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第9回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~音楽の話、真空管アンプの話~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第九回



アパートの自室へ戻って間もなくすると、
一階に住む杉さんの吹く石笛の音が
聞こえてきた。
彼は工場を売却して以来、
趣味の石笛集めに没頭しているそうだ。

僕の勤めている会社から程近い
御鷹岳で採集することが多いらしいが、
最近は清富峡谷での採集に
ハマっていると聞いた。
そこへ行くときは泊り掛けなので、
杉さんが夕食の席にいない日などは、
清富峡谷へ宿を取って
出掛けているのだなと察しがつく。

山奥の誰も居ない谷底で、
人面磐に埋もれながら
石笛をひゅうと吹く杉さんを想像する

——長いことその場所で
 石笛を吹き続けた果てに、
 磐と同化していく杉さん

——何百年か後には、
 磐になってしまった杉さんの口は、
 石笛と同期する

——入山客に向って、
 ただ静かに石笛をぴゅうと吹く杉さん

——幾多の風雨に晒されて、
 風化し砂へと帰していく杉さん

——今度は風に乗ってびゅうびゅうと、
 杉さんは全身で
 誰よりも自由に石笛を奏でる——

ほんの五分程で終わってしまう
杉さんの儚い演奏を聴きながら、
いつも同じ幻想を巡らせた。


僕は自室から
未熟な満月を一瞥すると、
窓を閉めてカーテンを引いた。
部屋の片隅から、
夏の月に似た間接照明の灯りが、
部屋の底をしんと潤す。
エアコンの冷風が、
Z折りになった敷布団の辺りを
飄然と冷やしていく。

壁際のオーディオボードの上では、
夕飯前から暖気していた真空管アンプ達が、
線香花火のように可憐に発光している。
僕は、段ボール箱の中から
いつものドーナツ盤を取り出して
プレーヤーにセットし、レバーを下げた。


ボードの両脇に据えた
ウェバスキンPT-L521が、
何の躊躇いもなく、
部屋の空間に温まった音像を映し出す。
小型スピーカーながらも、
部屋中を使って再現される
腰の据わった音圧が、
オーディオ機器の存在を
忘れさせてしまう。

忽然と僕の体内に出現したアコギの弦が、
豊かに振るえ、
時折混ざるフィンガーノイズに
奏者の息遣いを連想する。

伸びやかに広がった弦の音が
一度目の収束に向かう頃合いに、
ピアノの雫が耀(かがよ)いながら
音の流れに加わる。

暫くアコギと
ピアノのセッションが続いた後、
ベース、エレキが加わり、
盛り上がりまでの兆候としての
高揚感を極限まで深めていく。
音の波が、
はっきりとした意思を表出したとき、
束の間の静寂が訪れる——

そこへドラムのタム回しを発端に、
メロディのビッグバンに向けて
厚みを増した流れが一気に流出し、
感情豊かに加速していく——

最後にはまた、
ピアノとアコギの戯れだけが残され、
音数も減っていくのだが、
曲の入りには
感じ得なかった多幸感を纏(まと)っている。
僕はその余韻に浸る間もなく
ターンテーブルまで針を戻しに行く。


フルオート機能も
ダストカバーも無いこのプレーヤーは、
僕が高校生の頃に、
父親の友人である織部さんから
譲り受けたものだ。
その時一緒に、
フォノイコライザーや真空管のアンプ群、
それにダスティファイのSAN81を
励磁型に改造したスピーカーなんかも
譲ってもらった。

父の部屋の窓から漏れ入る光が、
黄金の入射角を作りながら、
アンプの一群を照らしていた。
黄みがかったシャーシの白さと
父の部屋との境界線が、
眩しく光っていた——

当時の僕は、
バイポーラやFETアンプの製作に熱中する
オーディオ系オタクな高校生でもあった。
所有しているCDの音を、
いかに本質の音に近づけるかという
試行に明け暮れた。
勿論それは、
思い通りにならないと気が済まない
僕の性質に由来する
一種の錯誤でもあると予覚した上で。


それまでレコードや真空管にすら
触れたことのなかった僕は、
今まで親しく話したことがなかった
織部さんから
回路図を見せてもらったり
自作する上での苦労話を聞いたりしながら、
いつのまにか
アナログの音を再現することに
夢中になっていった。


今はもう
ダスティファイの改造スピーカーは、
実家の僕の部屋で
気球柄のバンダナを被って眠っている。
当時貰ったアンプ群も、
その隣の棚の中に置いてきた。

間接ライトに照らされている
目の前の自作アンプを見詰めながら、
今まで聴いてきた
オーディオ機器を思い返す。
静寂を聴くみたいに。

繰り返し繰り返し針を戻す。

音と音の隙間、
そこには存在し得無かった音すらも
選ばれし音とともに
気配として共存している。

アナログの物理的優性を
初めて感得したあの時の衝撃までが
微(かす)かに再現される。

音楽の使者であるアーティストの体温、
楽曲の発する生命力、
存在しないことによって存在するなにか、
もしくはすべて。
僕が作れなくても、
他の誰かによって
音楽は作られ続けるという
フローの中にいても、
この音を聞くと、
僕の存在もひとつの値として、
音楽の生成に作用しているような気に
させてくれる。


思考が眠りにつきはじめた頃、
僕はふと何かを思い立ったように、
バケツへ目を遣った。
無機質なブリキ製のバケツが、
僕の部屋の隅で
空っぽになって突っ立っている。

「なんだっけ」

バケツの底に意識を鎮めながら、
何かを思い出そうとした。


【YouTubeで見る】第9回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第8回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第10回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

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