ショートショート 地下

 どうせ振り返ることのない後ろ姿に、とびきりの笑みでお辞儀して、俯きざまにため息をひとつ。

 この業界にメーカーの直営店は少なく、品揃えで大差をつけることは難しい。
 よって、顧客を勝ち取るために最も力を入れるべきなのは、我々ホールスタッフの接客態度である。というのが、この店の方針だ。
 でも実際のところ、誰も彼も気にしているのは、くるくる回る数字の行方だけ。新調したオレンジのリップになんて目もくれない。せいぜい、勝って上機嫌な薄毛で小太りの中年男に「君、可愛いね。AKBにいた?」なんてありがた迷惑な口説き文句を浴びせられるのが関の山だ。
 まぁここにいるのは店側も含めて、社会に敗北した人間ばかりだし、腹いせの罵詈雑言を浴びるのはもっとごめんだから、結局へらへらしておくのが一番の得策なのだと思う。
 それに何より嫌なのは、死角なく配置されたカメラで、なぜかわたしたちの動向までご丁寧に監視している悪趣味な店長に、全スタッフが身に付けたインカムでいちいち小言を言われること。だから、顔を上げた先にやっぱり誰もいなくたって、今日もわたしは笑うのだ。
 重い足を引きずって歩みを再開した、ちょうどその時。ふいにそのインカムから、わたしを呼ぶ声が、店内の喧騒を割って耳の中へ直接轟いた。ややつんのめりながら足を止めると、その拍子にサイズの合わないブラウスの下で、冷や汗が肌を伝い落ち、ぞっと震えが走った。若干長めに立ち止まっていた自覚はあるが、目をつけられてしまったか。
 左耳に意識を集中し、後に続く言葉を固唾を呑んで待つ。やがて聞こえたくぐもった音声を、脳が処理する数秒の間に、人々の欲に満ちて鬱屈とした、ここ地下一階を這いずっていたわたしのテンションは、ビルの屋上をも突き抜けて一気に空の高みへと舞い上がった。なんていいタイミングだろう。
 わたしは今度こそ心からの笑みを浮かべると、ミニスカの裾を華麗に翻し、フロアに背を向けた。

 パチンコ店員は静寂に焦がれている。
 玉とメダルが常時滝のような轟音を立てながら流れ落ち、店内BGMを完全に打ち消す勢いで遊技台はそれぞれの主題歌を高らかに奏で、それを上回る爆音でアナウンスが響き渡る。男性キャラクターの渾身の叫びや女性キャラクターの甲高い嬌声、何らかのモンスターの咆哮、打撃、銃撃、爆発音。そしてひとたび数字が揃えば、あたりを劈くような効果音の嵐。それらすべてを通り越し、無理やりにでも耳に届こうとするインカムの声。
 古くは人に限らず、物や場所や過去など、今ここにない何かを欲する気持ちは、全部恋と言ったらしい。

 ネオン煌めく歓楽街のような薄暗いスロットコーナーを抜け、従業員専用の通路に体を滑り込ませる。すぐさまイヤホンを引っこ抜くと、背後で鉄の扉の閉まる音が鼓膜を直に震わせ、それきり大きな音はしなくなった。ここから店内の喧騒を聞いていると、深い水の底に潜っているような気になる。備品に圧迫された狭苦しい廊下を進むにつれ、騒音はますます遠ざかり、天井の高いエレベーターホールに出ると、ほとんど何も聞こえなくなった。
 ローファーの踵がコツコツと小気味よく響く。だらしなくコードが垂れた胸元からため息が込み上げる。耳を澄ませて、自分の呼吸の音を確かめた。地下一階、季節を問わず漂う冷気が、体内にすっと広がっていく。ここは静かだ。四方を囲む白い壁は、蛍光灯の明かりを反射して、やや黄緑がかって見える。
 エレベーター向かいの休憩室に到着すると、わたしは廊下のふちに立ち、片足を大きく後ろへと蹴り出した。
「休憩いただきます」
 その一言のためだけに、わざわざ靴を脱ぐのが面倒なので、こうして身を乗り出し、挨拶ついでに軽く中を見渡すのが習慣になっていた。室内の人影を数えていくと、ひとつ、ふたつ。やはり足りない。
 それだけ確かめると、はーいだかおーいだか気のない返事をこちらも無視して、ぴょんと廊下へ跳び退った。
 休憩室の扉は観音開きだが、片側はいつも閉まっていて、そこに無数のタイマーが貼られ、ばらばらに時を刻んでいる。白の四角いフォルムに、灰色の丸いボタンが3つ。同ビル8階のダイソーの商品だ。わたしも自宅にひとつ持っていて、見るたびに仕事が頭をよぎるので辟易していた。
 動いていないものを探して、凄まじい勢いでボタンを連打する。安っぽい機械音が一回一回、律儀に廊下に木霊する。ようやく20分にセットしたところで、即座にSTARTの文字を押し込み、わたしは廊下を先へと急いだ。
 向かうは突き当たりの非常階段。待ちわびた静寂との再会を前に、胸が高鳴る。そこにはきっと彼がいるけれど、そちらはあくまで偶然である。

 ポケットをまさぐりながら防火扉を肩で押し開け、踊り場の方を見上げると、そこにやっぱり彼がいた。「しゃがみ込み禁止」の貼り紙の下で、堂々とヤンキー座りをかまし、壁に背をもたせかけている。
「お疲れ」
 ちらっとこちらを見下ろし、また手元のスマートフォンに目を落とす。いつも通り、煙草を挟んだ指で、器用にゲームをやっていた。わたしの方もいつもの通り、相手が伏し目がちなのをいいことに、こっそりとその顔を盗み見る。
 バイト歴は四年も上だが、歳は二つしか変わらない彼は、あどけなさの残った顔立ちをしていて、睫毛がうんと長い。ところが顔に似合わず、可愛げのないアメリカンスピリッツを愛煙している。さらに、長い睫毛が影を落とすどこか物憂げな眼差しで、未だ真剣にパズドラをやっているという、この二転三転するギャップが、この頃どうにもわたしの興味を惹きつけて止まなかった。
「お疲れさまです」
 階段を上り、膝の高さのドラム缶を挟んで、斜向かいに立つ。灰皿代わりのそれには水が張られていて、波のない水面に、様々な銘柄の吸い殻が浮かんで静止している。
 わたしの足音が止むと場には沈黙が流れ、彼の指先から立ち上る煙だけが、唯一時間の流れを物語った。頭のてっぺんから包み込むように降る換気扇の音、胸に垂らしたイヤホンの先端で時折鳴る雑音、そして煙を含んだ息遣いだけが聞こえる。
 彼はそれ以上、何も言う気はないようだった。緊張がほぐれていくのと同時に、反対側でまた別の焦燥感がシーソーのように持ち上がる。そわそわと彷徨い始めた指先が迷子にならないよう、ライターを擦り、わたしも煙草に火をつけた。
 肺に煙を充満させると、胸の中が安堵に満ちていく。煙草を吸うのはため息をつくのによく似ていて、吐き出した煙がゆらゆら揺れながら上へ上っていくのを見ていると、つい物思いに耽ってしまう。

 パチンコの遊技台は、それひとつで駆動するわけではなく、玉やメダルを循環する配管、電力を供給するコード、精算機にデータカウンターに呼び出しボタンと、裏では様々な機械と繋がっており、これらの設備を前提とすると、広大な面積が必要になる。国道を走っていると、大型店を見かけることがあるだろう。繁華街の間に窮屈そうに佇んでいても、入ってみれば地下に何フロアと続いているのはよくあることだ。
 そんな遊技台が背中合わせとなり、さらに向かい合って通路を成す店内は、わずかな距離でも大きく回り道しなければたどり着けないことが多々ある。そこで基本的に我々ホールスタッフは、台の種類やレートごとに細かく区分けされたエリアに一人ずつ配置され、呼び出しに応じたり掃除をしたりしながら、担当エリア内を台の中の数字よろしく、ぐるぐるぐるぐる回り続ける。
 エリアが隣接していれば、すれ違って言葉を交わしたり、ときには手を貸したりすることもあるのだが、1パチ担当のわたしと20スロ担当の彼では、閉店まで後ろ姿さえ見かけないなんてこともままある。
 それでも、時折インカム越しに聞こえてくる掠れた声に、ひそかに耳を澄ます毎日を、わたしは送っていた。

 はあ、と大きなため息とともにまた煙を吐く。
 後頭部を壁に預け、だらしなく緩んだ目でぼーっと煙を追いかけていると、視界の隅に、ぷかり。白い輪が浮かんだ。
「あ」
 思わず声に出てしまった。すると続けて、足元から含み笑いが聞こえてくる。はっとして見ると、彼はスマホをいじる手を止め、こちらを見上げていた。
 視線がかち合った瞬間、今度ははっきりとした笑い声が階段中へと響き渡った。仕事中に見る貼り付けた笑みとはちがう、くしゃくしゃの笑顔に目を奪われたが、相手の口からあふれた煙に霞んでしまった。
「あはは、吐いちゃった。もったいない」
「ごめんなさい」
「できない?」
 彼はそう言って、今度は悪戯っ子のように微笑んだ。
「できないです」わたしは言った。
「どうやるんですか?」
 彼とこんなに長く言葉を交わすのは初めてで、尋ねる声は微かに震えてしまった。そんなわたしをよそに、彼の語り口は穏やかで、当然のことながらインカム越しに聞くより耳触りがいい。
「肺に入れないで、喉に溜めるの。舌を奥に引っ込めて、前に出すときにちょっとだけ吐く」
「……変な顔しちゃいそう」
「あは。おれの顔も変だった?」
 再び慌てたわたしが必死になって弁解すると、彼は愉快そうに肩を揺らして笑った。それから、揶揄ったことを詫びるように長い睫毛を伏せてこう言った。
「やってみる? 見ないでおくよ」
 首を傾け、煙草に口を寄せる様子が、まるでキスしてるみたいだと思った。
 うっかりそんな想像をしてしまったばかりにそれ以上見ていられず、逃げるようにそっぽを向き煙草をくわえる。気を落ち着かせようとたっぷり肺まで吸い込んでから、こうではないのだったと思い直し、わたしは一度煙を吐き切って、ひかえめな深呼吸をした。
 言われたことを思い出しながら、背を向けたまま、変顔も厭わず幾度か挑戦してみたけれど、ふかすことしかできなかったあの頃の感覚はさっぱり思い出せなくなっていて、煙は細くたなびくばかりだった。
「難しいです」
 俯き加減に煙草を吸っていた彼が、顔を上げてこちらを見る。煙が染みたのか、眉間に皺を寄せ、目を細めた表情がひどく煽情的だ。
「そう?」
「舌を出すっていうのがよく」
 彼は煙草をくわえたまま、くぐもった声でふうんと呟いた。それからいとも簡単に、またひとつ輪っかを宙に浮かべた。あたりの空気を巻き込んで、回りながらゆっくりこちらへ向かってくる。
 徐々に輪郭が曖昧になり、ちょうどわたしの頭上で溶けるように消えたのを、最後まで見届けてから視線を戻すと、彼もこちらを見ていて、数秒見つめ合う形になる。
 沈黙を破って、ぽつりと彼が言った。
「天使みたいだね」
「え? ……ここ地下ですけどね」
「あは。いいじゃない」
 気恥ずかしくなり目をそむけると、今度は眼前に輪が飛んできて、レギュラー煙草の苦い香りがふわりと頬をくすぐった。
 文句を言おうと向き直ると、彼は笑っていた。今までに見たどれともちがう、その笑みを見て、わたしは言葉を失った。
「舌の使い方、教えてあげようか」
 そのとき、けたたましい機械音が鳴り響いた。わたしたちはそれぞれ時計に目をやり、それからまた顔を見合わせる。
 彼は最初に見せた、邪気のないはにかみをひとつ寄越してから、吸い殻をドラム缶へ放り、颯爽と階段を駆け下りていった。後ろ髪を引かれる様子は微塵もない。ドラム缶の中にさざ波が立つ。
 去り行く背中にこっそり煙を吹きかけていると、彼は階下で立ち止まり、扉を開ける前に振り返って言った。
「上がったら、駅の向こうのコンビニにいて」
 そして扉が開き、アラームの音量が急激に跳ね上がる。閉じていく隙間に再び吸い込まれていき、やがて遠くの方で止んだ。
 ようやく訪れた完全な静寂の中で、わたしは店内の喧騒に思いを馳せた。

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