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第8回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~moons、上空の月と、地上の月と~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第八回



「今日は満月かしらねえ」

外を見ると、
アパートの頭上に
いつの間に現れたのか、
山吹色の丸い月が、
ぽかんと浮かんでいた。

トキさんは空を覗き込むようにして
繁々と外を見ている。
田所さんも月を覗きながら

「電気消してみる?」

と独り言のように言いこぼし、
唐突に円卓上にあった
ライトのリモコンを操作した。

すると途端に
さっきまで居たガラス戸の中に映っていた
僕らの亡霊は姿を消し去り、
くっきりとした庭の景色が飛び込んできた。

静寂を備えた月明かりと、
アパートの住人の息づかいが、
同じ黄色い光となって、
部屋に佇む僕らの側面を照らし出す。

僕は、澄んだ月をまじまじと見ながら

「まだ、ほんの少し欠けて見えます」

と答えた。
トキさんは、月を見詰める目を細めながら

「うん、たしかにまだちょっと
 満月より細いわねえ」

と穏やかな口調で言った。
そのままぼーっと外の景色を眺めていると、
田所さんが、部屋の明りをパっと点けて、
トキさんにこう言った。

「ところでmoonsのところは
 結局どう訳したの?」

急に明るくなった部屋のせいで、
トキさんは目をすくめながら
「あら、よく覚えてるわねえ」と
田所さんを振り返って話を続ける。

「結論から言っちゃうと、
 結局あそこのmoonsは、
 金貨って訳すことにしたのよ。
 たくさんの月の欠片たちが
 箱の中から溢れ出ているイメージなの。
 たしかに衛星だとか、
 たくさんの月だとかって読むほうが、
 綺麗なんだけど…
 でもやっぱり、
 場面的にも金貨が
 いいんじゃないかしらと思ったの。
 ちょっと待ってて」

そう言って、
トキさんは北側の広間の襖を開けて、
部屋の隅にあるローデスクの上にあった
一冊の本と眼鏡を手に取ると、
いそいそと戻って来た。
隣にいる田所さんも、
トキさんの捲(めく)る本を
興味津々といった面持ちで覗き込んでいる。

「ここまでぼろぼろに
 なるもんなんだよなあ」

田所さんが感心しきりといったふうで呟く。
僕も初めてこの本を見た時、
本というものはこんな風に
茶慣れするものなのかと
瞠若(どうじゃく)した覚えがある。

小さい頃川辺で、
思いがけず拾ったメノウに
釘付けになったときのように。
深碧色をした装幀も、
角という角は擦り切れてしまい、
中の硬質紙が見えて渋くなっている。
表紙の隅に箔押しされた
題名らしきものも
所々剥げてしまっている。
日焼けして茶色く変色した中の紙からは、
甘い香りが漂ってくる。
どのページも
ふわついてよれよれになっているのは、
きっとトキさんが
何度も繰り返し読んできたせいだろう。

トキさんはそんなことにはお構いなしに、
例のmoonsが出て来る箇所を探し当て、
人差し指で文字をなぞり終わると
眼鏡をずらしながら
顔を上げて話の続きに入った。

「ここね、今アンディの居る場所が、
 お屋敷の地下室じゃない?
 そこには埃をかぶったワインやら
 木箱に収められた葉巻なんかが
 寂々と保管してあるの。
 そんなところから月やら
 衛星やらが見えるかと言われると、
 ねえ?
 でも、金貨なら、
 なんら不自然じゃない気がして。
 月のことをmonaっていうらしいのよね、
 古期英語では。
 Monaって、アンディが
 晩年に過ごしていたコンウォールでは
 お金っていう意味を持っていたらしいし。
 そういうことも加味されているのかも
 しれないわと思って。
 何にしろ、地下室には
 ワインやら葉巻やらと一緒に
 金貨も眠っていたのよ。
 偶然目に留まった金貨の入った箱の中に、
 アンディは再び
 バグロスを見つけたんじゃないかしら」

トキさんの眼が、
次第に燦爛とした彩りに満ちていく。
僕は、円卓上に開かれたページを覗き込み、
さっきまでトキさんが
なぞっていた辺りを目印に、
moonsという単語を探し出す。

I found her who has been floating
amidst glow of moons.

一語一語が型押しされたように
凹んだ印字が、
それだけで
遠い昔に書かれたものなのだなと
印象させられる。

トキさんの眼は、
アンディたちの世界に見入ったまま、
戻って来そうにない。
その文のすぐあとに、
Buglossという単語も見つけた。

トキさんから聞いた話だと、
バグロスはハーブの妖精のひとりで、
アンディが小さい頃、
ダートムーアでよく
一緒に遊んでくれた妖精なのだそうだ。

そもそも、アンディというのは、
この本の主人公でもあり、
作者でもある人物なのだが、
この本に書かれている物語は、
全てアンディが
夢で体験した出来事ばかりなのだという。

トキさんは若い頃
ロンドンに住んでいたことがあり、
そのときに毎週通っていた市場で
仲良くなったおばあさんから、
この本を頂いたのだそうだ。
このアンディ・クックという著者は
作家ではく、
町医者を生業にしていたらしい。
あくまで「らしい」の域を出ないと
トキさんは言っていた。
この本の奥付から分かることは、
Andy Cookeと名乗る人物が、
一九三九年六月に、
自費で出版しているということだけだ。


「月…で、いいんじゃないのかな」

さっきからトキさんの話に
「なるほどね~」と
深く相槌を打っていた田所さんが、
はたと気付いた素振りをしてそう言った。

眼鏡がずり落ちたまま
ぽかんとしているトキさんに、
田所さんは続けて言う。

「なんか小説家って
 よくいろんなものに
 例えたがるじゃない、
 それこそ金貨を月にとかさ。
 でも、単純に月のような光が
 バグロスから発光してただけ
 なんじゃないかとも思った。
 他に考えられるとしたら、
 桃太郎みたいにどこからともなく月が
 ——どんぶらことは言わないまでも——
 アンディの前に現れて、
 パカンと割ったら、
 その光の中からバグロスが現れたとか。
 割れた月の欠片たちを、
 moonsと書いたのかもしれないし。
 どうかな?」

田所さんは「桃太郎」の辺りから、
相好(そうごう)を崩しつつも、
複数形の月と表現した
アンディの真相について
いくつかの仮説を示した。

トキさんは「確かに、そうよね」
と言って、
僕と田所さんとの間に出来た空間に
焦点の合わない視線を向けながら
言葉を続けた。

「そうよ、アンディは
 ほんとに飾り気のない
 率直な文を書くの。
 写実的というか。
 見たまんまを忠実に、そのまんま。
 そうよ、月って、
 そのまんまの月っていう訳で
 いいのかもしれないわ。
 金貨だなんて、
 意訳どころじゃ
 なくなっちゃうわよね。
 読む人が、ここに出てきた月について
 想像すればいいだけの話じゃない」

「At that moment,
 I realized my thought
 fit in with her idea」

僕は英語があまり得意ではないけれど、
田所さんは
円卓上に置かれた物静かな古書を見詰めて、
そんなことを
日本語のアクセントで
口走ったような気がした。
開かれていたページに
書いてあったのかもしれない。
それから田所さんは続けて、

「ユキ兄さんにも、
 この場面でのアンディの真理が
 きっと伝わるよ」

と言い終えると、
いつもの邪気のない笑顔で
トキさんを見詰めた。

「そうね。けどまあユキ兄は鈍感だから、
 こんな箇所細か過ぎて
 読み過ごしちゃうかも。
 ユキ兄に渡す翻訳本には、
 分かりやすいように
 トキ独断の注釈でも
 付けておいたほうが
 いいかもしれないわね」

トキさんはそう言って小さく笑うと、
鼻先に乗っかっていた
華奢な眼鏡を両手でゆっくりと外した。


お茶を飲み終えた三人は、
各々の夜へと帰していった。


【YouTubeで見る】第8回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第7回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第9回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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