓馥が連盟に加わった。
袁紹は河内太守王匡とともに河内に駐屯した。張楊、於夫羅らが袁紹の軍勢に加わった。
韓馥は河内に兵を派遣したものの、自身は鄴にとどまっていたようだ。

幽州には太尉劉虞と中郎将公孫瓚がいて対立関係にあった。皇族の劉虞は反董卓連合に加わらなかったが、公孫瓚は兗州刺史劉岱のもとに援軍を送った。
董卓は公孫瓚を奮武将軍に任命した。行奮武将軍を名乗った曹操に対抗させる意図があったのかもしれない。
董卓は劉虞にも大司馬の位を贈ったが、劉虞の実質的な権限は幽州牧だったようだ。

袁術は南陽郡で長沙太守孫堅と合流し、そのまま南陽に駐屯した。
袁術が洛陽から南陽郡に逃れてきたところ、ちょうど孫堅が南陽太守を殺害したところだったので、南陽を支配下に置いたのだという。
孫堅は偽造された檄文に従って荊州刺史を殺害したのち、董卓討伐のために北上してきた。そこで南陽郡を通過しようとした際、南陽太守張咨が兵糧提供や道路整備などの協力を渋ったために殺害してしまった。

南陽で袁術と合流した孫堅は、以後袁術に属するようになった。
袁術は、孫堅を豫州刺史・破虜将軍に任命した。

反董卓連合と董卓の戦い

袁氏の処刑と報復

袁紹を盟主として反董卓連合が結成されると、董卓は洛陽に残っていた袁氏一族を処刑した。

その一方、董卓はまず使者を出して連合を解散させようとした。
使者は複数回送られたが、その使者の中には胡母斑もいた。胡母斑は王匡の妹婿だったので、王匡が駐屯する河内に送り込まれた。
河内には連合盟主の袁紹もいた。袁紹は、袁氏一族処刑の報復として胡母斑を殺害するよう王匡に命じた。
(但し、袁紹伝では順序が逆。先に袁紹が使者を殺害し、そのため武力衝突は不可避と悟った董卓によって袁氏一族が処刑された)

王匡による北からの攻撃

王匡は河内郡内の河陽津に進み、洛陽を北から攻撃しようと図った。黄河さえ渡れば洛陽に着く至近距離である。
董卓軍は渡河して王匡を迎撃し、伏兵を用いて王匡軍を全滅状態に追い込んだ。
兵を失った王匡は前線を離れ、泰山郡に戻って再度募兵することにした。

二月になり、董卓は洛陽から長安への遷都を行った。
董卓自身は兵を率いて洛陽に残り、連合に相対した。

曹操による東からの攻撃

酸棗からは曹操鮑信張邈の軍勢が西進を開始した。張邈は、衛茲に兵を預けて曹操に同行させた。
曹操軍のなかで参加が明らかなのは曹洪だけだが、挙兵に加わったほぼ全員が参加したと見て良いだろう。

曹操は成皋の制圧を目指した。
何進が殺害されたとき、橋瑁が駐屯していた土地である。東から洛陽に対峙する重要拠点と見られる。

しかし、その手前の栄陽で董卓軍の迎撃を受けた(汴水の戦い)。
董卓軍の指揮官は中郎将徐栄で、曹操軍は敗北を喫した。
鮑信の弟と衛茲が戦死、曹操自身も流れ矢に当たり、馬を失った。壊滅的な被害である。
曹洪が曹操に馬を譲り、また船を探しだしてどうにか戦場を逃れることが出来た。戦場を脱した曹操・曹洪らは、故郷の沛国譙県まで逃げた。

孫堅による南からの攻撃

孫堅は魯陽から梁へと北進して洛陽に圧力をかけたが、董卓軍が迎撃に出てきたため敗れた。孫堅はいつも赤い頭巾をかぶっていたので、側近の祖茂が頭巾をかぶって囮となり、孫堅を逃がした。

孫堅はふたたび戦いを挑み、陽人の戦いで華雄を斬った。

曹操、揚州で募兵し河内に合流

兵を失った曹操は、夏侯惇らと揚州に向い募兵を行うこととした。曹洪が家兵一千を率いて募兵の中心となった。
揚州刺史陳温、丹陽太守周昕らは曹洪と親しかったため募兵に協力的で、曹操は二人から与えられる形で、兵四千を得た。

しかし豫州龍亢県まで戻ってきたところで兵士たちが反乱を起こした。
曹操は自ら剣を振るって反乱を鎮圧したが、反乱に与していなかったのは五百人だけだったという。
曹操らは沛国を進みながらふたたび兵を集め、譙県の辺りに戻ってくるまでには兵一千を再び得た。
この頃には曹操は故郷の沛国を自由に動き回れるようになっていることと、とにかく曹洪の活躍が目立つことが注目される。

募兵を終えた曹操は酸棗ではなく河内に向かい、袁紹と合流した。

ここまで、正面から董卓軍と戦ったのは、孫堅を除くと王匡曹操鮑信衛茲。いずれも、自ら募兵して集めた軍で、自身が陣頭に立って指揮した。
兵の組織化に問題があったのか、いずれも董卓軍に大敗を喫して壊滅状態となった。

董卓以前から長沙太守だった孫堅は、やや例外的な存在である。
一度は董卓軍に敗れたものの、立直りが早く、陽人で雪辱を果たしている。

韓馥劉岱袁紹張邈ら、新任の州牧・州刺史、郡太守らが率いた軍は、駐屯地から先へ進軍しなかった。
一般に、彼らが戦わなかったのは、自分の兵を温存するため、諸侯が互いに牽制していたためと言われるが、曹操たちの軍勢ほど自由に動かせなかった可能性もある。
董卓からもらった印綬の力で集めた兵では、董卓を攻撃するのは難しかったのかもしれない。

連盟の発起人であった橋瑁が動かなかった理由を推し量るのは難しい。

韓馥と袁紹は、献帝を擁する董卓に大義面でも対抗するため、新たな皇帝の擁立を目論んだ。幽州の大司馬劉虞を候補に選んだが、劉虞が固辞したため新帝の擁立は進まなかった。曹操は劉虞の擁立に反対した。

連合の解散

董卓が洛陽を放棄し、西の函谷関へ撤退したあたりから、反董卓連合は内部分裂を始める。

曹操王匡を攻撃して、内部分裂の当事者となった。王匡は董卓に敗れたのち、泰山に戻ってふたたび兵を集めていた。
募兵を終えた王匡は兗州の張邈と合流しようとしたが、胡母斑の遺族が曹操に敵討ちを訴えかけ、これに応じた曹操が王匡を殺害した。
多くの場合、軍の指揮官が殺害されるとその兵は殺害した者が吸収する。王匡が集めてきた兵は曹操の指揮下に入っただろうか。

冀州では公孫瓚が幽州からに侵入し、韓馥を破った。
袁紹は、冀州を譲るよう韓馥を脅迫した。袁紹と韓馥が共に劉虞擁立を図ったのは191年(初平2年)春のこと。秋には袁紹は冀州乗っ取りを実行に移す。韓馥は冀州牧の座を袁紹に明け渡した。

韓馥は豫州潁川の出身であり、故郷に兵を派遣して、同郷の人材を保護・招聘しようとしていた。
その中に荀彧らがいて、一族をあげて冀州に向かった。
荀彧らが冀州に辿り着いたとき、冀州牧はすでに袁紹に代わっていた。
荀彧は袁紹には仕えなかったが、弟・荀諶は袁紹に仕えた。

荀諶は、袁紹の使者として韓馥に冀州を譲るよう説得したという事績が残り、冀州入りした時期に混乱が見られる。
英雄記では、韓馥の説得メンバーには入っていない。

韓馥は冀州から逃れて張邈の元に身を寄せた。
のちに袁紹の使者が張邈の元を訪れた際、処刑されるものと思って自殺した。

王匡、韓馥ともに命を落としてしまったが、窮地に陥った人は張邈を頼りがちである。洛陽から逃れてきた曹操も、張邈の庇護下で挙兵の準備を行ったし、のちには呂布も張邈を頼る。張邈の人望だろうか。

張邈はもともと袁紹と親友の間柄だったが、袁紹に対して真っ向から正論で諫言したので、袁紹は次第にうとましくなり、曹操に対して張邈殺害を命じた。
曹操は袁紹を説得して殺害をやめさせたので、この時期の曹操と張邈は極めて良好な関係となった。

兗州刺史劉岱は東郡太守の橋瑁を殺害した。後任の東郡太守には王肱が任命された。

また、袁紹袁術も対立を始めた。
これ以降、袁紹派と袁術派の対立が、諸侯の動向の大きな軸になっていく。

曹操の東郡太守就任(191年冬)

191年(初平2年)、黒山賊が冀州魏郡に侵入した。秋に袁紹が冀州を得た後のことなので、冬の出来事と思われる。
于毒白繞眭固らが黒山賊を率いていた。
黒山賊は魏郡を攻略し、南下して兗州東郡まで進んだ。東郡太守王肱は黒山賊の攻撃を防ぎきれず、曹操が援軍として送られることになった。
曹操は濮陽で白繞と戦って勝利した。

袁紹は曹操を東郡太守に任じ、東武陽に政庁を置かせた。
曹操は東郡太守・行奮武将軍となった。
ちょうどこの頃、荀彧が袁紹の元を去って曹操の元にやってきた。荀彧は奮武将軍司馬に任じられた。以後、曹操の中心的な参謀となる。

それまで、奮武将軍司馬を務めていたのは夏侯惇だった。
夏侯惇は折衝校尉に任命されて、白馬に駐屯することになった。
荀彧は夏侯惇の後任として奮武将軍司馬になった。

東武陽は黄河北岸、白馬は黄河南岸・濮陽のすぐ西にある。
曹操は魏郡とのアクセスが良い東武陽に本拠地を置き、夏侯惇は濮陽奪回に備えていたということだろうか。
(夏侯惇が曹操から分かれて白馬に駐屯するようになるのは、この少しあと、曹操の兗州刺史就任時と見ることも出来る。)

東郡太守時代の曹操配下

東郡の人・陳宮も配下に加わった。
参謀的なイメージがあるが、曹操配下時代は武将だったらしい。
陳宮は東武陽の人なので、曹操が東武陽に政庁を置いたときに現地で加わったのだろう。

陳宮と同じく、初期の曹操配下として名の残る王朗も、この頃から曹操に仕えていたのかもしれない。のちに魏の重臣になる王朗とは別人。

楽進が吏から武将に転身するのもこの頃か。
ある時、曹操は楽進を地元の衛国に帰らせ、兵を募らせた。楽進は一千もの兵を集めて帰還し、仮司馬に任じられた。
衛国は東郡に属し、黄河北岸にある。曹操が東武陽に拠点を置いていた時代の活動範囲であるように思われる。確証はない。

曹操は、自身が東郡太守に就任したタイミングで、鮑信を済北国相に推薦した。済北国は東郡の東に隣接している。
鮑信は曹操のもとを離れ、任地に向かったものと思われる。ただし地理的にも近く、相変わらず曹操からやや格下の地位なので、曹操配下と言って良い立ち位置だった可能性はある。

曹洪は、反董卓連合(190)から対呂布戦(195)の活躍を認められ、鷹揚校尉を経て揚武中郎将となる。どちらも詳しい時期が分からないので、夏侯惇と合わせてこの頃に校尉に任命されたものと見ておく。

荀彧は、計略に長けた人物として戯志才を推薦した。
その時期がいつごろか分からないが、戯志才は郭嘉が加入する196年頃までに死去してしまう。
荀彧自身は、曹操が東郡太守だった時期に加わったことが明らかなので、戯志才も、荀彧と共に加入したものと見ておく。

曹仁は加わった時期が良く分からないが、曹操が挙兵した頃には、千人あまりを集めて、淮水・泗水の辺りを暴れまわっていた。
その後に曹操の元へやってくるのだが、この時点からの約1年後、袁術と戦う時には既に主力の一角となっている。また、それまでに別部司馬を経て、行厲鋒校尉となる。
となると、曹仁が加わったのもこの頃のことだろう。

夏侯淵は、曹操の挙兵に馳せ参じて別部司馬、騎都尉。
憶測が過ぎるが、曹仁が別部司馬に任じられたときに騎都尉に移ったと見れば、この頃には既に騎都尉であっただろう。

曹操配下一覧表(191年12月ごろ)

東郡太守・行奮武将軍 曹操
 司馬 荀彧 新加入(前任:夏侯惇)
 別部司馬 曹仁 新加入(前任:夏侯淵)
 仮司馬 楽進 前職:帳下吏
 その他の配下 王必、丁斐、戯志才、陳宮、王朗

折衝校尉 夏侯惇 前職:奮武司馬
騎都尉 夏侯淵 前職:奮武別部司馬
鷹揚校尉 曹洪 前職:蘄春県長?
中軍校尉 史渙
黄門侍郎 曹純

(済北国相・行破虜将軍 鮑信)

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