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自分の過去は語らぬが少し北京のこと。20230331fri278@プロット沼

2516文字・30min



noteの右上のベルが118になっていて、ひらくのがこわい。
けれど、フリーメールのほうでは誰がスキをしてくれたか、わかるので「あ、いつもの常連さんで。すみませんね。いまは忙しいので」と感謝の気持ちを心で述べる。

ぼくのnoteは本当に少ないけれどぼくが把握できる人たちがつかずはなれずに寄り添ってくれている。そんな感じを受ける。
ぼくの性分にはあっている。

 ずいぶん昔。北京オリンピックよりも前の2005年だ。
ぼくは地元のパチンコで大勝ちしたあぶく銭で、バイト仲間の卒業旅行が北京、西安、上海の旅だった。誘われてぼくは彼について行った。その北京での日本語のツアコンに紹介してもらった、北京で英語のツアコンをやっている(つまり同僚になるわけだが)中国人の張(仮名)さんの部屋にてヒモ生活を送っていた。彼女は日本人のカレシが欲しかったそうなのだが…。
 三、四ヶ月くらい彼女の万里の長城ツアーに同行しては帰りは火鍋を食べて帰ってくる。そんな生活をつづけた。三十回も万里の長城を見るとぼくもさすがに北京観光に飽きてしまい、次第に彼女の同行にも行かなくなった。高倉健の古い映画を見たりするくらいだった。本も読まず、いま思えばなにを思ってあのジメジメした半地下の湿ったベッドに寝転んでいたのだろうか。
 当時の彼女は、ぼくのあまりの怠けぶりに業を煮やしたのか「部屋でゴロゴロしてるんだったら、授業料はだすから語学学校でちゃんと中国語を学んだら」と言われてぼくはバスで片道五十分をかけて毎日語学学校へ北京語を学びに行くことになった。

 中高六年間(大学を含めるともっとだ)、英語の習得はまったくダメだったのに、北京語はするすると身についた。そういうのって不思議なものだ。正直をいえば恋の力もある。ぼくが取った中文初・中級クラスの老師はみんな素敵なチャーミングな女老師たちだった。
 半年後には、なんとぼくはその語学学校の教壇に立って、中国語で日本語を教えている立場になっていた。ぼくには収入ができて部屋を借りて独立した。出資してくれた彼女には皮肉な結果になった。

 あれは春節(旧正月)の前だった。ぼくは学校から表彰をされた。生徒の離席率が外国語を教えるクラスでは2番目に低いクラスだったのだ。ぼくはジャスミンティーが入った大きな筒缶をもらった。ぼくの受け持つクラスは「みんなの日本語」という海外では有名な初級の日本語教本を使って「あ・い・う・え・お」から教えた。

 同時にぼくもその語学学校の生徒だった。不思議な感覚だった。自分では中級クラスを受けて、週末と夜にその語学力をつかってぼくの生徒に日本語の初級を教えた。あの頃は日本語を教える予習が忙しかった。人生で最もがんばった時かもしれない。ぼくはそのとき「がんばる」という行為は自分のためにではなく他者に合わせて努力するときに使う言葉だと学んだ。それは「祈り」という言葉が「自分ではどうにもならない事象に対して自分の思いを他に依存させる行為」に似ている。ぼくはそうやって言葉を体験的に身につける節がある。
 ぼくの授業ではミニテストをやった。ぼくが受ける王老師の授業のミニテストを取り入れたのだ。教えないでも予習をやってくる子もいれば、するするとできちゃう子、アニメ頭文字Dもが大好きで日本語を学びたい生徒、いろいろな生徒がいた。
 語学学校の場所が五道口という学生街、周りには北京大学、清華大学、北京語学大学、師範大学、農業大学、林業大学とさまざまあって、その留学生たちが中国語を学びにくる語学学校なので、メインの中国語の序(つい)でに日本語をかじりたい。みたいな子もいた。フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、メキシコ、タイだったか。

「日本のサクラってどんな花ですか?」
「がとはの違いがわからない」
「成都って街は知ってる? 私の田舎です」
「北海道ってどんな場所ですか?」
「沖縄に行きたい」
 彼ら彼女ら、素朴な質問をぼくにぶつけるわけだが、日本人であるぼくが逆に日本についてハッとさせられて、日本(語)とはなんぞや、について猛勉強をした覚えがある。「が」と「は」の違いは、わりとしっかりと教えた。他の日本語教師はどう教えていたかはわからないけれど。

 ぼくはそんな感じの生徒からツッコまれやすいキャラだったのか、ぼんやりとした日本語教師だった気がする。当時はまだ独身だった(たしか齢も31そこそこ)のもあって、生徒たちに北京の夜の踊り場(ディスコ・クラブ)によく(といっても二度)誘われた。
「センセー、ぜひウチに遊びにきて!」
 ある日、中国の芸大の教授の娘さんだという女子生徒に、高層のマンションに誘われて(その日も夜だった)、大きな部屋でなぜか映画「ワンピース」を観た。
 その部屋はテレビがある大きな寝室だった。
 なぜこんな大きな寝室で語学学校の先生と生徒がふたりっきりで、キングサイズのベッドにちょこんと座って、大型テレビでDVDのワンピースを見るんだろう。などと思ってストーリーをぼんやりと観ていた。
 そのシーンはいまでも脳裏にくっきりと残る。
 ルフィとゾロのチームで二手に分かれて、アップになったゾロが走りだす。「ソッチじゃねーから!」とチョッパーがツッコむシーンだった。
「やだあ、わたし!」
 突然、彼女はベッドから立ち上がって部屋からでていった。
「え、どうかしたの?」
 彼女が座っていた場所に、小さな黒いシミが見えた。
 照明が暗かったので、その黒いシミが血と気づくのに、少し時間がかかった。当初はそれが彼女のナプキンがどうのということに頭がまわらずに後になって、あの状況っていったいなんだったんだろう。いまでも思うことがある。

 話はもどるが、あのとき北京時代での語学学校の日本語教師で離席率が低かったのも、いまのnoteの離席率が低いのも、ぼくっぽい。そんな気がした。

 自分が書く小説はできるだけ多くの読者に読んでもらいたい。もちろんぼくだって思うけれど、書いているテーマやモチーフ、自分の作家性を考えると、自分の人間性に帰結するんだな。と思った。

 書きたいのテーマには「エンタメ向きの戯曲」と「エンタメ小説」がある。今回の記事をネタに書くとすれば体験型の「純文学」になる。こういうのをドラマにしようとすれば力技が必要になりそうだが。

 ん。たしかに技倆があれば、できなくもないのか。
 「プロット沼」に入れておこうか。




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