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第7回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~量子力学でどうにかならないんですか~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第七回



トキさんが食器を洗う横で、
田所さんは水をいれたヤカンを火に掛ける。
僕は茶筒と急須とグラスを三つ
お盆に乗せると、
そのまま広間へ行ってエアコンを起動する。
縁側にはガラス戸が付いているから、
涼みながら
外の景色を眺めることも出来るのだが、
照明が反射して
折角の景色には
僕たちの姿も重なって見えてしまう。
春と秋は気候が良いので、
ガラス戸を開け放して食後の夕べを楽しむ。


広間は他にもあって、
台所を出て廊下を進むと
左手に絨毯の敷かれた
リビングのような洋間が見えて来る。
いつもその部屋のドアは開け放たれている。
この部屋には
玄関のすぐ横についているドアからも
入室できるようになっている。

廊下を挟んだ北側の向かいには
十畳ほどの客室がある。
さらに廊下を西奥へと進むと
この広間に出る。
この広間の北側にも襖を挟んで
同じくらいの大きさの広間があり、
襖を取り払えば
大広間にも変身するようだ。

廊下の途中には
扉の付いた入口があるのだが、
そこを開けると
襖で仕切られた北側の方の広間へと
繋がっており、
且つその廊下からは
北側の縁側にも出ることができる。
そこからは、
トキさんの畑や、
遥か向こうに広がる
たわやかな山々を拝むことが出来る。
だが、お茶を飲むのは決まって
南の庭に面した広間だ。


誰も居ない部屋の隅にある円卓の前で
胡座を組むと、
縁側のガラス戸に視線をやった。
照明の光に照らされて
ガラスの中に浮かび上がった
透明な僕と目が合う。
無表情なその僕に重なって、
庭の石燈籠が透けて見える。
いや、透けているのは僕の方か。

——あそこに火を燈したら、
 透けた僕は
 漸く消えて居なくなるだろうか。
 火の明りはどんどん広がり、
 庭中を照らし出し、
 部屋と庭を隔てていたガラスも消え失せ、
 僕は庭にはみ出て、
 空気になり、
 風になり、
 燈火の肥しとなるだろうか——

ガラスの中の僕は、
僕が目を離した隙に、
今にもここを飛び立ちそうなほど、
依然として透け透けで無質量だ。

僕と見つめ合うことのない
余所見しているガラスの国の僕を、
一度でもいいから見てみたくて、
視線を外して横目で見たり、
瞬間的に直視したりしてみるのだが、
ガラスの国の僕は、
必ず僕と目が合って、
同じ表情をし返してくる。

「何してるの?」

突然の声にはっとして振り向くと、
田所さんが襖を薄っすら開けて
顔を覗かせていた。

「びっくりするんで
 音をさせながら入って来てください」

「ごめんごめん。
 なんか堀戸君って
 ひとりでいるときでも
 誰かといるときでも
 変わんないと思ってたけど、
 今は珍しく変わってたよ」

眼鏡のズレた無防備な姿のまま
そんなことを言い終えると、
両手にはそれぞれ
氷の入った器とヤカンを持ったまま、
襖を器用に肘で開けて入って来た。

「涼し~」と言いながら
僕の横に腰を下ろす。
ヤカンの蓋を開けて中を覗き込む。
何かを確認している。
うんうんと中の湯に向って
頷く彼の眼鏡レンズが、
湯気の色と同化していく。

「もういいかな」

田所さんはそう言って、
急須に茶葉を振り入れ、お湯を注いだ。
その音を聞きながら、
僕はいつも
スチーム機能付き遠赤外線ヒーターを
思い出す。
注ぐ音が
スチームを沸かす音によく似ていて
心地いい。

早速歯切れのいい煎茶の香りが
辺りに立ち込める。
茶葉は、田所さんが
五月の初めに実家に帰省した際、
大量に買ってきたものだ。
今淹れているのは、
八十八夜摘みの新茶。
田所さん曰く、
誰が淹れても上手くなるお茶
なのだそうだ。
僕は此処に来て、
田所さんの淹れた煎茶以外
飲んだことが無いので、
判断の仕様が無い。

彼は、トングで掴んだ氷を
グラスに数個ずつ振り入れながら、

「いつも、何かを思い出す寸前なんだよね」

と茫然と呟いた。


「何をですか?」
「わかんない」


あっさりとした返答をし終えた彼は、
真正面にあるガラス戸に映った
自分の顔を見遣った。
いや、硝子の向こう側を
見ているだけなのかもしれない。


「朝起きたら、天井の隅で、
 さっきまで見てた夢の端くれが、
 宙ぶらりんで
 こっちを見下ろしてるんだよ。
 その端くれと目が合った途端、
 ああさっきまでの現実は夢でしたかと
 気付くわけなんだけど。
 その瞬間に、
 端くれは天井の隅と同化してしまって、
 姿を隠してしまう。
 だから、さっきまで見てた現実を、
 ことごとく思い出せなくなるんだよな。
 さらには、その端くれすら、
 どんな形をしてたのかも、
 もう思い出せない。
 ふと気付くと、
 日常でもそんな感覚に陥ってるんだよ」


まるで今日起きた
不甲斐ない出来事を
振り返るかのように、
しみじみと語る。

グラスに入れられた氷たちが、
緑茶になるのを今か今かと待っている。
恒常化した氷雪が、
雪解の雨に焦がれるように。

勿論僕も、夢を思い出せなかったり、
帰り道で見かけた草の名前を
思い出せなかったりした経験はあるが、
田所さんの言うところの
「いつも何かを思い出す寸前」
という感覚には陥ったことがないので、
取り敢えず、
本人に解決してもらう方法がないか探した。

「量子力学でどうにかならないんですか」

この提案以外思いつかなかった。
田所さんは、「ああ、なるほどねえ」と、
茫然とした調子で呟いたあと、
円卓上の急須を持ち上げた。
左手を蓋に添えて、
ぐるぐると円を描くようにして、
中のお湯を回転させている。
いつもの光景だ。
これをすることによって、
茶葉成分の浸出率が
上がったりするのだろうか。
それとも、
お茶の濃さを均一にするためだろうか。
回し終えた急須で、
冷えたグラスに茶を注いでいく。
氷たちは、
しゅわりと気泡を吐き出しながら、
グラスの中を浮遊する。
あか抜けた緑茶の香りを漂わせながら、
グラスを弾く氷の音が、
静かに晴れやかに舞う。

「量子力学するに及ばず、かもな」

田所さんはそう言うと、
ガラス製のマドラーを使って
何かの実験でもやるかのように、
グラスの中を掻き混ぜた。
氷はからんと
澄ました音色を立てながら、
発生した僅かな遠心力に乗って駆け回る。


「『いつも何かを思い出す寸前』に
 させられている理由が、
 その『何か』を探すためにだとしたら、
 もうそれは、目的を果たしてるよな?」


持っていたマドラーを
ボウルの中へ滑らせた後、
ヤカンの残り湯を急須に注ぎ出した。
そんな田所さんの回答を受けて、
僕は率直にこう質問した。

「何故、そんな感覚にさせてまで、
 何かを探させる必要があるんですか」

すると、田所さんは、
急須に注ぐ手を止めて、
「ほら、なあ?」
と言ってぽかんとしている。


我に返ったのか、
ヤカンを鍋敷きの上に置くと、
彼はこう続けた。


「使役になっちゃうんだよな、動詞が。
 探させられてんだよな、何者かに。
 サルも鳥も、庭の木も。
 そんなことができるやつって、
 何者なんだよ」

彼が今言った、
ちょっとロック調のことばを、
僕は、なにかの歌詞みたいだと思った。
この前、紗英さんに借りたCDの中に
あったような気もした。
なんて名前のアーティストだったのか
思い出そうとしていると、
また田所さんが喋り出した。

「そもそも『いつも何かを
 思い出す寸前にさせられている』
 っていう前提自体、
 自明の理でもないわけだ。
 五感を刺激されて得た情報をもとに、
 思考が始まり、
 いくつもの実験や観測を経て、
 世界に繁茂(はんも)する
 神算鬼謀(しんさんきぼう)を
 見つけていくことが、物理学の本性だ。
 だから、人間が認識できない事象は、
 学問にすらなれない。
 過去から未来にかけての
 どの時点にも生まれたことのない人間Aの
 人となりについて、
 調査したり証明したりなんて
 出来ないように。
 あらゆる宇宙の事象を見破るために、
 超ひも理論にまで行き着いたはず
 なんだろうけど。
 今言った『あらゆる宇宙の事象』
 という文句すら、
 所詮僕の寝ぼけた脳内での話なんだよ。
 てごしらえの尺度でもって、
 事象を計測してるんだもの。
 そんな覚束ないものを片手に、
 突き詰められていく宇宙は、
 人間が思うようにラッピングした
 箱の中に納まっているものでしか
 ないんじゃないのか。
 目の前に立ち開(はだ)かる山の頂上に
 辿り着くためには、
 色んな登山道があるのに、
 僕は何故だか
 物理学の道を選んでしまった。
 その山の真裏には、
 考古学の道があるかもしれないし、
 すぐ隣には
 アートの道があるかもしれない。
 どの道を選んでも
 辿り着く場所はどうやら同じだろう。
 だけど、今歩んでいる坂道が、
 いずれ頂上に辿り着いたとしても、
 その登って来た山自体を、
 みんな間違えていたとしたら…
 認識することを繰り返していくことで、
 何とか認識を繋いでいる、
 もしくは、観測した振る舞いすら、
 予測した振る舞いでしかない——
 なんとも
 心許無い登山道な気さえしてくるんだ——
 概則をすら意図するから、
 逸脱してしまいたい衝動に
 駆られるときがある。
 ましてやあまりにも
 変化のスピードが速すぎるこの時の中で、
 牛歩にも似たのろさで
 掘りすすめられる学問を
 やっていても意味がないのではないか
 とさえ思えるときがある」


田所さんは、
縁側のガラス戸に映る
自分の風体を見詰めていた。
彼の上唇両端に生え始めている、
生硬(せいこう)な不精髭が目に付いた。
僕は、半分無意識に、
目の前にある汗をかいたグラスの表面を
人差し指の爪で拭っていた。

「蝶の研究をしてて、
 そういうこと思ったりしないの?」

田所さんの声に
再び視線を上げるのと同時ぐらいに、
部屋の襖がすーっと開いた。
片付けを済ませたトキさんが入って来る。
トキさんありがとう、という
田所さんの口癖を受け、
彼女は
「こちらこそさま。では、いただきます」
と言い、
冷えた緑茶を僕らに向けて持ち上げた。
程なく僕らは
緑茶を喫(きっ)し、
鼻に抜ける無垢な味わいに暫く浸った。

トキさんが持って来てくれた
平たい塩ふき昆布を一枚齧(かじ)る。
爽快なしょっぱさで口を窄めたところに、
段々と昆布のあまじょっぱい旨味。


冷茶を飲み干してしまった僕は、
二番煎じを一杯淹れた。



【YouTubeで見る】第7回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第6回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第8回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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