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【三国志正史】06曹操とその配下たちの記録を時系列順に整理する 197年張繍との戦い~198年呂布討伐


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張繍の降伏と裏切り(197年)

董卓死後の勢力を引きついだ一人に張済がいる。
張済は弘農に駐屯していたが、196年に穣を攻撃したさいに戦死した。
どうやら婁圭に敗れたようだ。

張済の勢力は張繍が引き継ぎ、宛に駐屯した。
張繍は賈詡を配下に迎え入れ、その進言に従って、劉表と同盟を結んだ。

その翌年、197年(建安二年)正月、曹操は宛に進軍した。
張繍は降伏した。

婁圭も曹操に帰順したようだ。
婁圭はこの後の官職が残らないが、曹操のブレーン集団に加わった。以後、重要な参謀として活躍を続けることになる。

群雄と呼べる規模の勢力が曹操に帰順したのは、張繍が初めてである。
これまでに兵や一族を率いて帰順した者には任峻李通王忠許褚らがいる。
曹操は、任峻を騎都尉、李通と王忠は中郎将、許褚は都尉に任命した。
張繍は、張済に仕えていたころから建武将軍だった。張繍が許に入京すれば、鎮東将軍劉備と並ぶ重鎮になったものと思われる。

しかし張繍は、曹操が宛に駐屯している間に反逆した。
曹操は張繍から人質を取っていなかった。
事の発端は張済の未亡人を曹操が側室に加えたことだったとされる。張繍が反逆を実行するまでの推移には諸説あるのでここでは省く。

曹操は張繍に大敗して曹昂曹安民典韋の三人を失った。
曹昂は二十歳で孝廉に推されていたので、この時二十歳以上だったことは分かるが、それ以上の情報はない。
曹丕も巻き込まれた。曹丕はまだ十歳だったが、馬に乗って逃れた。

曹操は自らも負傷しながら敗走し、舞陰まで逃れた。
軍は混乱し、青州兵は味方に対して略奪を働いた。于禁がこれを見つけ、青州兵を罰した。于禁は張繍軍の追撃を受けて敗走しながらも隊列を整え、舞陰まで戻ると塹壕を掘って防備を固めた。

張繍はふたたび劉表と結び、今度は穣に駐屯した。
これからしばらく曹操軍は張繍・劉表の連合軍と戦争状態が続く。
曹操は、張繍との戦いを一時曹洪に任せることにした。

李傕・郭汜討伐

この頃、西方の長安では李傕の勢力が衰えを見せていた。
朝廷から謁者僕射裴茂が関西に派遣され、段煨張横梁興ら関中諸将を指揮下に入れた。
裴茂・段煨・張横・梁興は李傕と郭汜を攻撃し、これを滅ぼした。

李傕らを滅ぼしたのち、裴茂は献帝の元に戻って引き続き皇帝の側近を務めた。李傕討伐の大功を挙げた割には知名度がない。

段煨は入朝して大鴻臚に任じられた。
張横・梁興は関中に残り、独立勢力を維持し続けた。

袁術の皇帝僭称・陳国再侵攻

この前年・196年に曹操献帝を推戴したため、曹操と敵対関係にあった袁術は朝廷と講和する可能性を失っていた。

はじめ曹洪が献帝を迎え入れに行った時、董承は袁術に援軍を求めた。実際に袁術軍は董承と合流し、曹洪を撃退している。その時点では、袁術は献帝・董承を助けるつもりだったようだ。しかしその年のうちに、献帝は曹操に保護され、董承も曹操と手を結んだ。

袁術は献帝に見切りをつけ、後漢王朝を離脱して自ら皇帝に就くことにした。
197年正月、袁術は九江郡の寿春を都とし、国号を仲として皇帝に即位した。

袁術は呂布に使者を送って知らせたが、呂布は袁術には従わず、そのまま曹操に通報した。袁術は怒り、呂布との戦争を始めた。

この時期の呂布は、袁術とは講和と敵対を繰り返しつつ、基本的には曹操方である。
呂布は、陳登を許に派遣して正式な徐州牧任官を求めたが、曹操は許さなかった。ただし陳登は広陵太守に任命されている。

以前、曹操に敗れた楊奉韓暹は袁術の元にいた。それぞれ自分の軍を率いていたようで、徐州を攻める袁術軍に加わったが、陳珪・陳登の策により呂布方に寝返った。楊奉・韓暹の裏切りにより、袁術軍は大敗した。

また南方では孫策が勢力を広げ、袁術から独立してしまった。

窮地に陥った袁術は、兵糧を得るため攻撃目標を陳国に変更した。
197年秋、袁術は陳国に侵入した。
陳国には陳王劉寵と陳国相駱俊がいた。袁術は駱俊らに兵糧の供出を求めたが断られたため、二人を殺害した。

曹操は、張繍との戦いを曹洪に任せ、自ら陳国の救援に向かった。
一方の袁術は、陳国に橋蕤梁綱李豊楽就を駐屯させて迎撃させた。
曹操は苦で橋蕤らを包囲し、于禁楽進の活躍があって橋蕤ら四将を斬った。楽進は、濮陽・雍丘に続き、この戦いでも一番槍(先登)の功績を挙げた。

呂布・曹操に立て続けに敗れた袁術は寿春に戻った。その勢力は大幅に削がれることとなった。

張繍との戦い(197冬~198春)

曹操が舞陰を去ると、南陽郡の諸郡県はふたたび張繍方についた。
曹洪は曹操に代わって張繍との戦いを受け持ったがなかなか勝てず、舞陰から後退して葉に駐屯した。張繍・劉表の連合軍はしばしば葉を攻撃し、曹洪は苦しい戦いを強いられた。

冬に入って、曹操はふたたび南陽郡に進軍した。
曹操軍は宛・舞陰を攻撃し、湖陽に駐屯していた劉表軍を破った。

曹操は一度撤退し、198年に入って再び張繍を攻撃した。
曹仁は別軍を率いて諸県を平定した。
さらに進んで穣で張繍を包囲した。

この頃、曹操は軍師祭酒を設置し、荀攸を軍師、郭嘉を軍師祭酒に任命していた。
荀攸が進言して「張繍は劉表と結んでいるために強い。積極的に攻撃すると張繍と劉表がお互いに助け合うために倒すことは難しい」と攻撃に反対したが、曹操は従わずに穣を攻め立てた。
すると劉表の援軍が送って曹操軍の背後をついたため、攻め落とすことは出来なかった。

帰還する際に張繍軍が追撃に出た。はじめは曹操の直属部隊が殿を務め、張繍軍を撃退した。
賈詡の献策により、張繍軍は二度目の追撃を行った。既に追撃を振り払っていた曹操軍は軽装になり帰還を急いでいたため、張繍軍に大いに破られた。
曹仁が活躍して敗残の軍をどうにか立て直し、曹操にその武勇を褒めたたえられた。
また李通が救援に駆け付け、張繍軍を破った。

この時、曹操軍は国内に事情があって撤退を急いだと賈詡は推察したが、その事情は不明である。袁紹が曹操と敵対する姿勢を見せたからともいう(武帝紀注『献帝春秋』)。

曹操軍が張繍に敗れると、袁紹は手紙を送ってきた。降伏・従属を求める内容だったものと思われる。
曹操の様子がおかしかったので、鍾繇荀彧に相談した。荀彧が曹操に面会してわけを尋ねると、曹操ははじめて手紙を見せ「戦いになったらとてもかなわない、どうしたらいいか」と相談をもちかけた。荀彧は曹操にも勝ち目はあると励ました。
そして、まずは呂布を倒して東方を安定させることを勧めた。

荀攸と郭嘉も、袁紹の勢力拡大に対抗するため、早めに呂布を征伐するよう進言した。

西方への備え

呂布討伐を計画する中で、曹操は袁紹が関中に進出することを恐れた。
そこで荀彧は馬騰韓遂と短期的に同盟することを提案し、その遂行には鍾繇を推薦した。

曹操は鍾繇を侍中・司隸校尉に任じて長安へと送り出した。
鍾繇は持節として関中諸将を指揮下におき、馬騰・韓遂から人質を取って許に送った。

また、杜畿も西域の運営に当たった。
杜畿は京兆尹の人で、この頃荊州から帰郷していた。
荀彧の推薦で曹操に取り立てられた。司空司直となったのち、護羌校尉・西平太守となった。

劉備の小沛駐屯、呂布からの攻撃(198)

劉備呂布に徐州を乗っ取られたのち、許に身を寄せて鎮東将軍・豫州刺史に任じられていた。
曹操は自ら劉備を連れて沛国小沛に進軍した。散り散りになっていた兵を集めて劉備のために軍備を整え、兵糧を補給した。劉備は豫州刺史として小沛に残ることとなった。

曹操が自ら小沛まで進軍した時期は不明である。荀彧郭嘉の進言を受けて対呂布戦の準備を整えたようにもみえるし、197年の袁術軍との戦いで陳まで進んでいるので、その時に劉備を小沛まで送っていたかもしれない。

呂布はこの動きを警戒し、曹操と敵対するようになった。呂布の配下を劉備の兵が襲って金を奪ったためともいう。

時期不明の出来事だが、楊奉・韓暹は劉備に斬られた。
二人は袁術を裏切って呂布のもとに来ていたので、劉備が対呂布の備えとなっていたこの時期にありそうな出来事ではある。

呂布は袁術と講和し、高順に小沛の劉備を攻撃させた。
夏侯惇が援軍に向かった。
このとき夏侯惇は済陰太守として沛国のすぐ隣にいたものと思われる。
夏侯惇は高順に敗れた。

高順は劉備の守る小沛を攻撃し、陥落させた。
劉備は単身、曹操の元へ逃れた。

呂布征伐(198秋~)

こうして曹操呂布の講和は破れた。
198年9月、曹操は呂布征伐の軍を起こした。
従軍した者として、荀攸郭嘉王必楽進于禁徐晃らの記録が残る。

曹操は許ではなく宛から出発した。
張繍はその直前に曹操軍に敗れており、背後を攻撃できなかった。

10月に入って彭城を攻略した。
曹操軍が下邳に進軍すると呂布自身が騎兵を率いて攻撃してきたが、これを破って成廉を捕虜とした。
広陵太守陳登は曹操に味方し、下邳攻撃の先陣を担った。

楽進と徐晃はそれぞれ別軍を率いて呂布軍を破った。

呂布軍は下邳に立てこもった。
袁術に救援を求めたが、十分な援軍は送られてこなかった。袁術が不義理だからというよりは、その勢力が既に衰退していたためと思われる。

荀攸・郭嘉の計略により下邳を水攻めした。
呂布配下の宋建魏続が裏切って開城し、呂布と陳宮は捕らえられた。呂布・陳宮・高順は斬られた。

呂布配下の魯国相張遼は兵を率いて降伏し、中郎将に任じられた。

屯田の実施

棗祗韓浩の提案により、曹操は許の周辺で屯田を開始した。
実施に当たっては任峻が典農中郎将に任じられた。
屯田は数年かけて制度を整備し、その途中では軍師祭酒侯声と棗祗が制度に対する議論を行うこともあった。侯声はこの議論にのみ名が残る。
軍師祭酒は郭嘉から董昭へと受け継がれていくが、定員は一名ではなかったか。あるいは初代の軍師祭酒が郭嘉ではなく侯声だった可能性もある。
議論の結果、棗祗自身が屯田の実施に関わることとなり、羽林監から屯田都尉に移った。

呂布討伐後の人事状況

下邳が陥落すると、かつて曹操の別駕従事だった畢諶も捕らえられた。諸将は畢諶が処刑されるだろうと心配したが、曹操は畢諶を許して魯国相に任じた。その後の事績は残らない。

陳羣はかつて劉備に仕えていたが、この頃は徐州に避難していた。曹操は陳羣を召し出して西曹掾属とした

臧覇孫観昌豨らは呂布に味方していたが許され、それぞれ国相・太守に任じられた。
青州・徐州北部のことは臧覇に任せることになった。青州のことに青州刺史李整が関わらないのは、この頃に亡くなったのかもしれない。李整が青州刺史に任じられたこと自体がこの前後のことと考えられるので、この辺りの時系列は難しい。
李整が死去すると、李典が軍勢を引き継ぎ中郎将・離狐太守となった。

車冑は徐州刺史に任じられ、下邳に入って徐州南部を統治したようだ。
徐州中部には襄賁校尉が置かれ、杜松が任じられた。襄賁は東海郡の県名。

董昭は198年に河南尹に昇進した

李通は、張繍との戦いで武功を挙げ、中郎将から裨将軍に昇進した。また陽安都尉を加えられた。汝南郡の西部を割いて陽安郡を新設し、その太守代行ということらしい。
陽安郡内には郎陵県があり、趙儼が県令を務めていた。

許褚も張繍との戦いで武功を上げ、都尉から校尉に昇進した。

曹仁は、196年に議郎に任じられたのち208年に征南将軍となるまで、途中の官職の記録がない。弟の曹純が黄門侍郎から議郎になったので、曹仁は他の官職に移ったものと思われるが、分からない。

黄門侍郎には、衛臻が任じられた。
衛臻は夏侯惇に逮捕されたのちに赦免されて朝廷に仕官したが、曹操幕下には加わらず献帝の側近となった。

この頃のことか、夏侯淵は陳留太守から潁川太守に移った。
潁川郡の許県に都が置かれているので、重要な役職だっただろう。

曹操配下一覧表(198年冬ごろ)

曹操とその配下たち
録尚書事・司空・行車騎将軍・兗州牧 曹操 
鎮東将軍・豫州刺史 劉備
伏波将軍・広陵太守 陳登 新加入(呂布征伐中)
建武将軍・済陰太守 夏侯惇
軍師 荀攸 前職:汝南太守
軍師祭酒 郭嘉
軍師祭酒 侯声 新登場(時期不詳、以後事績なし)
諫議大夫 曹洪
議郎 曹仁
議郎・司空参軍事 曹純 前職:黄門侍郎
司隸校尉・侍中 鍾繇 前職:侍中・尚書僕射
河南尹 董昭 前職:符節令
徐州刺史 車冑 新登場
泰山太守 薛悌
潁川太守 夏侯淵 前職:陳留太守(時期不詳)
魯国相 畢諶 新加入(以後、事績なし)
琅邪相 臧覇 新加入
北海太守 孫観 新加入
東海太守 昌豨 新加入
利城太守 呉敦 新加入(以後、事績なし)
東莞太守 尹礼 新加入(以後、事績なし)
城陽太守 孫康 新加入(以後、事績なし)
護羌校尉・西平太守 杜畿 新加入
領軍 史渙
護軍 韓浩
典農中郎将 任峻 前職:騎都尉
裨将軍 徐晃
裨将軍・陽安都尉 李通 前職:振威中郎将
平虜校尉 于禁
討寇校尉 楽進
校尉 許褚 前職:都尉
襄賁校尉 杜松 新登場
中郎将 王忠
中郎将 張遼 新加入
中郎将・離狐太守 李典 新加入
屯田都尉 棗祗 前職:羽林監
司空長史 劉岱
司空主簿 王必
司空東曹掾 毛玠
司空西曹属・許令 満寵
司空西曹掾属 陳羣
県令・県長 呂虔司馬朗趙儼梁習
その他の配下 丁斐朱霊婁圭

侍中・尚書令 荀彧
尚書 程昱
尚書郎 衛覬

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