タイピング日記008 / 「春が来る」 (なんとなくな日々より)/ 川上弘美
「お葬式の帰り道だったんです」と彼女は話し始めたのである。
「田んぼに囲まれたお寺で、野辺送りを終えてから、畦道をゆっくり歩いて帰ったんです」
一緒に、お酒を飲んでいたのだ。ぜんまいを煮たものやら菜の花のおひたしをつまみに飲んでいた。春ですよねえ、このごろこういう、大人の味のものっていうんですか? そういうもの食べられるようになっちゃって。などと大学を卒業したばかりの彼女らはつぶやきながら、話しを続けた。
「そしたらね、目が合っちゃったの」
「目? 」私は聞き返した。
「そう。十五センチくらいの大きさの河童と」
「え」
「河童とね、目が合っちゃった」
涼しい顔をして、彼女は小さな猪口を傾けた。葬式の帰りの畦道で、十五センチほどの者とすれ違った。驚いて振り返ると同時に向こうも振り向き、目が合った。たしかに河童だった。頭には皿もあった。次の瞬間河童は駆けだし、用水路にぼちゃんと飛び込んだ。
「それ、いつごろの話」私は聞いた。ふだんの彼女は、幽霊だの怪異だのの話をする質ではない。
「おととし」
大きな目をさらに見開きながら、彼女はくいくい酒を飲んだ。目が合っちゃったからまあしょうがないです、などと言いながら、くいくいと飲んだ。
「ほんとうなの、その話」私は何回でも訊ねた。そのたびに、彼女は真面目な顔つきで、深く頷くのであった。
酒の席のこととて、そのうちに話題はあちこち飛び、河童の話はそれでおしまいになった
ほろ酔いで家に帰る道すがら、私は河童のことを思った。
姿を人間になど見られてはいけないはずなのに、さてはまちがえてすれ違ってしまったんだろうか。さぞ驚いたことだろう。ぼちゃんと飛び込んだ瞬間に、水を飲んでしまったかもしれない。あわてて流されたかもしれない。幾日も、落ち着かない日を過ごしたことだろう。春で、浮かれて出てきたんだろうに。かわいそうな河童。
いつの間にか、河童がいるものと思いつめていた。
「春だから。目が合っちゃったから、しょうがないんです」という彼女の声が耳もとによみがえってくる。
河童にも、人にも、等しく春が来る。
〈川上弘美『なんとなくな日々』より〉
wikiより下記
川上 弘美(かわかみ ひろみ、旧姓・山田、1958年4月1日 - )は、日本の小説家。東京都生まれ。大学在学中よりSF雑誌に短編を寄稿、編集にもたずさわる。高校の生物科教員などを経て、1994年、短編「神様」でパスカル短篇文学新人賞を受賞。1996年「蛇を踏む」で芥川賞受賞。
幻想的な世界と日常が織り交ざった描写を得意とする。作品のおりなす世界観は「空気感」と呼ばれ、内田百閒の影響を受けた独特のものである。その他の主な作品に『溺レる』、『センセイの鞄』、『真鶴』、『水声』など。
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