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第10回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~観察不全、僕が見てると蝶は羽化を選択しない~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第十回



ここへ越して来てからも、
この部屋で
蝶の幼虫を飼育しようと思い、
ブリキの筒型バケツを
ホームセンターで買ったのだった。

実家に居た頃は、
家の生垣にしていたカラタチを刈ってきて
花瓶に差し、
僕の部屋で
卵から成虫へと羽化するまでを、
細切れに観察していた。
幼虫になると活発に頭と脚を動かし、
そこいらじゅうの葉という葉を
喰い尽くしていく。

母は幼虫を家に入れることを嫌がっていた。
何度か幼虫が僕の部屋から逃げ出し、
行方不明になったことや、
花瓶を置いている僕のデスクが、
いつも幼虫の糞塗れだったことも
要因しているのだろう。
申し訳ないと思い、
家の屋上で飼ったこともあったが、
孵化してから二週間後に
居なくなってしまっていた。
鳥に襲来されたのかもしれない。

結局、母の目を気にしながら、
4齢幼虫以前の成長段階の間は、
ガーゼで蓋をした水槽に入れるという
対策をして、
自分の部屋で飼うようになった。

図書館で借りた図鑑などには、
幼虫には5齢まで成長段階があると
書いてあったが、実際はそうでもない。
6齢はもちろんのこと、
7齢もいる。
4齢で成長を止める子もいる。
食べるのが遅い幼虫や、
暴れるようにカラタチの葉を
喰い荒らす子もいる。
大きさも性格もさまざまだ。
小さい幼虫は小さい蝶になる。
同じ種の蝶でも季節によって
翅の色も大きさも違う。

蛹になっても羽化できない子や、
羽化しても、飛び立たずに
僕の指先にいつまでも
止まっている子もいる。

僕は特に、
そういった飛び立たずに
留(とど)まる蝶が生まれた時、
内心では嬉しくて仕方がなかった。
その日から、
動かなくなるまでの十日前後、
僕の服の上を這わせたり、
ハチミツ水を染み込ませた
キッチンペーパーに乗せ、
くるまった蝶の口吻を
楊枝で伸ばして飲ませたりする。
食事に飽きると、
スルスルと揺らぐ翅を背に抱えながら、
僕の作業机を這い始める。
半田ごて、巻きはんだ、
ニッパーやドライバーの乱立する隙間や
その上を、
おちおちと一歩ずつ歩く。
同じ台の上には、
マイクロスコープ、
ゲニタリアチューブ、
ディセクトディッシュとカバーガラスなども
散らかっている。

台の隣の網棚には、
休眠中のプリアンプなどと一緒に、
各国に生息する蝶のフィールドガイド集、
蝶の採集場所をプロットした
A判の地図の塊や
何冊もの自由帳が積んである。

飛ぶことの出来ないその蝶は、
自分が一体何を探しているのかも
忘れたまま、
赤い持ち手のドライバーの上で
鱗粉を震わせていた。


トキさんのアパートに越してきてからは、
裏の畑にある夏みかんの混み枝を
いくらかもらって、
蝶の飼育をしていた。
夏みかんに産み付けられた
アゲハの卵たちは、
台風の襲撃や、
トキさんの手入れなどの淘汰が加わり、
いつもほんの数匹しか
成虫まで辿り着けない。


二年前の春先に、
いつものようにトキさんから
卵の付いた混み枝を分けてもらい、
バケツに活けていたことがあった。
六月に入った金曜日の夕方、
会社から帰宅した僕は、
蛹の頭部周辺が
黒化し始めているのを目撃した。
明日の早朝には
羽化するのではないかと直感した僕は、
明日が土曜日であるために、
四六時中観察できることへの歓びで、
気分が高揚していた。
それと同時に、
何故か底気味悪い暗影が
光を遮るような心持もしていた。

このアンバランスな感覚は
いつものことだった。

幼虫時分の観察は、まだ大過ないのだ。
成長が4齢で止まれど、
7齢まで進もうと、
僕が観察〝し続けてしまった″としても、
無事に蛹化(ようか)するという振る舞いを
見せてくれる個体が大半を占めていた。

だが、
蛹から羽化の段階での継続観察では、
必ず問題が生じるのだった。

その問題にも多少色々と種類があるのだが、
大まかに言えば
羽化不全を起こしてしまう
というものだった。

僕が
〝中断することなく″観察し続けていると、
個体の殻がなかなか割れずに
そのまま力尽きてしまったり、
蛹の腹部がもぞもぞと動き出して
ヤドリバエの蛆虫(うじむし)が
湧いてきてたりと、
翅を広げて飛び立てる蝶が
羽化してくれることはなかった。


そんなことを思い返しながらも、
僕はその日も
ハチミツ水作りに取り掛かった。
羽化してしばらくは
食事も必要ないのだが、
僕は羽化の様子を直接観察できるときは、
餌となるハチミツ水を
作っておくことにしている。
片手鍋にたっぷりの水を注ぎ、
熱めの風呂の湯程度に温まったところへ
スプーンで掬ったハチミツを垂らし、
よく掻き混ぜる。
こんな量を蝶が飲むわけもないので、
冷めたハチミツ水を蝶よりも先に、
まずは僕が飲むことになる。
もしくは僕だけで、
そのすべてを飲み干すことになる。

そうなってしまうことを
回避できる可能性を確保するために、
この日も
定点カメラを据え付けておこうと
決心していた。
幼い頃に自転車乗りの練習に使った
補助輪のような役目をしてもらうために。

勿論、定点カメラを
設置しておいたからといって、
観察を〝し続けている″僕の目が、
正常な羽化の様子を捉えることは
なかった。
だが、子供の頃に撮影した映像には、
必ず正常に羽化する様子が
映し出されていて、
生まれたての翅を悠長に揺らめかせて
飛び立つ場面で締め括られている。

以前、父に
その撮影に使うために拝借していた
カメラの存在を
確認したことがあったのだが、
もうとっくに手元には無いと
言われてしまった。


動画ファイルのプロパティから
カメラのモデルを確認すると、
ドワザのNK800だということが分かった。
だがすでにドワザ自体は、
二十年以上前に
カメラ事業から撤退してしまっていた。
ドワザNK800で検索を掛けても、
出て来るのは中国語で
「UV打印机」などと書かれた
UV印刷機の販売サイトばかりだった。


僕はドワザの他機種も含めて
他のメーカーの機種やスマホカメラ等、
合わせて二十種程度のカメラで
撮影を試みてきたが、
やはり僕が継続観察していると、
総じて羽化に失敗し、
録画された映像も、
僕が観察し得たそれと
全く同じものだった。


ハチミツ水を作り終えた僕は、
結局自分のスマホを
充電コードに繋げて三脚にセットした。
淡い期待はこの日も
裏切られるであろうと予感しながら。
そもそも、
僕自身は一切の観察を止めて、
据え付けたカメラの動画を頼りに
事後観察をすれば、
僕が起床する頃には、
何事もなかったかのように
僕の部屋の中で飛び回る蝶を
目撃することができるのだ。


僕がしようとしていることは
正しいのだろうか——


これは、
継続観察中の僕の脳裏に過(よぎ)る声の
常連だった。



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