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タイピング日記 / 「百年の孤独」 第二章

2、ウルスラの道の発見

 十六世紀に海賊のフランシス・ドレイクがリオアチャを襲ったとき、ウルスラ・イグアランの曽祖母は警鐘と砲声に驚いて腰を抜かし、火のおこっているかまどに座り込んでしまった。そして、そのとき負ったやけどのせいで生涯、妻としては役に立たない体になった。クッションをあてがって腰半分で座るほかなくなった。歩き方にもおかしなところが残ったらしく、決して出歩かなかった。体がきなくさいと思いこんで、世間との付き合いもいっさい断った。獰猛な軍用犬を引きつれて寝室の窓から忍び込んでくるイギリス兵に、真っ赤に焼けた鉄で恥ずかしい拷問にかけられる夢を見るので、おちおち眠ることができず、中庭で朝を迎えることがしばしばだった。スペインはアラゴン地方出身の商人、あいだにふたりの子供がいる夫は、なんとか不安をまぎらわせてやろうとして、店の財産の半分を慰みごとと医薬に使った。最後には店をたたんで、海から遠く離れた山あいに位置する温和なインディオの集落に家族ともども移り住み、この土地で、悪夢の海賊も入り込めない、窓なしの寝室を妻のために建ててやった。

 山奥の集落には・ドン・ホセ・アルカディオ・ブエンディアという新大陸生まれのタバコ栽培業者が昔から住んでいた。ウルスラの曽祖父はこの男と組んで大いに利益をあげ、わずか数年のうちにひと財産をこしらえた。それから長い年月がたち、この新大陸生まれの男とアラゴン出身の男の玄孫同士が結婚したのだ。そういうわけで、ウルスラは夫の奇矯なる振る舞いでかっとなるたびに、波瀾にみちた三世紀の時間をひと飛びして、フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃したあの日を呪った。しかし、それはただ、いっときの憂さばらしにしかならなかった。実は、ふたりの一生は愛よりも強いきずなで、同じひとつの悔いによって結ばれていたからである。彼らはいとこの間柄だった。それぞれの先祖の働きとまじめな生活のおかげで、この地方でもっとも立派な村のひとつにかぞえられるようになった古い集落で、ふたりはいっしょに育った。生まれたその日から二人の結婚は予想されていたはずなのに、彼らがその意志を明らかにすると、親戚の者はこぞって反対した。何百年も前から血をまじえてきた両家のこの健康そのものの末裔から、イグアナが生まれるような恥ずかしい結果になるのを懸念したのだ。すでに恐ろしい先例があった。ウルスラの伯母のひとりがホセ・アルカディオ・ブエンディアの伯父のひとりと結婚して男の子を産んだのはいいが、その子供は生まれつき、栓抜きのような形をして先端にぽさぽさと毛のはえた軟骨のしっぽがあり、そのために彼は一生、筒形をしただぶだぶのズボンをはきとおし、いとも清らかな童貞を守りながら四十二の年まで生きて、やがて出血のために死んだ。女には絶対に見せたことのない豚のしっぽを仲のよい肉屋がわざわざ肉切り用鉈で切ってやろうとしたばっかりに、命をちぢめるはめになったのである。だがホセ・アルカデォオ・ブエンディアは、十九歳という年齢にふさわしい気軽さで、一言のもとに問題を片づけた。「口さえきければ、豚に似ていようがいまいが、かまうもんか」。こうしてふたりは結婚式をあげ、楽隊と花火がにぎやかなパーティーは三日三晩もつづいた。ふたりはその夜から幸せに暮らせたはずだった。ところがウルスラの母親が、生まれてくる子供についてさまざまな不吉な予言をし、彼女を怖気づかせたあげく、婚礼の総仕上げともいうべきあの行為を拒否させた。眠っているあいだに、たくましくて我の強い夫に犯されるのを恐れたウルスラは、横になる前にかならず、母親が帆布で作ってくれた粗末なズボンをはいた。それは交錯する数本の紐で補強され、前のところが頑丈な鉄の尾錠で縮まるようになっていた。この状態は何ヶ月もつづいた。昼間は夫の軍鶏たちの世話をし、妻は母親と並んで刺繍をした。そして夜になると、愛の行為にかわるものになった切なさ、激しさで、ふたりは何時間ももみ合った。やがて、村人たちの鋭い勘は、ただごとでない何かが起こっていることを嗅ぎつけ、結婚して一年にもなるのに、夫の不能のせいでウルスラはまだ生娘のままだ、という風評を立てた。ホセ・アルカデォオ・ブエンディアはいちばん最後にこのうわさを知った。

「ウルスラ、村の連中がなんと言っているか、お前も知っているだろう」と、平静をよそおいながら話しかけた。

「勝手に言わせておけば」と、彼女は答えた。「嘘だってことは、わたしたちがちゃあんと知っているんですもの」

 そういうわけで、さらに半年も同じ状態がつづいたが、ついに悲劇の日曜日は訪れた。闇鶏の賭けでホセ・アルカデォオ・ブエンディアがプルデンシオ・アギラルに勝ったのだ。負けた男は自分の軍鶏が流した血に興奮し、かっとなって、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアから離れぎわに、闘鶏場のみんなに聞こえるような大きな声で、言った。

「よかった、よかった!その軍鶏のおかげで、やっとかみさんを歓ばしてやれるじゃないか」

 ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは落ち着いて軍鶏を抱きあげ、「すぐに戻ってくる」とみんなに声をかけてから、プルデンシオ・アギラルに言った。

「おい、きさま、家へ帰って得物を持ってこい。生かしちゃおかん!」

 そして、血に飢えた祖父の投槍をさげて十分後に戻ってきた。村の人間のおよそ半分が集まっている闘鶏場の入口で待っていたプルデンシオ・アギラルは、身がまえるひまもなかった。闘牛のような満身の力をこめて、また、初代のアウレリャノ・ブエンディアがジャガーを退治したときを変わらぬ確かな狙いをつけて、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアが投げた槍がその喉にぐさりと突き立ったのだ。その夜、闘鶏場では死体を囲んで通夜が行なわれている時刻にホセ・アルカデォオ・ブエンディアが寝室に行くと、妻はあの貞操ズボンをはこうとしているところだった。その鼻先に槍をちらつかせながら、彼は高びしゃに言った。「今すぐ、そいつを脱げ!」ウルスラは夫の決意のほどを疑わなかった。「何が起こっても、あんたの責任よ」とささやいた。ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは床に槍を突きたてて言った。

「お前がイグアナを産んだら、二人で育てればいい。しかし、お前のせいで村からまた死人が出るようなことは、絶対にさせないぞ!」

 それは、さわやかな、月の明るい六月の夜だった。ふたりは、プルデンシオ・アギラルの身寄りの嘆き声をはらんで寝室を吹き抜ける風を気にせず、ベッドの上で絡み合ったまま朝を迎えた。

 事件は名誉の決闘ということで片づけられえたが、やはり、ふたりの心にはやましさが残った。ある晩、眠れぬままにウルスラが水を飲みに中庭へ出ていくと、水がめのわきに立っているプルデンシオ・アギラルに出会った。彼は青ざめた、いかにも悲しそうな表情で、タンポンがわりにアフリカ羽萱で喉の傷口をふさごうと懸命になっていた。彼女は恐ろしさよりも哀れみを感じた。部屋に戻って、いま見てきたことを話したが、夫は深く気にする様子もなくこう言った。「死人が化けてでるもんか。おれたちが良心に責められているだけのことさ」。それから二日目の夜、ふたたびウルスラは、アフリカ羽萱のタンポンで首筋にこびりついた血を洗っているプルデンシオ・アギラルを浴室で見かけた。その翌晩は、雨のなかをうろついている彼に会った。ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは妻が襲われる幻覚にいい加減うんざりして、槍をかまえて中庭まで出てみた。するとそこに、悲しげな死人が実際に立っていた。「とっとと消えろ!」とホセ・アルカデォオ・ブエンディアは大きな声でどなった。「ここへ戻ってくるたびに、何度でも息の根をとめてみせるぞ!」

 しかし、プルデンシオ・アギラルは消えなかったし、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアも槍を投げる気にはなれなかった。そしてそのころから、よく眠れなくなった。雨のなかを死人がこちらを見つめていたときの悲しそうな顔、この世の者を深く懐かしんでいるらしい素振り、アフリカ羽萱のタンポンをしめす水を求めて家の中を歩きまわるもどかしげな姿が気になった。「あいつ、ずっと淋しいんだ」。同情したウルスラは、死人がかまどの鍋の蓋をあけているのを見かけたつぎの機会には、彼が捜しているものの見当が即座についたので、それから家のあちこちに水を張った金だらいを並べておくことにした。ある晩、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアはその部屋で死人が傷口を洗っているのを見て、ついに我慢がしきれなくなって言った。

「わかったよ、プルデンシオ。おれたちはこの村を出ていく。できるだけ遠くへ行って二度と戻ってこないから、安心して消えてくれ」

 こうしてふたりは山越えをすることになったのだ。ホセ・アルカデォオ・ブエンディアと同じ若さの数名の友人もこの冒険に夢中になって、家をたたみ、妻子を連れて、誰に約束されたわけでもない土地をめざすことになった。出発に先立って、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは中庭に槍を埋めた。さらに、こうすれば少しはプルデンシオ・アギラルの心がやすまるだろうと考えて、みごとな軍鶏の首をつぎつぎにはねた。ウルスラは、花嫁衣装のはいったトランクとわずかな什器、それに父親からもらった金貨入りの箱だけを持っていくことにした。前もって進路が決まっていたわけではなかった。一行はただ、足跡を残さないように、また知った人間に出会わないようにと願って、リオアチャへ抜ける道とは反対の方角に進むことにした。それは奇妙なたびだった。十四カ月たったころ、猿の肉と蛇のスープで胃の具合のおかしくなった体で、ウルスラは五体満足な赤ん坊を産み落とした。形が変わるほど足がむくみ、静脈が泡のように浮いてきたために、彼女は道中の半分ほどは、一本の棒に吊したハンモックを二人の男にかつがせて進んだのだった。空っ腹をかかえ、けだるそうな目つきをした姿は見るも哀れだったが、小さな連中は両親たちよりもはるかに元気に長旅に耐えて、ほとんどの時間を楽しくすごした。二年近くも旅したある朝、一行は山脈の西の斜面を見おろした最初の人間となった。雲のかかった頂上に立つと、あの世までつながっていそうな大湿原の茫々たる水面をのぞむことができた。しかし、どこにも海はなかった。さらに湿原をさまよい歩くこと数カ月、途中で最後にインディオを見かけた地点からも遠く離れたところにある晩、一行は、凍てついたガラスの流れにそっくりな水がはしる、岩だらけの川岸にキャンプを張った。それから何年もたった二度めの内乱のさなかに、アウレリャノ・ブエンディア大佐はリオアチャを急襲する目的で同じ道筋をたどったが、進軍六日めには、それが無謀な企てであることを悟った。しかし、川っぷちに野営した夜の父親とその一行は、姿こそ助かるすべのない遭難者にそっくりだったが、人数は旅の途中も増えつづけて、いかにも天寿を全うしそうな元気さだった-事実、彼らはそれを全うした。-その晩、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは鏡の壁をめぐらした家が立ちならぶにぎやかな町が、この場所に建っている夢を見た。ここは何という町かと尋ねると、マコンドという、それまで一度も聞いたことのない名前が返事としてかえってきた。それはまったく意味のない言葉だったが、夢のなかでは神秘的なひびきを持っていた。翌日、彼は一行の者を説いて、海に出る見込みのないことを納得させた。川岸のいちばん涼しそうな場所に空地をひらくために、木を伐採するようにみなに命令し、そこに村を建てた。

 ホセ・アルカデォオ・ブエンディアは初めて氷を見たあの日まで、鏡の壁をめぐらした家、という夢の謎をとくことができずにいたが、このときやっと、それが秘めた深い意味を理解できたように思った。近い将来、水というきわめて有りふれた材料から氷塊を大量生産し、それを使って新しい家を村に建てることができるにちがいない。もはやマコンドも蝶番やノッカーが暑さでよじれる灼熱の地ではなくなり、ひんやりとした都市に一変するだろう。その彼が製氷工場の建設という計画に固執しなかったのは、ひとえに子供たちの教育に、とくに早くから錬金術についてまれにみる勘の良さを示していたアウレリャノの教育に、積極的にかかわるようになっていたためだった。工房の埃はきれいに取り払われていた。新奇なものへの一時の興奮のおさまった冷静さで、ホセ・アルカデォオ・ブエンディアはメルキアデスの書付けを調べなおし、辛抱づよく長い時間をかけて、鍋底の焦げつきからウルスラの金を分離し回収しようと試みた。若いホセ・アルカデォオはほとんど仕事を手伝おうとしなかった。父親が釜のことに夢中になっているあいだに、前々から年のわりには大柄だったわがままな長男は、堂々たる体格をした若者に育っていった。すでに声変わりを経験して、口のまわりには、うっすらと髭さえはえていた。ある晩、彼がこれから寝ようとして部屋で服を脱いでいたところへはいって行ったウルスラは、恥ずかしさと不憫さのいりまじった複雑な気持ちを味わった。裸の男を見るのは夫についでこれが二度めだったが、息子は異常ではないかと思われるほどみごとな体をしていた。折から三度めの妊娠中であったにもかかわらず、ウルスラはあらためて花嫁の不安を感じた。

 そのころ、家事の手伝いもすればトランプ占いもするという、口は悪いが男好きのする商売女が出入りするようになっていた。ウルスラはその女に息子のことを話してみた。息子のとてつもなく大きなアレを、例のいとこの豚のしっぽと同じように変態ではないかと考えたのだ。女は、ガラスが砕け散るように家じゅうにひろがる、あけすけな笑い声を立てて言った。「そんなことないわよ。きっと幸せになれるわ」。二、三日後にその予言を証明するためにトランプを持参した女は、ホセ・アルカディオを引っぱって台所わきの穀物部屋に閉じこもった。女は、好奇心を掻きたてられるどころか退屈しきっている若者をそばにおいて、とりとめのない話をしながら、古びた大工用の仕事台の上にゆっくりとトランプを並べていった。そして、ふいに手を伸ばして彼に触れた。「あらぁすごい!」心から驚いてそう叫んだが、それだけ言うのがやっとだった。ホセ・アルカディオは身内が泡だつの感じ、かすかな不安をおぼえた。泣きたいような気持ちに襲われた。女から誘いをかけたわけではなかった。その腋から発散して彼の肌にも染みついた臭いにつられて、ホセ・アルカディオはひと晩じゅう女を追いまわした。かたときもそばを離れたがらなかった。母親になってくれ、と頼んだ。穀物部屋を出たくない、とも言った。あらぁすごい、と言ってくれ、もう一度さわって、あらぁすごい、と言ってくれ、せがんだ。ある日のこと、もはやそれ以上は我慢ができなくなって、女に会いに家まで押しかけた。どういうつもりかと堂々と表から訪ねていって、ひとことも口をきかずに客間に座り込んだ。しかしそうなってみると、とくに女が欲しいという気は起こらなかった。女はまるで人が変わったみたいだった。その体臭が感じさせるイメージからはおよそかけはなれた、別の人間のように思えた。彼はコーヒーを飲んだだけで、気落ちしてそこを出た。その日の夜、眠れなくて悶々としているうちにまたもや猛烈にあの女が欲しくなったが、このときに感じた女への愛はもはや穀物部屋で抱いたそれではなくて、午後に生まれた気持ちと同じものだった。

 数日たって、思いがけず女から呼び出しがあった。女は母親とふたりきりだったが、トランプを教えるという口実で彼を寝室へ誘った。そしてあまりに奔放に体にさわるので、最初の震えがおさまったあと、彼は何となくがっかりして、快感よりもむしろ不安を感じた。女は、今晩また会いに来てくれ、と誘った。とても出かける勇気はないと思ったが、彼はその場しのぎにうなずいた。しかし、その夜の燃えるように熱いベッドに身を横たえたとき、何としてでもこの女に会いに行かなければ、と思った。暗闇のすこやかな弟の寝息、隣の部屋の父親のから咳、中庭の雌鳥たちの喉にからまったような声、蚊のうなる音、心臓の激しい動悸、今の今まで気づかなかった周囲のこうるさい物音。それらを聞きながら手さぐりで服を着て、深い眠りに沈んだ通りへ出た。約束どおりにただ閉っているのではなく、戸口にちゃんと掛け金が下りていてくれ、と心から願った。ところが、戸口はあいていた。指先で軽く押すと、はらわたに冷たく染みるような、陰気くさい、はっきりした蝶番の音がひびいた。物音をできるだけたてないように半身になって滑りこんだ瞬間に、あの臭いを感じた。そこは、彼は知るよしもなかったし、真っ暗闇では見当のつけようのない位置に、女の三人の弟がハンモックを吊って寝ている狭苦しい居間だった。したがってそこから先、彼はてさぐりで居間をわたり、寝室のドアを押して奥へはいり、ここでは、ベッドを間違えないように方角を見定めなければならなかった。見定めることはできたが、しかし思ったより低いところに張られていたハンモックの紐につまずいた。すると、それまで高いびきだった男が寝返りを打って、うんざりしたようでつぶやいた。「この前は水曜日だったぞ」。寝室のドアを押したとき、それが床のでこぼこに当たって音を立てるのを防ぎようがなかった。突然、真っ暗闇で完全に方向を見失ったことを悟って、彼はつくづくよせば良かったと思った。狭苦しい部屋に、女の母親、亭主とふたりの子供がいるもうひとりの娘、それに女が寝ていた。女は、彼が来るとは思っていなかったようだった。いつも女の肌に感じられる、ほのかだが絶対に間違いようのないあの体臭が家じゅうにこもっていなければ、それをたよりに進むことができたかも知れない。この孤独の奈落の底にどうして落ちることになったのかといぶかりながら、しばらくじっと立っていると、指をひろげた一本の手が伸びてきて暗闇をさぐり、顔にさわった。何となくそれに期待していたので、別に驚きもしなかった。彼はその手に身をまかせて、精も根も尽きはてたように、あやめもわかぬ片隅へと引き寄せられていった。そこで服をはぎ取られ、馬鈴薯の袋のようにゆさぶられ、左右に振りまわされた。この底知れぬ闇のなかでは、もはや腕など余分なものとしか思えなかった。女の体臭のかわりに、今ではアンモニアの臭いが鼻をついた。女の顔を思い浮かべようとすると、ウルスラの顔が目の前にちらついた。彼は漠然とではあったが、ずいぶん前からしたいと思っていたことを、だが実際にはできると考えてもみなかったことを、げんにしているのだと意識した。もっとも、足や顔がどこへ行ったのか、どの足が自分のもので、どの頭が相手のものなのか、さっぱり見当もつかなかったので、どんな具合にそれが行われたかはついにわからずじまいだった。腎臓の冷えた水音、腸を駆けめぐる風、不安、逃げだしたくもあるが同時に、このいらだたしい静寂と恐ろしい孤独のなかに永久にとどまっていたいと思う矛盾した気持ち。それらにもはや耐えられなくなっている自分を彼は感じていた。

 女の名前はピラル・テルネラといった。十四歳の彼女を犯して二十二まで愛しながら、よそ者であるために、最後までその関係を大っぴらにしなかった男から無理やり引き離そうとする家族に連れられて、彼女もマコンドの建設で終わったあの流浪の旅に加わったのだ。男は仕事が片づきしだい、あとから世界の果てまで追っていくと堅く約束したが、待ちくたびれた彼女は、トランプが三日後に、三カ月後に、あるいは三年後に、陸地か海上で会うことがあると教えてくれる彼をそこらの背の高い男やずんぐりした男、金髪の男や黒い髪の男と、ついいっしょくたにした。待っているうちに太腿のたくましさ、胸の締まり、やさしいしぐさなどは失ったが、狂おしい情熱だけは手つかずのまま残していた。このすばらしいおもちゃにうつつを抜かして、毎晩のように、ホセ・アルカディオは迷宮めいた部屋で女を追った。あるとき戸口に掛け金がおりていたこともあったが、いったんその気になった以上は最後までやりとおさなければと思って、何度も何度も戸を叩いていると、うんざりするほどまたされたあげく、やっと女が戸をあけてくれた。昼間のうちは横になってうとうとしながら、ひそかに前夜の思い出を楽しんだ。しかし、女が何のかげりもない平然とした態度でにぎやかにわが家へやって来ても、彼はその緊張を無理に隠そうする必要はなかった。鳩も驚くようなあけすけな笑い声を立てる女は、息をこらし心臓の鼓動を抑えることを教え、人間がなぜ死を恐れるのかを理解させてくれた、あの目に見えない力とはまったく無縁の存在だったからだ。夢中になっていた彼は、例の金属のかすを掻きとって、ついにウルスラの金の回収に成功したという父親と弟の知らせで、家じゅうが上へ下への大騒ぎをしているときも、みんなが浮き浮きしている理由がよくのみ込めなかった。

 事実、父親と弟は数日がかりの手のこんだ辛抱づよい作業ののち、それに成功していた。ウルスラも大喜びで、錬金術の発明を神に感謝したほどだが、そのうちに村の者たちが工房へ押しかけ来たので、この奇跡のお祝いにビスケットとグァバの砂糖漬けで接待しなければならなくなった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、たった今こいつを発明した、といわんばかりの顔で、取り戻した金をおさめた壺をみんなに披露した。さんざん見せまわったあげく、いちばん最後に、近ごろ工房へとんと顔を見せない長男の前にやって来て、からからに乾いた、黄色っぽい塊をその鼻先でちらちらさせながら聞いた。「何だと思う、これを?」ホセ・アルカディオは本気で答えた。

「犬のくそだろ」

 父親は手の甲で、血が吹きだし、涙がこぼれるほど強く、彼の口のあたりをなぐった。その夜、ピラル・テルネラは暗闇のなかで薬瓶や綿を手さぐりで探しだしてきて、腫れあがった傷口にアルニカチンキをつけてやり、言われるまでもなく望みどおりに、痛い思いもさせないで愛撫した。心がひとつに溶けあって、その直後に思わずささやき合っていた。

「ふたりだけになりたいな」と、彼から話しかけた。「近いうちに、みんなに何かも打ち明けるよ。そうすれば、隠れて会うことないもの」

 その彼を落ち着かせようとはしないで、女は言った。

「そうなればいいわね。ふたりきりだったら、明かりをつけっ放しにして、おたがいに気のすむまで見ることができるわ。わたしだって、誰にも遠慮しないで思いっきり声が出せるし、あんたはわたしに、すけべえなことを好きなだけ言えるのよ」

 この話し合いと父親にたいする激しい怨み、それに今すぐ実現しそうな放恣な愛の可能性が彼をわるく落ち着かせることになった。別にどうというつもりもなく、ごく自然に、彼はすべてを弟に打ち明けた。

 初めのうちアウレリャノ少年は、兄の色事にともなう危険しか考えられず、その対象の魅力には思いいたらなかった。それでも、少しずつそのもの狂おしさに取り憑かれていった。こまごまとしたことを聞かせてもらい、兄とともに一喜一憂し、驚きと楽しみを味わった。火のむしろが敷かれているような独り寝のベッドに横になって、夜明け近くまで寝ずに兄を待ち、起きる時間が来るまで一睡もせずにふたりで話こんでいた。そのために、間もなく彼らには同じ睡眠不足に苦しみ、同じように錬金術や父親の博識をかろんじ、人目を避けるようになった。「この子たち、どうかしてるわ。ぼうっとして」とウルスラは言った。「きっと回虫をわかしてるのよ」。すりつぶした有田草の胸の悪くなるような煎じ薬をこしらえてやると、ふたりは予想もしなかった我慢づよさを見せてそれを飲んだ。そして一日に十一回も、同じ時間にめいめいの便器にすわり込んで、尻からひりだしたピンク色の寄生虫を、いかにもうれしそうに誰彼なく見せてまわった。そいつらのおかげで、少なくとも自分たちのうつけた、けだるそうな素振りの原因については、ウルスラの目をごまかすことができたからだ。アウレリャノもそのころには、兄の体験をただ頭で理解するだけでなく、わがこととして感じるようになっていたらしい。ある日、兄の愛のからくりについてこと細かに説明しているとき、さえぎってこう尋ねたのだ。「どんな感じなの?」ホセ・アルカディオは即座に答えた。

「地震に出くわしたようなもんさ」

 一月のある木曜日の午前二時に、アマランタが生まれた。まだ誰も部屋に来ないうちに、ウルスラは丹念に赤ん坊の体をしらべた。蜥蜴のように青白くぬめぬめしていたが、赤ん坊は五体満足だった。アウレリャノがこの出来事に気づいたときには、すでに家じゅうが人であふれていた。彼はそのどさくさにまぎれて、すでに十一時からベッドにいない兄を捜しに家を抜けだしたが、とっさの思いつきだったので、どうやって兄をピラル・テルネラの寝室から呼びだせばいいのか、考えている余裕がなかった。ふたりだけの合図の口笛を吹いたりしながら、何時間もその家のまわりをうろついていたが、間もなく夜が明けそうになったので、やむなく引き返した。母親の部屋で無邪気な顔をよそおいながら生まれたばかりの妹の相手をしていると、やっとそこへ、ホセ・アルカディオが顔を出した。

 ウルスラが四十日間の静養を終えるか終えないかに、ジプシーたちが戻ってきた。それは、氷を運んできたあの香具師や奇術師だった。メルキアデスの一族とはちがって彼らはほどなく、自分たちが進歩の使者でも何でもなくて、単なる慰安の行商人にすぎないことをさらけだした。氷を持ちこんだときでさえ、それが人間生活にどれほど役立つかということには触れないで、ただ珍しい見世物として披露したはずである。今回は、彼らはほかの種々雑多な道具といっしょに、空飛ぶ魔法の絨毯を持ちこんでいた。だがそれは、交通の発達に欠くべからざる手段としてではなく、あくまで一個の娯楽品として提供された。もちろん、村人たちは無けなしの金の小さな塊を掘りだしてきて、村の家々の屋根の上をあっという間にひと回りする空の旅を楽しもうとした。村じゅうが上を下への騒ぎで見とがめられることのないのをこれ幸い、ホセ・アルカディオとピラルは何時間ものんびり楽しんだ。大勢の人間にまじってむつまじい恋人同士らしく振る舞っているうちに、ふたりは、愛というものは夜の忍び逢いの奔放だがつかの間の喜びよりも、もっとしっとりとした、深い感情なのかもしれないと思うようになった。ところが、ピラルがこの楽しさをぶちこわしてしまった。よく考えないで、いきなり度肝を抜くようなことを口走ったのだ。「あんたもう一人前ね」。自分の言おうとしていることが相手に通じないのを見て、噛んでふくめるように言った。

「あんたに、子供ができる、ってことよ」

 それからの数日、ホセ・アルカディオは一歩も外へ出なかった。台所のピラルのけたたましい笑い声を聞いただけでその場を逃げだし、ウルスラに祝福されて、錬金術の器具がかつての生気を取り戻している工房に身をひそめた。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは喜んでこの放蕩息子を迎え入れて、ようやく手をつけていた賢者の石の探究の手ほどきをした。ある日の午後、操縦係のジプシーとうれしそうに手を振る数人の子供たちを乗せて、空飛ぶ魔法の絨毯が工房の窓をかすめた。息子たちが夢中になっていると、そちらを見向きもしないでホセ・アルカディオ・ブエンディアが言った。「せいぜい楽しませておけ。わしらは、あんなみっともないベッドカバーよりもっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせるから」。興味ありげな態度をよそおってが、ホセ・アルカディオは〈哲学者の卵〉の力が理解できなかった。食欲も睡眠も失って、時おり仕事に失敗した父親が見せるような不機嫌な状態に陥った。その変わりようがあまりにひどいので、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは錬金術に夢中になりすぎたせいだと判断して、彼から工房で働く義務を免除してやった。アウレリャノだけははっきりと、兄の悩みの原因は賢者の石の探究にはないことを知っていたが、それでも兄自身の口から告白を引きだすことはできなかった。兄は、それまでの率直さを失っていたが。何でも打ち明ける気さくな人間から、内にこもりがちで反抗的な人間に変わっていた。孤独にあこがれ、世間にたいする激しい憎悪の念に燃えるホセ・アルカディオは、ある晩、いつものようにベッドを離れた。ただし、ピラル・テルネラの家には足を向けないで、夜市の人ごみにまぎれ込んでいった。いろんな種類のからくりが並んでいるなかを、とくに何かに興味をそそられることもなくぶらぶらしていると、全然かかわりのないあるものが目にとまった。それは、ビーズ玉をたくさん身につけた、ひどく若い、子供といってもいいようなジプシーの娘だった。ホセ・アルカディオがこんなにきれいな女を見るのは初めてだった。娘は、両親にそむいたために蝮にされた男、という気味の悪い見世物にたかった群集にまじっていた。

 ホセ・アルカディオはそんなものには目もくれなかった。蝮男にたいするくだらない質問が続いているあいだに、彼はジプシー娘のいる最前列まで人ごみを掻きわけていき、その後ろに立った。そして、娘の背中にぴたりと身を寄せた。娘は離れようとしたが、ホセ・アルカディオはますます強く体を押しつけた。それで娘は感じた。急におとなしくなって彼にもたれ、隠しようのないあの逸物の存在が信じられないのか、激しさと驚きと不安に震えていた。それからやっと振り返って、おののくよう微笑を彼に送った。ちょうどそのとき、二人のジプシーが蝮男を檻に入れてテントの中へ運びこみ、見世物の采配を振るっていたジプシーが声を張り上げた。

「さあて皆さん、いよいよこれから、見てはならぬものを見た罰に、百五十年ものあいだ毎夜、この時間に首をはねられてきた因果な女の、見るも無残な苦しみをごらんにいれまぁす!」

 ホセ・アルカディオと娘はこの首斬りを見なかった。娘のテントへ行って、服を脱ぐのももどかしく激しいキスを交わした。ジプシーの娘は重ねていた胴巻や糊のきいた何枚ものレースの下ばき、用もない針金入りのコルセットや鈴なりのビーズ玉などをかなぐり捨て、一糸まとわぬ裸になった。それはまるで、もの憂げな、かわいらしい子蛙だった。胸はふくらみ始めたばかりだし、腿はやせてホセ・アルカディオの腕ほどの太さもなかったが、かぼそさをつぐなって余りある気丈さと温かみがそなわっていた。ところが、ホセ・アルカディオのほうが娘にこたえることができなくなっていた。というのは、二人がいたのは一種の共同テントのなかだったので、ジプシーたちがサーカスの道具をかかえて通りかかったり、商売の話をしたりするだけでなく、ベッドのわきに立って賭博のさいころを振ったりさえしたからだ。中央の柱に吊りさげられたランプであたりも明るすぎた。愛撫が一時とだえた。裸のホセ・アルカディオがどうしていいかわからずにベッドの上で長ながと横になってからも、娘はしきりに彼を元気づけようとした。しばらくして、みごとな肉づきをしたジプシーの女、この一座の者ではないが、さりとて村の人間でもなさそうな男を連れてはいって来て、ふたりしてベッドの横で服を脱ぎはじめた。女はなんの気なしにホセ・アルカディオのほうを見た。そして、悲愴なまでに熱っぽいまなざしで、じっとおとなしくしている彼の逸物をとっくりながめてから叫んだ。

「あんた、この子を傷にしちゃだめよ!」

 ホセ・アルカディオの相手がそっとしておいてくれと頼むと、ふたりはベッドのそばの床に横たった。他人の情欲がホセ・アルカディオの熱を掻きたてた。最初の接触で娘の骨はドミノの箱がきしむような乱れた音を立て、今にもばらばらになるのではないかと思われた。その青白い皮膚から汗が吹きだし、目は涙であふれ、全身から切ない声とかすかな土の臭いが立ちのぼった。しかし、娘は驚くべき気丈さと勇気と衝撃に耐えた。ホセ・アルカディオは恍惚となり、体が宙に浮くのを感じた。取り乱した口から情愛にみちた卑猥な言葉がほとばしり、いったん娘の耳にはいってから、その言葉におきかえられてふたたび口を突いて出た。木曜日のことである。そして土曜日の夜、ホセ・アルカディオは頭に赤い布を結んで、ジプシーたちにまじって村を去った。

 彼の姿が見えないことに気づいて、ウルスラは村じゅうを捜して歩いた。すでに引き払われたジプシーのキャンプには、まだ煙の立っている焚き火の灰にまじって残りのものが散らかっていただけだが、そこらでごみのなかのビーズ玉をあさっていた男が、昨夜、にぎやかな見世物の一座に加わって蝮男の檻をのせた車を押している息子さんを、確かに見かけた、と教えてくれた。「ジプシーの仲間になったのよ、あの子は!」失踪を知っても少しも驚いた様子を見せなかった夫に向かって、ウルスラは大きな声でそう言った。

「けっこうじゃないか」と、何度も何度もすりつぶして火を入れ、もう一度すりつぶした材料をさらに念を入れて薬研ですりつぶしながら、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは答えた。「これで一人前になれるだろう」

 ジプシーたちがどっちへ向かったかを、ウルスラは聞いてまわった。教えられた道をたどりながら、さらに人に尋ねた。そして、まだ追いつけると思って村からどんどん離れていくうちに、とうとう遠くまで来すぎたことを知って、帰る気をなくした。ホセ・アルカディオ・ブエンディアは妻のいないことに気づいたのは、家畜の糞の上で温めていた材料をそのままにして、声を泣きからしている幼いアマランタの様子を見に行った夜の八時のことだった。二、三時間後に、十分な支度をととのえた男を呼び集めた彼は、乳をやってもよいと申し出た女にアマランタをまかせ、ウルスラのあとを追って草にかくれた細い道の向こうに消えた。アウレリャノの一行の中にいた。夜の明けるころ、それまでに聞いたことのない言葉をしゃべるインディオの漁師たちから、誰も見かけなかった、と教えられた。捜索は三日間にわたって続けられたが徒労におわり、一行は村に帰った。

 何週間ものあいだ、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはすっかり気落ちしてしまっていた。まるで母親のように、アマランタの世話をした。お湯に入れ、着替えをさせ、一日に四回は乳をもらいに連れていき、ウルスラさえしなかったことだが子守り唄を歌ってきかせた。あるとき、ウルスラが帰ってくるまでと言って、ピラル・テルネラが家事の手伝いを申しでた。不幸な事件によってその不思議な勘がますます冴えたものになっていたアウレリャノは、女がわが家へはいって来るのを見たとたん、はっと思いあたるものがあった。よくはわからぬながらも、兄の出奔やその後の母の失踪はこの女のせいだと思ったので、口ではなく態度で容赦ない敵意を示した。そのためか、女はそれっきり家へ来なくなった。

 時がたつにつれて万事が平常に戻った。ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその息子はいつとはなしに工房に帰って、埃をはらい、窯に火を入れて、牛馬の糞の床に何カ月も前から眠っていた原料を、ふたたび辛抱づよくいじり回すようになった。柳を編んだ小さな籠に寝かされているアマランタまでが、水銀の蒸気が立ちこめた狭い部屋のなかの、父と兄の熱心な仕事ぶりを不思議そうに見ていた。そして、ウルスラが出ていってから数カ月たったころから、妙なことがつぎつぎに起こりはめた。長いあいだ戸棚に置きわすれていた空っぽのフラスコが、どうにも動かせないくらい重くなった。水を入れて仕事台にのせておいた鍋が、火の気もないのにぐらぐら煮たって、やがて跡かたもなく蒸発した。ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその息子は、喜びと驚きの入り混じった複雑な気持ちでそれらの出来事を眺め、うまく説明はできなかったけれども、物のお告げと解釈した。ある日のこと、アマランタの籠がひとりでに動きだし、仰天して急いで取り押さえようとするとアウレリャノをしりめに、部屋をぐるりとひと回りした。しかし、父親は顔色も変えなかった。待ち受けていることが間もなく起こると確信しながら、籠をもとの場所にかえし、机の脚にしっかりと結びつけた。そして、アウレリャノの耳に聞こえるような声で、こうつぶやいた。

「たとえか神を恐れなくても、金気のものは恐れなきゃいかん」

 失踪からおよそ五カ月たったころ、ひょっこりウルスラが戻ってきた。村では見たこともない新しい型の服を着て、すっかり若返り、いかにも元気そうだった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはショックに耐えるのが精いっぱいだった。「これだ!」と大声をあげた。「こうなると思っていたんだ」。嘘でなくそう思っていた。というのは、何時間も部屋にこもって原料をいじり回しているあいだも彼は、その心の奥底で、自分の待ちのぞむ奇蹟が、賢者の石の発見でも金属に生命を与える霊気の作用でもなく、また、家じゅうの蝶番や鍵を黄金に変える力でもなくて、たったいま起こったこと、つまりウルスラの帰宅であることを祈っていたからだった。しかし、彼女は夫ほどうれしそうな様子は見せなかった。一時間ほど留守にしていただけだとでもいうように、普段のキスをして言った。

「ちょっと外をのぞいてみてよ」

 通りに出て大勢の人間を見たホセ・アルカディオ・ブエンディアは、しばらく動揺からたちなおれなかった。それはジプシーではなかった。すなおな髪と黒っぽい肌をし、同じ言葉をしゃべり同じ悩みを訴える、自分たちと少しも変わらぬ男女だった。彼らは、食料を積んだ騾馬や、ふだん見かける無愛想な行商人から売り歩くごくありふれたものだが、家具什器のたぐいをのせた牛車を引いていた。彼らがやって来たのは、毎月のように郵便物が届けられ、いろいろと便利な機械が知られている、徒歩で二日がかりの低地の向こうの土地からだった。ウルスラはジプシーたちには追いつけなかったが、偉大な文明の利器を求めて失敗に終わったあの遠征で夫が発見しそこなった道を、偶然見つけたのである。


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