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【三国志正史】04曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 徐州侵攻~張邈・呂布の反乱



陶謙の兗州侵攻(193年)

192年頃、陶謙公孫瓚の求めに応じて兗州に出兵した(前述)。この時のことは詳しく分からないが、発干まで進出した陶謙軍は袁紹曹操の軍に敗れた。

下邳で闕宣が挙兵し、天子を自称して数千人の軍勢を集めると、陶謙は闕宣と同盟を結んだ。
翌193年、陶謙は闕宣の軍勢を加えて、再び兗州に侵攻した。曹操軍が袁術との戦いで手薄になったところを狙ったか、あるいは袁術を支援しようとしたのかもしれない。
陶謙軍は泰山郡に攻め入って費・華を奪ったのち、任城国を攻略した。費・華・任城国は陶謙方がそのまま占領したようだ。
泰山太守は応邵が務めていたが、対応できなかったようだ。

陶謙は闕宣と次第に対立するようになり、闕宣を殺害してその軍勢を吸収した。

曹操の第一次徐州侵攻(193-194)

193年秋、曹操は反撃に出た。
これまでは兗州に攻め込んできた陶謙軍との戦いだったが、逆に曹操軍が徐州へと侵攻した。
侵攻を支援するため、袁紹の元から援軍が来た。朱霊をはじめ複数の武将が曹操の軍勢に加わった。
陶謙の方には援軍として劉備が加わった。劉備はもともと私兵一千と烏丸騎兵を率いていたが、陶謙から四千の兵を与えられて小沛に駐屯した。

曹仁が先鋒となって進み、途中で本隊から分かれて陶謙の将・呂由を破った。
曹操と曹仁は彭城で合流し、陶謙軍との大会戦に勝利した。

于禁は広威を攻め落とす功績を挙げた。
広威は小沛のすぐ東隣にあるので、記録にはないがこの辺りでの主な敵は劉備だったかもしれない。

曹操軍は十余城を攻め落とした。陶謙は籠城策を取って固守し、翌194年春、曹操軍は兵糧が尽きたため撤退した。

曹嵩殺害事件

第一次徐州侵攻後、曹操の父・曹嵩が陶謙軍に襲われて殺害される事件が起きた。

事件が起きた場所は、武帝紀本伝は琅邪郡、『世語』は泰山郡華県、『呉書』では華と費の間とされる。いずれにしても同じ辺りで、陶謙の勢力下となっていた。

曹嵩は、曹操の挙兵の頃に故郷を離れて琅邪郡に避難していた。曹嵩は費亭侯に封じられていたので、自分の封地付近に逃れていたということかもしれない。

泰山太守の応邵は、曹嵩殺害の責任を問われることを恐れて袁紹の元へ亡命した。

曹操の第二次徐州侵攻(194年夏)

曹操は春に徐州から帰還したばかりだったが、夏には再び陶謙に対する軍事行動を起こした。
曹嵩の復讐のためとされるが、泰山郡の費・華を取り戻す目的もあっただろう。

荀彧夏侯惇陳宮程昱薛悌らが留守を任された。荀彧が曹操の代理人を務め、程昱・薛悌ら兗州従事が補佐に当たった。
東郡太守の夏侯惇は濮陽におり、陳宮も兵を預けられて東郡にいた。

遠征軍には、曹洪曹仁于禁李乾が参加した記録が残る。夏侯淵楽進楼異らも参加したと思われる。
楼異は記録が少ないが、この時期曹操の司馬を務めていた。于禁や楽進のような部隊長としての司馬だった可能性もあるし、荀彧が留守に残ったので、荀彧の代わりに副官としての司馬を務めていたのかもしれない。

曹操・曹仁らの遠征軍は、まず泰山郡の費・華を攻撃し、そのまま徐州琅邪国に侵入して開陽を攻撃した。陶謙はこれらの県を救援するため軍勢を送ったが、曹仁が騎兵を率いて撃ち破った。
曹仁伝には即墨(青州北海国)も攻撃したとあるが、あまりにも遠すぎるので、開陽の南にある即丘のことと思われる。

開陽には臧覇らが駐屯していたのではないかと思われるが、詳しいことは分からない。駐屯していれば臧覇と曹操軍の間で戦闘になったはずだが、あるいは臧覇が開陽を乗っ取るのは、この後のことなのだろうか。

開陽攻撃後、曹操軍は南下し、郯付近で曹豹劉備を破った。
曹操軍は襄賁も攻略し、合わせて五城を落とした。費・華・開陽・即丘・襄賁を数えれば五城になる。
曹操軍が通過した地域では多数の人が虐殺されたという。

張邈の反乱(194年)

曹操が徐州へ侵攻している間に、張邈陳宮呂布を引き入れて反乱を起こした。
当時、呂布は袁紹の元を離れ、河内の張楊に身を寄せていた。

最初、陳宮と反乱を計画したのは、張邈ではなく弟の張超だったようだ。
従事中郎の許汜王櫂もはかりごとに加わっていた。
張超と陳宮らは張邈を説得して仲間に引き入れた。

陳宮は曹操から兵を預かっていたので、張邈はその兵を率いて呂布を迎えに行き、兗州牧として推したてた。

陳宮たちは荀彧程昱夏侯惇らに情報を漏らさず事を進め、兗州に属するほぼ全ての郡県が一斉に反乱に加わった。
反乱に加わらなかったのは、荀彧・程昱が滞在する鄄城、棗祗が県令を務める東阿、靳允が県令を務める范、夏侯惇が駐屯していた濮陽だけだった。

張邈は、鄄城に使者を遣わして「援軍として呂布が加わったから兵糧を提供してほしい」と伝えた。
荀彧は張邈の謀反をさとり、城の防備を固めるとともに、濮陽の夏侯惇を呼び寄せることにした。
鄄城には曹操の家族がおり、この時点では曹操の本拠となっていたようだ。

夏侯惇は濮陽から鄄城に向かう途中で呂布の本隊と出くわして交戦した。
呂布は濮陽の占拠を優先して戦場から撤退し、別将を派遣して夏侯惇を追わせた。
呂布から派遣された将は、夏侯惇を捕らえて人質に取った。
主将を失って夏侯惇軍は混乱したが、韓浩が指揮を取り、夏侯惇を救い出した。

夏侯惇は鄄城に到着すると、城内で反乱に加担する者を処刑し、鄄城は落ち着きを取り戻した。

荀彧・程昱らは、降伏した敵兵から陳宮らの作戦情報を得た。
その内容は、陳宮自身が兵を率いて東阿を攻撃し、氾嶷が范を攻撃するというものだった。
氾嶷は陳宮から一軍を与えられた部将だが、出自が分からない。陳宮の部下だったのかもしれない。

程昱は、東阿への攻撃を防ぐため港を破壊して、陳宮の渡河を妨害した。

荀彧は程昱を東阿・范を慰撫させるために送り出した。籠城戦に耐えるため、各城の結束を強めようと図った。

范県令の靳允は家族を人質に取られていたが、程昱が改めて説得したため、反乱への加担を思いとどまった。
その時すでに氾嶷は范まで迫っていた。靳允は兵を隠して氾嶷と会見し、その席で氾嶷を殺害した。靳允は兵を統率して城の防備を固めた。

続いて程昱が東阿に向かうと、東阿県令の棗祗は、既に人民・兵を統率して防備を固めていた。
兗州従事の薛悌が程昱に協力し、曹操が戻るまで三城を守り抜いた。
呂布も攻撃に加わったが城を落とせず、濮陽に戻った。

濮陽の戦い(194年)

曹操が反乱の情報を得たのは、襄賁に駐屯していた時だったろう。
曹操ら遠征軍が最も恐れたのは、帰路を塞がれることだった。
呂布軍が東平国を拠点として、亢父・泰山の街道を切って曹操軍を迎撃する」というのが、曹操の想定した最悪のプランだった。

曹洪が本隊に先駆けて東平に急行すると、呂布と張邈は濮陽を固めることに専念しており、東平の守りは薄かった。
曹洪は東平を占拠し、本隊の帰路を確保した。曹洪はさらに、靳允が守る范まで先行し、本隊の兵糧を確保して帰還を助けた。

曹操は兗州に帰還すると、すぐに濮陽の呂布・張邈を攻撃した。夏侯惇が軍勢に加わった。
この戦いの中で楽進は一番槍の功績を挙げ、于禁は別軍を率いて呂布軍の二陣営を打ち破った。典韋は決死隊として敵陣を陥れた。

各将の活躍はあったが、濮陽攻撃は順調には進まなかった。
呂布は兵を繰り出して迎撃し、幾度も曹操は敗れた。曹操自身が落馬して火傷することもあった。司馬の楼異が曹操を助け起こして馬に乗せ、どうにか救うことが出来た。
夏侯惇も一連の戦いの中で負傷し、左目を失った。

呂布と曹操の戦いは百余日に及んだが決着がつかなかった。
濮陽だけではなく東平国での戦いもあったらしく、于禁は別軍として須昌に出陣し、呂布の武将・高雅を破っている。
やがてイナゴが発生したために大飢饉となり、呂布軍は濮陽に、曹操軍は鄄城にそれぞれ引きあげた。

曹操は鄄城まで帰りつくと、程昱の功績を称えて東平国相に任命し范に駐屯させた。

薛悌は泰山太守に任命された。この時、薛悌はまだ18歳だった。
薛悌がこの年齢で太守に任命されたのは、もちろん本人が優秀で功績も大きかったためではあろうが、それ以上に幹部人材が軒並み反乱してしまったという事情も大きいだろう。

夏侯惇が陳留太守に任命されたのもこの時か。
反乱によって空白になった太守・国相の人事を行ったのだろう。

袁紹は曹操の元へ使者を出し、家族を人質に送って配下に加わるよう提案してきた。新たな援軍を送る条件だったものと思われる。
曹操は兵糧も尽きており、この話を受け入れようとしたが、程昱が強く反対して曹操を説得したため自立を維持した。

陶謙討伐に当たって袁紹から送られていた援軍は、袁紹の元に帰還した。朱霊だけは兵とともに曹操の元に残った。

兗州奪還の戦い(195年)

曹操李乾を故郷の済陰郡乗氏に向かわせ、周辺の諸県を慰撫させた。
呂布の別駕従事薛蘭と治中従事李封が現れ、李乾も反乱に加わるよう誘った。李乾は応じず、殺害されてしまった。
李乾の軍勢は、李整が引き継いだ。李整は諸将と共に薛蘭・李封を攻撃して撃破した。

やがて呂布が乗氏に到着したが、県人の李進に撃退された。李整の一族と思われる。呂布は山陽郡に移動した。
食糧確保の問題があったか、呂布は濮陽を放棄したようだ。

195年(興平二年)春、曹操は改めて軍を出し、済陰郡の定陶を攻撃した。
済陰太守の呉資は呂布に与しており、籠城して曹操軍を防いだ。
救援に現れた呂布を破ったが、陥落させることは出来なかった。

夏になって、山陽郡の鉅野で薛蘭・李封を攻撃した。
呂布が救援に現れたが、曹操軍が勝利を収め薛蘭・李封は斬られた。
その後、呂布は陳宮と共に山陽郡から再び出陣してきたが、曹操は伏兵を用いて大破した。

曹操は再び定陶を攻撃して、陥落させた。

済陰郡を失った呂布は張邈陳宮とともに兗州を脱出し、東方の劉備を頼った。陶謙は曹操が徐州を去った直後に病死し、劉備があとを継いでいた。

曹操は軍を分け、兗州各地の郡県を平定していった。
曹洪曹仁、李整、于禁らの功績が記録されている。特に曹洪は、東阿を根拠地として十県以上を攻撃し、すべて攻め落とした。

兗州平定(195年秋~冬)

この頃、王必を使者として長安の献帝のもとへ送った。

当時、兗州から長安へ行くためには、河内の張楊領を通過する必要があった。張楊は使者の通行を許可するつもりはなかったが、配下に加わっていた董昭の勧めで考えを改めた。

董昭はもともと袁紹の下にいたが、弟の董訪張邈の幕下にいた。張邈が反乱を起こすと、董昭は弟に連座する形で袁紹から追放され、張楊を頼っていた。
董昭から見ると曹操は弟の敵であるはずだが、既に董訪は張邈の元を離れていたか、あるいは逆に董訪の助命につなげるためだったか。董訪の事績は詳しく残らないが、最終的には曹操に仕えている。

長安で政権を握っていた李傕は、袁術公孫瓚らと結んでおり、はじめ王必を捕らえようとした。鍾繇が取りなしたので、王必は使者としての役割を果たすことが出来た。
王必は献帝に曹操の忠義を伝え、李傕と和睦を結んだ。
曹操は、献帝から正式に兗州牧と認められた。

兗州では、曹操の軍勢が各地を平定していく中、張超が籠る雍丘だけが残った。
秋八月、曹操軍は雍丘を包囲した。
徐州に逃れていた張邈は、雍丘救援を求めて袁術の元へ向かったが、その途中で部下の裏切りにあって命を落とした。
冬十二月、四カ月に及ぶ包囲戦の末に雍丘は陥落し、張超は斬られた。この戦いで、楽進はふたたび一番槍の功績を挙げた。

東郡太守の臧洪は、袁紹に対して張超救援の出陣許可を求めていた。臧洪はもともと張超の部下だったが、この時は袁紹配下となっていた。
袁紹は張超救援を許可しなかった。
曹操は袁紹の配下に入ることは断ったが、袁紹との友好関係は維持できていたようである。

臧洪は袁紹に反旗を翻し、東武陽に籠城した。袁紹は数カ月に渡って包囲し、最終的には攻め落とした。東郡での出来事だが、曹操はこの戦いに関与しなかったようだ。
東郡は、黄河北岸を袁紹、南岸を曹操がそれぞれ統治していたように見える。

兗州平定時の曹操配下

楽進于禁は、それぞれ仮司馬・軍司馬から陥陣都尉となった。
典韋も都尉となったが、称号は残っていない。典韋も陥陣都尉だったのかもしれない。
都尉はもともと郡の軍事長官を指すが、曹操の陣営では校尉のワンランク下に位置する部隊指揮官に見える。

朱霊は徐州征伐の際に袁紹から援軍として送られ、そのまま曹操の元に留まった。この後、曹操軍の主力として多くの戦いに加わるが、最終的に後将軍まで昇進したこと以外は途中の官職が分からない。
曹操の命令で、朱霊は一度軍権を奪われたことがある。朱霊は軍営を取り上げられ、于禁配下の一部将となった。
この一件があったのは、朱霊が曹操陣営に残ったときか、官渡の戦いのときかどちらかだと思われる。前者の場合、朱霊は好きで曹操配下になったわけではなく、無理やり于禁配下に組み入れられたということになる。

司馬の楼異は、濮陽攻撃の際に落馬した曹操を救った。重要な役割を果たしたが、事績が残るのはその一件のみである。

夏侯惇が東郡太守から陳留太守に移って以後、しばらく曹操配下には東郡太守が見られない。次に名が現れる東郡太守は、袁紹軍と戦う劉延である。
東郡のうち、黄河南岸を切り離して離狐太守を置いた説をネット上で見たことがあるが、状況的には納得感がある。黄河北岸には袁紹が東郡太守を置いただろう。
離狐太守にはのちに李典が就任する。想像を膨らませるなら、この時点での離狐太守は李整ということになるだろうか。李整は最終的に青州刺史となるが、それまでの官職は分からない。
ちなみに離狐自体は済陰郡に属する。済陰郡は濮水が横切っており、その北岸である。

夏侯惇は、陳留太守に任命されたのち、済陰太守に移った。
後任の陳留太守には夏侯淵が就いた。
夏侯淵は官渡の戦いまで具体的な事績が残らないが、着実に昇進を重ねている。

夏侯惇が陳留太守だったとき、衛茲の子・衛臻を郡吏として登用した。衛臻は陳留郡の人なので、地元雇用された。
あるとき夏侯惇が酒宴を開き、衛臻の妻も出席するよう求めた。当時のしきたりに反することだったので衛臻は断ったが、夏侯惇は怒って衛臻を逮捕してしまった。のちに夏侯惇は衛臻を釈放した。
夏侯惇は保守的な常識人の印象があるが、この一件を見る限り、どうやらそうでもなかったようだ。この少しのち、呂布劉備を歓待する場に妻を連れ出して劉備に嫌われている。

曹洪は、呂布との戦いでも大きな武功を上げた。本軍に先行して帰路・兵糧を確保し、その後は兗州各所の平定を指揮した。
これまでの功績で揚武中郎将に昇進している。

曹仁は前年の袁術との戦いから活躍を見せ始め、徐州侵攻では先陣を任されるようになった。曹仁は騎兵を率いて、曹操軍の主力となった。

曹操配下一覧表(195年冬ごろ)

行奮武将軍・兗州牧 曹操
 司馬 荀彧、楼異  
 その他の配下 王必、丁斐、戯志才、韓浩、李整、朱霊
 治中従事     毛玠
 従事       呂虔、満寵
折衝校尉・済陰太守 夏侯惇 前職:陳留太守
東平国相 程昱 前職:兗州従事
泰山太守 薛悌 前職:兗州従事(前任:応邵)
陳留太守 夏侯淵 前職:騎都尉(時期不詳)
揚武中郎将 曹洪 前職:鷹揚校尉(時期不詳)
行厲鋒校尉 曹仁
中軍校尉 史渙
黄門侍郎 曹純
陥陣都尉 于禁 前職:軍司馬
陥陣都尉 楽進 前職:仮司馬
都尉 典韋 (前職:折衝校尉司馬)
陳留郡吏 衛臻
県令 棗祗、靳允

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