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三人称の強さ、一人称の脆さ

最近、noteでいろんな記事を読んでいて、楽しむ小説の幅が広がった。

村上春樹チックの文体で、あるいは一人称主人公の内観描写ばかりをつらつらかきつらねて、心情を表現している小説をよくみかける。

その文章の、文学の飛沫のようなものが(少なくともぼくには)伝わってこない。なぜだろうと思った。

リアルの生活で文通をしている。日本ペンフレンドクラブ(PFC)で文通をしているのだが、その女性は、三度乳がんの手術をした。そういって辛いけれど頑張ります。そう手紙に心情を吐露する。

「辛い」とか「悔しい」とか「人生の焦り」だとか、あるいは反語で「がんばらなくっちゃ」だとか「あなた様もぜひお体には」だとか、きれいな言葉で並べられるのだが、なんだか、まるでどこかの詩人の文章を借りてきたような、借りモノのことばのようで、ぼくの心に響かない。ぼくの心の感度が悪いのだろうか?

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このnoteで小説を書いている記事にもまったくおなじことが当てはまっていて、「私」「ぼく」が「彼女」や「あの人」との気持ちが自分のなかで消化されない、できないモヤモヤ感。それがぼくに伝わってこない。

当たり前だが小説家は、ことばのペテン師だ。余命数ヶ月の主人公を描くのに、筆者が癌の末期である必要はない。リストカット癖(症)だって況んやだ。だが優れた小説を読むと、まんまと騙されてしまう。

外観描写が要らない、「会話」のみで物語が楽しめるライトノベルは別物として、文通にしろ、小説にしろ、三人称の外観描写がすんごく必要なんだな、と最近思った。

病院の建物のなかがどうなっているのか。個室なのか、手術台に寝そべると、上には何が見えるのか? 窓際にどんな花が飾ってあるのか? 病院食はなんだったのか? 手術の日の外の天気は気温はどうだったか? その天気や気温で気分は変わったのか? 医師はどんな人柄なのか? 誰が看病に来るのか? こないのか? ナースボタンですぐ看護師は駆けつけてくるのか? 消灯時間はいつなのか? 消灯するとどれくらい部屋は暗くなるのか? するとどんな気分に陥るのか? 朝目覚めるとまず何を見るのか?

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他者に自分が見たもの(想像した物語)を、伝わるようにかく。むずかしい。と思った。

たしかに、一人称は「ぼく」「私」で、心情、感情や、回顧あるいは状況までを展開することができる。だがそれは諸刃の刃に似ていて、伝わっているのか? だれが判断するのか? 読者だ。

だが、三人称、外観描写は、六本木の森ビル、上野動物園、つぶれたコカコーラの缶、朱色の発煙筒を縮めたような筒状のナースボタン、これらは圧倒的な「物語の実在のモノ」として読者に伝わる。

いいテーマで書いているのになぁ。主人公がだらだらと喋るだけでコッチに伝ってこないんだよなァ(ぼくがいえたギリではないんですが)。と思いながらnoteの小説の記事を読んでいるこの頃である。

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