【創作大賞2024応募作・恋愛小説部門】砂の城 第8話 絡まない糸
焦げた卵焼きを食べた後にようやくお米が炊き上がる音が聞こえた。
「そう言えば、マキって何の仕事してるんだっけ?」
やはりこの質問が来たかと私は軽く身構えた。決して他意があるわけでは無い。単純に『彼女』から聞いたかも知れないが、今は記憶がないからもう一度聞きたい。そんな所だろう。
「うーん……あまりいい仕事じゃないんだよね。ほら、私って両親亡くなってているからお金貯めるのに必死だったし」
「マキも両親居ねえのか……そっか、ごめん。嫌な事思い出させちまったな」
忍は我が事のように目を伏せて申し訳無さそうに小さく頭を下げた。
父さんは他界しているが、母さんは品川区にある実家にまだ一人暮らししている。でも会うつもりは無いし、忍を勘当した時点で私の中で母親という存在は消えていた。だからスルリと両親は亡くなっていると言ったのだろう。
「親の話はいいよ。私は、キャバクラで働いているの。もう少しお金を貯めたらきちんと違う仕事に就くつもり」
何かいい言い訳に使えそうな仕事を模索したが、勘のいい忍には多分時間の問題でバレてしまうだろう。後から言及されるよりも正直に伝えた方がいい。
先に両親が他界していると話した事で、キャバクラについて特に言及はされなかった。
「俺、ああいう世界って知らねえけど、変な男に触られたりしてないか?」
「ううん、そういうのは無いよ。よく誤解されるんだけど、キャバクラはお触り無いし。ただ、隠れてやってる人は居るけど。多分、別料金なんじゃないかな?」
「俺以外の奴が、マキに触るのは嫌だな」
忍は私が『彼女』であると本気で信じている。そりゃあ、彼女がキャバクラで働いていると言っていい顔をする彼氏は居ないと思う。
いくらお金を稼ぐためとは言え、客観的に見てもあまりいい印象では無い。多分噂が独り歩きしている所為もあるだろう。
「私は掃除と中の雑用してるだけだから、フロアに殆ど出てないの。例えるなら飲み屋のバイトよりも給料がいいって感じ。だから、私が誰かに触られる事は全然無いよ?」
「それでもな……マキは可愛いから──知らねえ男にめっちゃ妬ける」
忍の顔が近い。首筋に彼の吐息が軽くかかった。そのまま軽く皮膚を吸われたと思いきや、すぐに離れた唇は次に私の唇を塞いでいた。
元々私はタバコを吸わないので、忍の舌が触れる度に口の中が少し苦い。でもそれが彼の存在を確かめられるようで嬉しい。
台所で抱き合ったまま、私達は互いの唇を無言で啄んでいた。忍にきつく抱きしめられ、自然と身体の熱が燻る。
「マキ、あのな……」
私の瞳は蕩けて完全に潤んでいた。このままいいムードで抱かれるんだろうかと淡い期待を抱いていたのだが、忍から出た言葉はとんでもないものだった。
「ごめん……俺、どうやって今までマキを抱いてきたのか、何も覚えていないんだ」
そんなことを律儀に言うなんて、忍は本当に真面目な人だと思う。記憶喪失なのだから抱き方を忘れているのは当たり前だ。
そもそも、嘘で塗り固めた偽りの関係なので、私が忍と抱き合った事は無い。せっかくのいいムードだったのに、私は忍の言葉にふっと吹き出してしまった。
「やだ、もう全部台無しじゃない。お互い気持ちよくなれたら、それで良いじゃない?」
「そう、だよな。男として満足させる自信が無くて、つい変な事言っちまったな……マキのいい所、少しずつ探していけばいいか」
「うん、私も、忍と探したい。お互いに気持ち良くなれるコト」
両手を絡めて何度も甘いキスをしていたのだが、私の高ぶる熱とは正反対に、忍の身体は冷めていた。それが彼の気質的な低血圧の問題なのかと思ったが、どうやらそれだけでは無いらしい。
場所を変え、ベッドの中でじゃれあいながら互いに身体を触れても忍の雄は全く反応を見せず大人しいままだった。
それが彼自身にも不安を与えていたようで、私を最後にもう一度きつく抱きしめ、小さな声でごめんな。と呟いた。
性行為が出来なくても気にしない。これからもただ一緒にいられたらそれだけで良いのだ。
しかし、この時呟いた彼の言葉が別れになるなんて──私は思っても居なかったんだ。
────
忍が玄関に向かう前にもう一度私に触れるだけのキスを落として微笑んでくれた。それから2回私の頭を愛おしそうに撫でてくれた優しい手のぬくもりがまだ残っている。
ひとりになった私は、忍のぬくもりを思い出しながら、幸せな気持ちでよく眠れた。
しかし、全く意図していない問題が発生した。何度連絡しても忍の携帯は不在になるのだ。無慈悲な機械音声が応答するだけ。
言いようのない不安に駆られ、何度も何度もLINEも送ったがそれも未読のままだ。
「どう……して」
何がいけなかったのだろう。まさか、勃起しなかった事が彼の心を傷つけてしまったのか、それとも私の身体で気になる点があったのか、または私の言動で麻衣だと気づいてしまったのか──?
頭の中でぐるぐると考える程、思い当たる節はいくらでも出てくる。
それでも、無言でまた離れていくのは辛い。せめて、離れるのなら何が悪いのか、何故私ではダメなのか明確な理由が欲しい。
「嫌……嫌だよ、忍……」
忍が家から出て丸3年間、お金を稼ぎながらとにかく彼の痕跡を探し続けてやっと会えたのに、また私の手のひらから消えていく。
部屋には彼が残したマルボロの吸い殻が残されていた。さっきまで間違いなく彼は、ここに居たのだ。
私は両手で頭を押さえたまま、部屋から一歩も動けなくなっていた。
いつまでそうしていたか全く覚えていない。日が落ちかけてきた様子を見て新宿に戻らないと、と頭の中でぼんやり考えても、身体はピクリとも動かない。このままではダメだ。集中出来ないまま働いた所で、また怪我をしてしまう。
私は震えて声にならない声で店長に電話をかけ、その日初めて仕事を休んだ。電話を切った後も指先の震えが一向に止まらない。
身体の中は熱いのに、まるで全身の体温を失ったように強烈な寒気を感じた。
これが、大切な物を失った恐怖なのか。
忍と再会した時に、私が始めから麻衣だと。妹だと告げていたら、この結末は変わっていたのだろうか──?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?