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第9回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~飽きるから続いていく~

『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第九回


球を拾いに行った背中は、
すぐさまこちらを振り向いて
卓球台に戻ってくる。
窓からの光が急に視界に入り、
全体的に露出オーバー気味になっていく
部屋の眩しさで視力が冴えていく。
以前にもどこかで見たことがあるような、
既視感を抱いた時に感じる
視界が開けたような明晰さに、
頭まで冴えわたっていく。

「昔の僕より上手いよ」

遠巻きでしか見たことのない彼のことを
あまり深くは知らないが、
こんなに気さくに会話を繰り出し、
何の躊躇もなく
卓球の腕を褒めてくれることに驚く。
ふと、自分も気さくに
ため口で会話していることに気付き

「堀戸さんて入社何年目?」

と、年齢を探る意味で質問した。

「…十年と二ヶ月目」

返答とともに
彼の手から白球が繰り出される。
私より年上ではないかと、
世間擦れした私は律義に恐縮する。
打ち返した球は
ふんわりと宙で弧を描き、
彼の視線がそれを追う。

「これからもここ来ていいですか?」

若干改まって丁寧語で言いはしたけれど、
結局私も躊躇なく
素直に心の声を話していた。

「もちろんどうぞ。
 きっと飽きると思うよ」

彼はそう言うと、小さく笑った。
その言葉に反論する気概は起きず、
むしろ私の心を際限なく落ち着かせた。

彼の声は大きくはないのに、
芯のある音が胸腔を響き抜けて、
意思のある眼差しのように
直接心に作用する。
相変わらず
既視感の原因は思い出せないまま、
時間が白球のやりとりに奪われていく。

ふらふらと
躰の重心が安定せぬまま
力任せに跳ね返した球を
彼が手で受け止めた。
腕に巻かれたスマウォに目を遣り
時間を確認している。

「十分前だし、そろそろ戻ろう」

そう促されて、
戸棚にラケットと球を仕舞いに行く。
ちょっとしか動いていないのに、
足の先から首回りまで、
血流が圧をかけて
巡っていくのを感じる。


階段を降りると
空っぽの食堂を抜けて外へ出た。
十一月末の北風が、
服に籠った熱を背後から奪い去っていく。
その心地好さに輪を掛けるように
高く晴れた空を見上げて、
こういう日常は悪くないなと思った。
それから
堀戸さんの言っていた
「うん飽きるよ」の言葉を思い出して、
隣で真っすぐ前を見て歩いている彼を
ちらっと見上げて、
飽きるから続いていくみたいな
ややこしくて面倒臭い感じ方を
少し理解できそうな気がしていた。

細い公道を渡ると、
目の前に現れた棟の三階にある
全面ガラス張りの
喫煙ルームが視界に入った。
その中に吉岡さんの姿を見つけて、
私は反射的に空中へ左手を伸ばして
大きく振ってみせた。
それに気づいた吉岡さんが
煙草を吸って渋くなっている眉間のまま、
大きな笑顔とともに
こちらへ手を振り返してくれた。
それに気づいて
喫煙ルームにいた他の人達が
一斉にこちらを見下ろす。
手を振ったことを後悔した。

彼らには私と堀戸さんが
どんなふうに映っているのかを
想像しようとしたけれど、
詰まらないことだと思って止めた。

仕事場に戻ってきて、
堀戸さんが手を洗ってから実験室にある
自分の椅子へ戻るのを見届けた私は、
エアコンで暖まり過ぎた室温を
払い退(の)けるようにして
ユニフォームを脱ぎ、
品管の実験室にある椅子へ腰かけた。
脱いだ自分の服からは冬の匂いがした。

それからすぐに
昼休みの終わりを告げる
鐘の音が鳴り響くと、
寝静まっていた技術部に
蛍光灯がパチパチと点いて
それを合図にみんなが動き出した。
大きな欠伸(あくび)と
気怠そうな背伸びが辺りに充満する中、
保護メガネをかけた堀戸さんが、
一番乗りでフライス盤の駆動音を
部屋中に響き渡らせた。


その日はそそくさと仕事を終わらせ
一目散に会社を出ると、
丁度バス停に滑り込んできた
バスに乗ることができた。
この時間帯の車内は、
ダダ混みとまでは行かずとも、
田舎を周回するバスにしては珍しく、
立ち乗車を余儀なくされる。
昼終わりから遣る瀬ない程
あの曲が聴きたくて
たまらなかった気持ちを晴らすために、
腹の前に抱えたリュックから
せかせかとスマホを取り出し、
両耳にイヤホンをねじ込んだ。
Thermistable Incident、
約(つづ)めてサーミスタ。
イケてない約(やく)し方だが
音楽は一貫してクールで壮観極まりない。
十年前に出た2ndアルバムから
『帳(とばり)の係数』をセレクトして
周囲を気にしながら
この場の限界まで音量を上げていく。


ピアノのメジャーコードで始まって、
四拍子目にマイナーコードで
空虚感を置く。
その繰り返し二小節目からは
すぐに知的系なドスの効いた
重低音が鳴り始める。
ベースが哀感を牽引し、
ドラムが日常を刻み始める。
高ぶりをギターが歌い上げ、
そのバックには
常に冷静さに満ちたピアノが
途切れぬ川の流れの様に続流する。
そんな音にボーカルが
わざとかみ合わないようなリズムで
切り込んでくる、
鼻歌を唄うように。
中盤からはそれぞれの音が
束になってうねり出したが最後、
その声は達観した調子で
くまなく流れる音からリズムを取り込み、
そのうねりと一体になって
静かに殷々(いんいん)と叫び出す。
トップギアで演奏されるインストに対して
ボーカルは至ってマイペースで
伸びやかに
そのトルク回転数の
上がり切った音に乗って歌い上げる。



『帳の係数』

イメージだけを飲み込んで
喰って喰って喰って育った
シュルレアリスム
抹茶色に染まった俺の
期待薄なハイスタート
人の死を切り売りして金持ったってよ
不均衡なシーソーゲームに
群がるクズだな おい

テカる集合メディアの意識
擦り切れたって立って奪った
エミュレーション
蜜アサってまったりしてる俺 
もうあっちのもんなんだぜ
躊躇なく続く
アオイ青に迫られたら もう
実際問題いちころなんだ 
活ける刺激の源

プレイフォープレイフォー
滅法弱いように出来てるんだぜ
それでも燃え撃ちゃあの空も夕暮れ
終焉の起源を思い出させてくれる
ハイエンドな構図

ノーと言えよ でなきゃ絶体絶命
間違ってけよ そうでもしなけりゃ嘘
もがいてりゃ それが存在証明か
手垢にまみれた歪(いびつ)な石ころ
帳(とばり)の中を転がってくぜ
そうゆうもんでも
この世界では愛って呼ぶのか?


この曲を何度もリピートし続ける
密やかな行為に没頭する…
エンドレスで一曲をリピート再生して
聴けばいいのだろうけど、
この曲が終わって
次の曲へ移行してしまった瞬間に、
わざわざイヤホンを二回クリックして
前曲に戻るという操作を毎度繰り返す。
何故だか分からないが
自動的にエンドレスで
再生させていると
その曲に瞬殺で飽きてしまうのだ。
バスから電車に乗り継いで
自宅へ帰るまでの道のりを
延々と聴いていた。
この間に見た車窓からの風景や、
今居る仕事場での出来事、
或いは妙に多情多感な今のこころを、
新たにこの曲へ焼き付けていく。

今この瞬間があることの危うさ。
今日出くわした何か。
明日この曲を
堀戸さんに教えたいと思っている自分。
どんな明日も、
すべての今が発現させたものとして
存在していく。
自分の中にあるもどかしい心の活動が
音楽として世の中に存在していることの
有難さに幾度も驚嘆させられながら
生きてきた。
数年前に聞いた時の印象を引きずりつつ、
新たに意味を加え、
解釈も変容していく楽曲に、
自分を投影する。


マンションに着き
帰途の雑踏から遮断された
誰も居ないエレベーターに乗った途端、
膨張し始めるイヤホンの音量に
呆然とする。
十階に着くまでに
イヤホンを外してしまい、
鍵を開けて部屋に入ると、
なんだか夢から醒めたような気分に
襲われた。
もう充分真っ暗な部屋の片隅で、
今朝消し忘れたデスクトップの
電源ボタンが青く光っている。
リュックを下ろし、
ベランダの方へ移動する。

窓を開けると
朔風(さくふう)に成り掛けの
小僧風がびゅうと吹いて
前髪を掻っ攫(さら)い、
物干し竿に引っ掛けてある
タオルや衣類を
ゆらゆらざわつかせていく。
ベランダの左側の壁に寄り掛かって
西空を覗く。
いつもと変わらぬ様子で
赤く輝く観覧車が遠くに見える。
地上を見下ろすと、
斜め向かいのマンションの
一階にあるカフェに
リネンシャツ風のワンピースに
ざっくりとしたカーディガンを
羽織った女性が
一人で入っていくのが見えた。

冷えてきた自分の体に気付いて、
昨日から干しっぱなしの洗濯物を
いそいそと取り込み窓を閉め、
敷きっぱなしの布団の上に
ばさりと放り出す。
その中から洗面タオルを選り分けて
風呂場へと向かう。
脱いだ服を洗濯機に放り込んで
裸になり、
ユニットバスの戸を開ける。
ここのユニットバスは、
便器の蓋以外は臙脂色をした
FRP樹脂で出来ているため、
風呂場のライトが
臙脂色に吸収されてしまうのか、
眩しさを感じさせない
程良い照明加減になるので
私は気に入っている。
タオルを便器の蓋の上に置き、
冷たいバスタブに足を踏み入れる。
鳥肌の立った肢体で体育座りをし、
湯が張り終わるのをじっと待つ。


お金が有るとは言えない暮らしでも、
漸く自立して
生活できるようになったんだなと、
二つ並んだ膝小僧を見詰めながら思う。
その感慨と表裏するように、
楓のことが頭を過(よぎ)った。
妹は元気でやっているのだろうか。
彼女のことを
案じ始めた思考の糸先には、
いつだって過去の記憶が
ごっそりと絡み付いている。
そいつを手繰(たぐ)り寄せようと
もがく程に、
鋭く突っ張る糸が薄い肉に食い込んで、
私の指先を血まみれにしていく。
いつまでこんなことを続ければ、
重たい水底(みなそこ)から
すべてを掬い上げることが
できるのだろう、
そんなにして掬い出したいものの
正体は何なのか。

湯気を湛(たた)えた流水音が
風呂場に響き渡る。
臙脂色をしたバスタブの底に張り付いた
血色の悪い爪先が、
みるみるうちに
熱い湯の中へ埋もれていく。

急速に膨らみ出した湯気とともに、
室内を風呂の湯が満たしていく。
浮力で底から剥された肢体が
膝を抱えたまま水中を漂い始める。

白い皮膚に住み着いていた気泡が、
しゅわしゅわと音を立てて
全身から逃げてゆく。

長い髪が躰の浮遊に
引っ張られるようにして
間緩(まぬる)く靡(なび)きだす。

温かい羊水に満たされた
臙脂色の胎内に守られながら、
ふわふわと飄蕩(ひょうとう)する
肌色の塊。

追憶に縺(もつ)れた脳みそが
後頭部から溢れ出し、
海藻のようにもやもやと揺れている。

終(しま)いには、
躰の中の内臓までもが引きずり出され、
羊水の満ち引きに沿って
ゆらゆらと漂い始める。

外側と自分との境界の役目を
果たしていた皮膚は消え去り、
裏返しになってしまった躰は、
自分というものを
自覚することを諦める。

ただ、内臓の一部分が、
臙脂色の壁と
繋がっているようだということだけを
認識する。


羊水でふやけてゆく内臓の塊は、
消えゆく自己を慰めるようにして、
臙脂色の子宮内で、
あるだけの追憶を

——それすら誰のものかも
判然とせぬまま——

体中に呼び起こし始めた。



【YouTubeで見る】第9回(『ノラら』紗英から見た世界)


【noteで読む】第1回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第8回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第10回(『ノラら』紗英から見た世界)


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