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第11回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~"ふつう学級" と 「なかよし学級」~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第十一回


断片的に観察する分には、
蝶は順調に成虫となる。
朝起きて家を出るまでの数十分、
帰宅後に一瞥する数秒、
シャワーと洗濯後、夕食後、就寝前——


このように断続的に観ている分には、
蝶は予想する成長模様とは
大差ない動きを見せる。
それは嬉しいのだが、
ただ断続的観察の場合にも、
不具合と思えるような出来事を
かなり頻繁に経験していた。
時間の経過に蝶の成長が
相対していないのだ。


例えば、就寝前に観た時には
黒化しかけていた蛹が、
朝起きるとまだ擬態状態で、
くすんだ枝色のまま白化した枝に
くっ付いていたりした。
また別の例では、
出社する前に観たときは
丁度終齢幼虫が
どくどくと上下に身を揺らしながら
前蛹(ぜんよう)を経て蛹化するために
脱皮をし始めている段階だったのだが、
帰宅してみると、
蛹の殻はすでに透過して中の翅の色が
透けて見えており、
今にも殻をぱきぱきと鳴らせ始めて
羽化するのではないか
という状況だったりした。

別のある個体は、
早朝に羽化して翅を
乾かしていたかと思ったら、
昼見るとまた蛹に戻っていたり、
また別の個体では、
僕がトイレに行くまでは
6齢幼虫の鮮やかな緑色の体で
バリバリと葉を喰い漁っていたのに、
用を足し終え部屋に戻ってみると、
もう枝の上で蛹と化して
動かなくなっていたりした。


このように断続的観察においては、
図鑑で見かけるような
翅をもった蝶へと羽化はするのだが、
一方向に進む時間軸に
成長の過程が
順を追って紐付いていないという、
例を上げればキリがない程の
不連続する事象を知覚してきた。



僕は蛹の宿るバケツの横で、
胡座を掻いて体勢を整えた。
開け放ったベランダの窓から
玄関横の台所の窓へと、
馨(かぐわ)しい夜風が
無作為に通り抜けていく。
時間は、きっと順調に経過していく。

蛹化してから十五日目の明け方だった。
全身を纏(まと)う殻から身が剥がれ、
殻の透過が完了、
してはくれなかった。

殻は一向に透けてはくれず、
全身はほぼ黒化したままだった。
僅かに頭部が揺れたような気がしたが、
気のせいかもしれないと思った。

窓の外からは
キジバトがデーデポッポーと
喉を震わせながら、
露わな夜明けに朝のお面を被せにかかる。
台所の蛇口を射し照らす、
澄み切った陽の光が眩しかった。

三脚に差したスマホを取り外したついでに、
知る必要もない時刻を待受けで確認した。

台所に行ってコップにハチミツ水を注ぎ、
渇いた喉へ一気に流し込んだ。
それから、畳の上で
沈黙し続けているバケツを振り返った。

黒い出来物は枝にくっついて、
僕の背景の一部になろうとしていた。
頭の中ではもう、
黒いままの蛹を
どこかの土手に
埋めに行く予定を立てていた。

バケツに敷いていた新聞紙を千切って
枝からもぎ取った蛹をそっと乗せた。
蛹の腹が僅かに殻の中で動いた気がした。


まだ生きていると感じた。


蛹の薄い殻を剥しにかかると、
さっきよりも強く体を引き攣らせた。
中からは、
縮まったままの翅の中に
脚も丸め込まれてしまった状態で
乾燥した蝶が出て来た。

僕に無理やり裸にされた蝶は、
新聞紙の上で仰向けになったまま、
ミイラのようにじっとしていた。



何故、この個体には、
この未来が用意されたのだろう。



別の過去ならあったはずだ。
僕が観察をしないと決めたなら。


しばらくしてから、
台所のシンクの淵にハチミツ水をたらし、
蝶の口吻を楊枝で伸ばしてミツを飲ませた。
蝶はすぐに、
雫にもならない茶色い排泄をした。
それから死ぬまでの十一日間、
立つことも飛ぶことも
寝返りすることもできない蝶は、
折り畳まれたフェイスタオルの上で、
僕にミツを貰いながら生き延びた。

こんなプログラムが
実行されてよかったのだろうか。

それとも僕はこうなることを、
僅かに期待していたというのか。
僕に観察され続けたこの蝶は、
いつかの僕なのかもしれなかった。
今この時の僕は、
いつかの蝶のはずだった——


僕は、パソコンに取り込んでいた
今までの羽化不全フォルダを、
コントロールAとデリートキーで空にした。
この行為自体、
束の間の自慰的快楽に終始した
自尊への逃避でしかないのではないか。
そう思ってすぐにコントロールZで
何事もなかったかように
見せかけようとした。
結局次に生まれたこの行為も、
消去しようとした動機の
延長線上でしかなくて、
これらは全ていつかの僕らが、
どれが正解かを知り得る手立てにすら
ならないだろう——



単に部屋の隅に
放置したままになっているバケツを
見詰めていただけのはずだった僕は、
ほんの束の間ここを離れて
浮遊していたようだった。

このついさっきまでの回想は、
僕が本当はまだ
経験していない明日や明後日の
ことであるかのような気がした。

だが、パソコンを開けば
例のフォルダには
あの蝶が消されずに残されているだろうし、
敷きっぱなしの新聞紙の角も
すでに千切り取られたものだ。

さっきまで見せられていた歪な映像が、
砂のようにさらさらと
音も無く崩れ去っていった。
僕の薄暗い部屋は、
いつもの四十五回転盤による
潤沢な協和音で満たされていた。


こうなった僕がここに存在するという結果を
招いたプログラムは、
なかよし学級での体験が
ひとつの動因となって発動された節がある。


小学校舎の一階の一番奥の教室を、
僕らは「なかよし学級」と呼んでいた。
普通学級で学んでいくには
難しい人たちを
受け入れる学級だったはずだ。


僕は二年生の終わり頃から
担任の先生や校長先生に、
なかよし学級へ通うことを勧められていた。
普通学級のまま三年生の春を迎えた頃、
一週間だけ、
五時間目の授業を
なかよし学級で過ごすという
体験学習のようなことをさせられた。

僕は知的発達の遅れは
認められなかったので、
五時間目のなかよし学級の時間は、
大人しくひとりで
ドリルを解くことになっていた。

なかよし学級の担任をしている
信岡先生には、
目には見えない目が付いているのか、
僕がドリルから顔を離して
視線を向けるだけで、ほぼいつも、
こっちを振り向いた。

白髪交じりの、
かといってその頃の僕の父と
然程変わらなそうな年齢だったと
記憶している。
目の下の涙袋と、
幾音もの響きを持つ
悠然とした低い声が印象的な人だった。

「□□(せかい)こん虫はくぶつかん」

僕が漢字ドリルの空欄に
世界を埋めた直後、
頭上の深いところで声がした。

「堀戸さん。昆虫なら、
 この教室にもいるんですよ」

はっとして顔を上げると、
落ち着き払ってドリルに目を遣る
信岡先生が立っていた。
彼は、僕の視線を誘導するように、
窓際の透明な虫篭に目を向けた。
そのとき、
黒板の前で「ウーウ!」と
陽気な声を弾ませながら
白痴であるらしい男の子が
飛び跳ね出した。

彼が跳ぶ度に彼の両腕は、
上に伸び上がったり横にうねったり
ぶらぶら体に纏わりついたりしていて、
彼の意志とは関係なく動く様に
若干の恐怖を覚えた。
信岡先生はそっちを振り向くと、
その男の子の目を見て大きく一度頷いた。

すると男の子は、
笑うような表情をして
歌でも唄っているかのように
「ウーウウー」と波のある声を上げながら
頭を左右に揺らし始めた。
じっと彼の方を見続けている信岡先生を
一瞥してから、
僕は窓際の飼育ケースに近づいていった。


中にはキャベツの葉が
何枚か敷かれていて、
その上を一匹の小さな幼虫が
あたふたと這い回っているのが見えた。
よく見るともう一匹、
重なったキャベツの裏側から
葉の端っこを器用に
食べ進めてている幼虫がいる。
どちらも全体的に
黄色く透けた体をしていた。
食事中の幼虫は頭の辺りだけ、
食べたキャベツの色で
緑色っぽく濁って見える。


飼育ケースの横には、
スケッチブックが置いてあった。
表紙には
「モンシロチョウのせいちょうきろく」
と書かれている。
中を捲ると、
一枚目にはおかっぱ頭の女の子が
机に向ってなにか
書き物をしている後ろ姿が描かれていた。
その絵に不意を衝かれた僕は
笑ってしまった。
上手いのだ。
画というより、
たった今水から引き揚げた
モノクロ印画紙のような艶やかな筆致が、
描かれた世界への没入感を増幅させる。
その世界のモデルを、
僕はすぐに見つけ出すことが出来た。
教室の一番前の窓際で、
おかっぱ頭の女の子が、
まさに画の通りに
今も何やら書き物をしていた。

次のページを捲ると、
信岡先生が描かれていた。
隣には、ついさっき檀上で
唸り声を上げて飛び跳ねていた男の子が
描かれている。
信岡先生が、
彼の背中に手を当てながら
寄り添っている画だ。
男の子は、
撫でられて気持ち良さそうに
擦り寄る犬みたいに、
先生のほうへ
広くなった額を突き出しながら
目を閉じて笑っている。
先生の右手と男の子の右手が繋がっている。
誰が描いたのだろうと思いながら、
次々に画を捲っては
教室にいるモデルと照らし合わせていく。


僕が辺りを見回していると、
目の合った信岡先生が近づいてきた。
画の中で先生の隣にいた、
あの壇上の男の子を連れて。
男の子は先生に背中を摩ってもらって
気持ちがいいのか、
全身を軽やかに弾ませて歩いてくる。

「ヒョーウ!」

男の子は僕の目の前へ来るなり
突拍子もなく叫んだ。
喉を介さずに
頭上から発っしたような
弛緩した声が辺りに響く。
彼と目が合ったが逸らせてしまった。
悪いことをした気がして、
もう一度視線を向けたが、
彼はもう窓の外を見て
別世界に感じ入っているようだった。


信岡先生が、
彼の背中を摩りながら

「島さんが描いてくれた画です」

と言って、
僕の腕に広げられたスケッチブックを
覗き込んでいる。

「島さん画が上手いから、
 蝶の成長を画で
 記録していってもらおうと思って、
 このスケッチブックを渡したんですけど、
 蝶には興味がないようですね。
 代わりに
 なかよし学級生のみんなを
 画にしてくれました。
 島さんはね、
 実物を見ながら描くんじゃなくて、
 自分の中の記憶だけで写生するんです」

信岡先生はそう言うと、
教室の後ろの黒板に向って
チョークで人物画を描いている
僕と同い年くらいの男の子を見遣って
嬉しそうに目を細めた。
張り出た涙袋が艶やかに光っている。
すると急に信岡先生の横で男の子が

「オーゥパ!」

と言い放って窓の外を指差した。
僕も外を見遣ったが、
何の変哲もない運動場が
広がっているのが見えるだけだ。
校舎と運動場の間を流れる用水路の脇で、
自生する草花が風に靡くのが
目に付いたぐらいだった。

信岡先生も同じように窓の外へ視線を送り、

「寺井さんは何を見つけましたか」

と言って目を細め、
より一層涙袋を輝かせて笑った。
僕は、隣に居た白痴の男の子に
「寺井さん」と呼びかけた信岡先生を見て、
「この先生は本当のことを
 知っているのかもしれない」と
何故だか強くそう思った。


暫く三人で外を眺めていたら、
信岡先生がふと気づいたように
僕の方へ向き直ってこう言った。

「島さんのスケッチブックに、
 近々新しい作品が仲間入りしますよ」

僕の体験学習は、
あっという間に終わった。
結局僕は、両親の意向もあって、
普通学級のまま在学することになった。
ただ、体験学習をきっかけに、
毎日休み時間になると
なかよし学級へ
蝶の観察をしに行くようになった。



【YouTubeで見る】第11回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第10回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第12回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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