見出し画像

第12回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~0でも1でもある状態、 「僕には空っぽのゼロが残って見える」~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第十二回



例のスケッチブックには、
信岡先生の言った通り、
飼育ケースを覗き込む
僕の横顔が新たに加わっていた。

その次のページにももうひとり、
一年生ぐらいの女の子が
飼育ケースを置いている机の端で、
退屈そうに
寝そべっている姿が描かれていた。

その女の子は昼休みになると、
どこからともなく現れる。
僕が観察している隣に座って
頬杖をついきながら本を読む。

ヘレンケラーとか、
ライト兄弟とかいう題名のついた
伝記の本をいつも持ってきていた。

この少女も普段は
普通学級で学んでいたのだろう。
いつも僕に奇妙な質問をして、
そんな質問をすることにも飽きると、
机の上で本を台座にして腕を組み、
眠たそうに
飼育ケースの様子を見守りながら
うとうとし出す。


この日僕は、
担任の先生や信岡先生の厚意で、
朝から一日中モンシロチョウの観察を
していいことになっていた。

前日の観察記録からすると、
明日には蛹から羽化する可能性が高いと
信岡先生が判断したからだ。

羽化予定当日の朝は、
羽化を遅らせておくために
理科室の保冷庫に
安置していた飼育ケースを、
信岡先生と取りに行くところから始まった。

僕はひんやりと冷たくなった
飼育ケースを胸に抱いて、
卵を温める親鳥のするように、
自分の体温を思う存分使いながら、
なかよし学級へと続く
長い廊下を歩いていた。

教室に着くと、
例の少女が既にいつもの場所で
伝記を読んでいる姿が目に入った。
昼休み以外の時間に伝記の少女を、
しかも僕よりさきに
いつもの場所に座っているという状況に
僅かな違和感を覚えた。

だがそんな些細なことは
すぐに意識から外れ、
僕は抱えていた飼育ケースを定位置に置き、
観察を始めた。

ケースの中には、
模造紙を丸めて作った二本の棒が
斜めに並列して立てかけられていて、
その二本の棒の間に、
蛹の付いた中木の板が張り付けられている。

いつものように、
何一つ見逃せるはずのないほどに、
僕は蛹を一心に見詰めていたんだと思う。
そんな僕に向って、伝記の少女が質問した。

「さっきからどこも変わらないのに、
 見てて飽きないの」

少女からの唐突な質問に反応して、
僕は一瞬
飼育ケースから目を逸らしてしまう。
僕には質問の意味が
よくわからなかったから、
正直に「わからない」と答えた。
少女は続けて

「飽きてるかどうかがわからないの?」

と尋ねるので、
僕は「それもそうだし、
飽きる感覚もわからない」と、
蛹を見続けながら答えた。

すると、少女は静かになった。
また伝記を
読み始めたのかもしれないと思った。


不意に教室の時計を確認すると、
十一時半を回ったところだった。
時計はいつも同じ速度で
時を刻んでいると習ったけれど、
この頃の僕には、
まだそのことが理解できなかった。
現に、朝からもう
三時間以上が経過していた。
アナログ時計を見詰めていると、
なるほど一定速度で
進んでいるように見えるのだけれど、
目を離して
時計の存在を忘れてしまった途端、
彼らは猛スピードで
回転し始めるんじゃないだろうかと、
小三の僕は夢想していた。
デジタル時計ならもっと一瞬で、
僕が見逃した隙に、
表示するセグメントを変えるだけだ。


飼育ケースの中の二つの蛹は、
引き続きじっとしたままのように
振舞っていたが、
時々幽(かす)かに左右へ
浮つくような素振りも見せていた。
気のせいだと言われれば
納得してしまう程僅かに。


また伝記の少女が呟く。

「読んでるかどうかわからないけど、本。
 でもたぶん読んでるの」

一拍置いてさらに続ける。

「文字がたまに邪魔をして、
 私の『読む』を。
 だからしょっちゅう見過ごすの、物語を。
 でも読むには文字が必要だから、
 残念だけど読んでるの文字を、たぶん」


少女はそう言い終えると、
赤い字でファーブルと書いてある
手元の本に視線を落とした。
僕は黙って聞いていた。
少女にとってはそうなのだろうと思った。
何故そんなことを
僕に話すのかという疑問は、
そのときの僕には浮かばなかったし、
もっと言うと、
少女が何を話していようが
気に留めなかった。
読むことに苦難している少女は、
飽きるが分からない僕と、
どこか似たものを感じたのかもしれない。

そういうことを今の僕は
思い出して推察することができるが、
それすら然程の意味はない。


引き続き僕は蛹をとめどなく見詰め続けた。
多分変容を期待して。
次に何かが待っていなくとも、
僕は相変わらずこの調子でこの蛹を
見詰め続けることができるだろうか。
わからない。
僕が白痴だったらばどうだろうか。
わからない。
分からないというのは、
これが小三の僕の声なのか、
今の僕の声なのかどうなのかということ。

とめどない観察は
小三の僕が遂行しているのか、
今の僕が思い返しているだけなのか、
わからない。


中木の板にくっ付いていた
向って右側の蛹のしっぽが
突然ぷりぷり揺れ始め、
蝶と殻の間に隙間が出来始める。
中の蝶は脈打つように体を膨らませ、
背中の上部をぱっくり割り裂く。
蝶の変容する速度に圧倒される。
そんな僕にはお構いなしに、
左側にくっ付いていた蛹も
端を切ったように体を揺すり始め、
あっという間に背中の殻が割れる。

尻から頭へ順繰りに筋肉を動かし、
伸びては縮み、上を目指す。
ぐらつく体を脚で支えながら、
漸く殻から全身を押し出す。

尻の先にはくすんだ黄金色の水滴が
ぶら下がっている。
模造紙をよじ登り、
定位置を見つけたらしい蝶は、
反り返って縮れた翅に体液を送り込む。

肛門にぶら下がっていた
老廃液の雫が音も無く落ちる。
左側の蝶もきっとそんな展開をして、
ケース越しに見詰める少女を
映し返している。


少女が言った。

「蛹は蛹じゃなくて
 モンシロチョウだったの」

へんてこな質問を食らって、
僕の頭が僅かに膨張した。
続けて少女は訊く。

「この、翅を乾かしてる
 モンシロチョウは蛹でもあるの」

僕は口から出るに任せて
ぼちぼちと応える。

「蛹は蛹だったし、
 蝶は蝶だけど、
 蛹でもあるし
 蝶でもあるような状態のときもある」

どうだろうか。
正解だと言えば正解だろうか。

「じゃあ今は。
 今この蛹はゼロになっちゃったの」


少女はゼロと言ったのだろうか?
少女は僕の疑問符に気づいたかのように
続けて話す。

「蛹ひく蝶でゼロ。
 ね?ゼロになっちゃうんでしょ?」

少女のゼロ主張に違和感を覚えたが、
小三の僕には説明できそうになかった。
だからただ、

「僕には空っぽのゼロが残ってみえる」

とだけ言って、
少女のゼロ感を尊重したつもりだった。

「空っぽのゼロ・・・へんなの」


受け入れられなかったようだ。
僕はそれには何も答えず、観察に戻った。

これが僕にとって初めての
蝶の羽化観察だった。
飼育ケースの頭上から
ぱっと羽ばたいたモンシロチョウは、
何処から見ても揺ぎ無く
モンシロチョウだった。
幼虫や蛹だったころの面影は
微塵も感じられなかった。
そのまま二匹の踊り子は、
躊躇うことなく教室の窓をすり抜け、
青い風の中へ消えていった。


それからすぐに僕は、
飼育ケースの蓋を
開けていたことを後悔した。


その辺りから記憶が曖昧になってくる。
隣に居た少女も僕と一緒に、
飛び立つモンシロチョウを見届けたのか、
途中で帰ってしまったのかも覚えていない。

飼育ケースに残された二つの抜け殻を、
僕ひとりで引き続き見ていた気もする。

変容から置き去りにされた抜け殻が、
僕の心臓目掛けて静かに膨張してくる。

僕の心臓は待ちきれずに、
巨大化したその抜け殻へ、
片手を伸ばして喰ってしまった。

それから今まで、僕の心臓辺りには、
空っぽの蛹が二つ分、
血液の循環とは無縁のまま
静かにその時を待っている。

蛹の中の空っぽは、
次の場所を見つけたようだ。
けれどその時を迎えずして、
僕の肉体が死んでしまったら、
僕の心に出来たその空っぽは
どうなるのだろう。
ここに存在し続けるのだろうか。
そうだとしたら、
空っぽはゼロではないことになる。
空っぽも無くなってしまうのだとしたら、
そんなものは最初から、
存在していたことを
確認しようがなくなるだけだ。




「そろそろ寝てしまおうかな」

僕の心の呟きに、早速脳が反応して、
強烈な睡魔に襲われ始めた。

朦朧としながら布団を敷き、
突っ伏してしまうのを堪えて
四つん這いになりながら
レコードプレーヤーと間接照明を
消しに行く。

音から醒めた僕は、
ひんやりと涼んだ布団に
顔を埋めるようにして、
素直に深い眠りに就いた。



YouTubeで見る】第12回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第11回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】第13回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?